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お前が神を殺したいなら、とあなたは言った  作者: ふじやま
無関係であるという関係があると定義することは詐術なのか
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アルール歴2180年 10月11日(+34日)

――カナリス特捜審問官の場合――


「……やれやれ、だな」


 うっかり愚痴を声に出したことを恥じつつも、私はもう一度目の前に広げた手紙に目を通し直した。手紙の送り主はハルナ3級審問官。内容は実によく整理されており、誤解のしようもない。だがそれだけに、なんとも言い難い頭痛がする。


『なにひとつとして教理上の問題はなく、審問会派がコメントすべきことは何もない』


 手紙の最後に「追記」として別紙添付されたハルナの感想文(・・・)は、私の頭痛の核心を突いていた。


『そしてそれこそが、サンサ教区で何かが起きていることの証拠ではないだろうか』


 まったく、危ない橋を渡るものだ。いろいろとアクシデントもあったようだが、ハルナはどうやら「何かが起きている」その中心に飛び込み、完全に浸透することに成功したようだ。


 サンサ教区で起きていることは、控えめに言っても、革命的の一言に尽きる。


 正式な司祭が一人監督するだけで、豊穣の儀式を(その達成規模は本式の儀式に劣るとはいえ)達成してしまったこと。

 竹簡の構造を活用した、素人による聖書の組織的な複製。

 どちらかだけでも、今後100年の宗教世界に影響を与えうる変革だ。


 それだけに、ハルナ3級審問官の感想(・・)は的を射ている。


 これほどまでに大きな改革が起きるとき、そこにはなんらか、審問会派が厳重な注意をなすべき事案が起きる。こればかりは「何かを変える」「新しいことを始める」にあたっては、まず間違いなく発生する状況だ。

 こちらとしても改革を否定したいわけではないから、いきなりその変革の枝葉末節を掴まえて「これこれこういう違反があったのでお前たちは異端であり全員火あぶりだ」と言うようなことは、しない。

 けれどその枝葉末節において教理上の問題があるようなら、審問会派はその問題を指摘し、改善するように要求する。その改革がどんなに有益でも――むしろ有益であればあるほど――ここを甘く見ると枝葉から異端の浸透を許し、改革そのものを腐らせるからだ。


 だがサンサ教区で起きている改革には、これまでの改革にはつきものだった「細かな違反事項」が、なにひとつ見つからない。

 もちろん、改革の本筋においても、なんら教理上の問題はない。


 つまり、サンサの改革は、あまりにも完璧すぎる。


 改革とは、つまりは試行錯誤だ。主目的を達成するために様々な施策を行い、そのうちいくつかは上手くいき、いくつかは失敗し、また上手くいったうちのいくつかには教理上の問題が残ったりする。

 それはそういうもの(・・・・・・)であり、そうやって無数の間違いと失敗を繰り返しながら、より良い信仰を実現していく――それが、完璧ならざる人という存在にできる、限界なのだ。


 けれどサンサ地区で起こっている改革には、失敗の形跡もなければ、間違いもない。

 あたかも「これをすれば、こうなる」ということが事前に分かっている人間が指導しているかのように――極論を言えば未来がどうなるかを知っている人間が采配しているかのように――無駄も隙もない。


 こんなことは、人間には決してなし得ないはずなのだ。


 だが、「サンサの改革は完璧すぎるから異端の影響が憂慮される」などと言い出すわけにもいかない。


 そも、大貴族たちは教会からの祝福をもとに、「神に認められた完璧な統治」を(途中に人間が関与するから若干の瑕疵は発生するにしても)行っていることになっている。

 従って「完璧だから異端の疑い」と言い出すのは、教会と世俗の関係性そのものに対して疑念を突きつけることになる。


 そんな危うい主張だからこそ、ハルナは追記における感想(・・・・・・・・)として、その主張を別紙添付してきた。「ちなみにですけど、超越的無謬説に立てば、世俗において完璧であることと異端であることは両立し得ますよね」という「追記その2」については、見なかったことにしよう。


 ハルナの感想文を暖炉に投げ込みながら、私はもう一度「やれやれ」と呟く。

 それから、2度目の「やれやれ」の原因となった書類を手に取った。


 分厚い羊皮紙の束になったそれ(・・)は、ジャービトン派のお偉方から直接拝領した「調査報告書」だ。

 ハルナの手紙とは正反対に、無駄な修辞が駆使された極めて非理論的なこの報告書が訴えることを簡単にまとめれば、「サンサ地区のニリアン領で異端が活動しているのは自明なのだから、一刻も早くニリアン領を根こそぎ討伐すべきである」ということになる。

 当然だろう。ジャービトン派にとってみれば、豊穣の儀式や聖書の複製といった「己の特権を裏付けるもの」が、よりによって貧農の群れによって達成されてしまうなんてことは、断じて許せないに違いない。


 しかしまあ、いくらなんでもこの報告書は、ひどい。「厳格かつ抜本的な対処」を求めるわりに、その理由としては自明(・・)だの明白(・・)だの、きょうび見習い審問官でも使わない言葉が並ぶだけ。

 これを提出してきたジャービトン派の愚か者が激高するところを見れるなら、「サンサ地区に異端の形跡なし」という報告を出したくなるくらいには、苛立たしい。ハルナの疑念に従ってサンサ領の調査を進めればこの愚物どもが大喜びすることになるという構図もまた、実にイラッとくる。


 私は深々とため息をつくと、辛うじて「やれやれ」という言葉を飲み込む。やれやれ。


 と、そのとき窓の外から「ドスン」と何か重たいものが落ちる音がした。

 ああ――そうか。今年もそろそろ、この季節か。


 私は席を立つと、毎年恒例の講義が行われている中庭を見る。

 中庭にはたくさんの審問官見習いが集まっていて、塔のほうを見上げている。塔の最上階には実験を主催するボニサグス派の司祭がいて、彼は大きな鉄球と小さな鉄球の2つを抱えていた。


「さて、ベッラ見習い!

 今度は塔の上にいるハーマン司祭が、大きな鉄球と、小さな鉄球を落とす。

 答えよ、このどちらが先に地面に落ちるか?」


 講義を進めるのは老マルタ。私の師匠だ。

 指名されたベッラ見習いは、「同時に落下します」とキビキビ返答する。


「そうだろうか?

 ではハーマン司祭、実験の開始をお願いする」


 塔の上のハーマン司祭は軽く頷くと、鉄球を手放した。

 2つの鉄球は重たい音をたてて、ほぼ同時に地面に落下する。


「見ての通り、またベッラ見習いの主張の通り、2つの鉄球はほぼ同時に落下した。

 ほぼ(・・)と留保したのは、ハーマン司祭といえども人の子であり、本当に同時(・・)には鉄球を手放し得ぬからだ。これはハーマン司祭の責ではなく、人の子の限界である」


 老マルタの教えを、見習いたちは真剣な顔で聞いている。


「では次の実験に進もう。ハーマン司祭、よろしくお願いする」


 老マルタの指示に従い、ハーマン司祭はいかにも駆け出しといった風情の若い見習いと場所を交代した(若いにも関わらずメガネをかけているのがボニサグス派らしい)。

 ボニサグスの若き見習いはハーマン司祭と同じように2種類の鉄球を持ち上げると、地面に落とす――当然ながら今回も、質量の異なる2つの鉄球は同時に地面に落ちた。


「さて、スヴェン見習い!

 いまの2回の実験をもとに、何が言えるか? 答えよ!」


 老マルタはきびきびと講義を続ける。


「教理の理解、あるいは修行の段階、そのすべてにおいて、ハーマン司祭のほうがその助手の方に比べて勝っていると聞いております。

 よって、この2回の実験から、その人物がどれほど神に近いかに関わらず、神意は等しく地に示されると考えられます」


 そう。この実験は、審問会派にとって重大な教訓を残した実験だ。


 アルール歴1221年、ボニサグス派の司祭フランシスは「司祭が人として優れているかいないかということと、その司祭を介した神意の正統性の間には、関係がない」という説を唱え、「小鳥との対話」という本を書いた。

 けれどもこの説は、当時の審問会派から徹底的に弾圧されることとなった。当時はまだまだ聖職者自身の価値が高く信じられている時代で、社会秩序もその価値観をもとに構築されていたためだ。「カネと色に目がくらんだ腐敗司祭であっても、神の祝福を大地に届けさせることができる」というフランシス司祭の説は、社会の安定を決定的に破壊する可能性があった。


 長い教理問答の末、フランシス司祭は異端と認定され、司祭としての資格をすべて剥奪された上で独房に勾留された。司祭がいつ亡くなったのか、正確な日付はわかっていないことから、この「勾留」がいかなるものであったのかは推察できる。


 しかし時代が下るにつれ、フランシス説の正しさは明らかになっていった。

 その決定的な転機が、1610年に行われたボニサグス派のラナ司祭による「鉄球の実験」だ。ラナ司祭と死刑囚(名前は伝えられていない)が同時に手放した合計4つの鉄球はほぼ同時に着地し、このことは「物体に対する神意の伝わり方は、それを手放した人間がいかに神意に沿った人生を送っているかとの間には、まったく関係がないか、ほぼ関係がない」ことを証明せざるを得なかった。


 「鉄球の実験」によってラナ司祭は辺境に追放されたが、彼女が亡くなる2年前の1618年に、審問会派は正式に自らの過ちを認めた。フランシス説は「少なくとも異端ではない」とされ、公会議によって精査されることが決定。1646年の第56回公会議においてフランシス説は正式に認められた。

 そしてそれからというもの、審問会派の教育過程には「ボニサグス派の司祭らが行う鉄球の実験から学ぶ」という講義が必修として組み込まれることになった。


「神と悪魔が戦った英雄の時代においては、この世にも魔法が実在した。

 そして神意と魔法を区別できぬ者はいる。我らが審問会派の先達たちも、その一人であった。

 確かに、神意と魔法は、その根源は同一であり、つまり神そのものである。

 だが鉄球の実験が示すように、神意はその媒介となる人間を選ばぬのに対し、魔法はその媒介となる人間に依存する。

 つまり、英雄ならざる者が魔法の呪文を唱えても、人ならざる力である魔法を行使はできぬ。

 だが誰がその媒介点となろうとも、神意は地にあまねく満ち溢れる」


 フランシス説の真に偉大なところは、ここにある。

 もはや英雄が望めぬ世界にあって、魔法と神意がどのように同じで、どのように異なるかを明確化することは、その後の社会が迎えた何度かの危機において極めて強力な理論的根拠となった。

 また、「腐敗司祭がなした洗礼の儀式には神意が届かないというならば、腐敗司祭によって行われた洗礼はすべて無効であるのだから、この世には洗礼を受けざる異端者が密かに跋扈していることになる」という決定的な社会不安を回避するにあたっても、フランシス説は教会そのものを救う説となった。


「それゆえに、心せよ。

 我々は世界が公正であることを期待する。

 邪な者が罰せられ、正義を成す者が認められることを期待する。

 だがその期待は、神意を解釈するにあたって、破滅的な先入観をもたらしかねない。

 己が信ずる正しさを捨てる必要は、ない。

 だが己が信ずる正しさをも疑う心は、捨ててはならぬ。

 己が信ずる正しさを微塵も疑わぬというのは、神よりも己の確信のほうに価値があると信じる愚行に他ならない。

 かつてその愚行を糺し得なかった我ら審問会派は、聖フランシスとラナ司祭を辱めるという、取り返しのつかぬ過ちを犯したのである」


 見習いたちに向けた老マルタの説法は、迷い多き私の心にも突き刺さった。


 結局、審問官という仕事は、己も含めた何もかもを疑う仕事だ。

 審問官にとって疑わなくてよい対象など、神以外にありはしないのだ。 

 ならばこそ、疑念あるところ解明しなくてはならない。その行いに政治も名誉も関係はなく、そしてサンサ教区における完璧すぎる改革(・・・・・・・)は疑いの目を向けるに十分な異常性を見せている。


「貴重なご教示、ありがとうございます」


 私はそう呟くと、窓外のマルタ老に向かって頭を下げた。まったく、いつまでたっても師匠には勝てる気がしない。


 私も、サンサ教区に向かおう。

 彼の地では、何か常ならぬことが起きている可能性が、極めて高い。


 もっとも、そのためにはまず私自身がサンサに行けるような準備を整えねばならないし、その仕事量を思うと些か気分が重くなる。だが、だからこそその仕事の第一歩を、いまこの場から踏み出すのだ。


 そう決意して、私はジャービトン派から送られてきた羊皮紙の束を暖炉に投げ込んだ。


 異端者どもよ、覚悟しろ。これが貴様らとの戦いの、最初の狼煙だ!

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