アルール歴2180年 6月30日(+43日)
――ハルナ3級審問官の場合――
「失礼します、師匠」
一声かけてから、師匠の執務室に入る。いつ来てもびっくりするほど綺麗に掃除された部屋は、今日もチリひとつない清潔さを保っている。というか、生活感がないと言ったほうがいいかもしれない。
師匠は入室してきた私にちらりと視線を送ると、すぐに手元の書類の確認作業に戻った。まったくもう、何か一言くらいあってもいいのに。とはいえ愛想のいい師匠というのは想像するだに限りなく不気味なので、このぶっきらぼうさが師匠だよねと思い直すことにした。
ともあれ急ぎ報告することもなし、そもそもこの状態の師匠に何か言っても無反応なのは確実なので、私は執務室付属のミニキッチンに向かい、お茶を淹れることにする。こんなこともあろうかと厨房に立ち寄ってポットにお湯をもらってきた自分を自分で褒めてあげたい。
さすがの特捜審問官だけあって、師匠の執務室はとっても豪華だ。当然ミニキッチンも豪華そのもので、備え付けのお茶は私でさえ思わずため息が出そうな高級品ばかり。嬉しいことにお茶菓子も素敵なラインナップだ。
ということで、今日は最高級のバラディスタン紅茶に、若き天才パティシエとして名高いフィルマン・ブノワのラムレーズンクッキーをあわせることにした。
ブノワのラムレーズンクッキーはバターの風味とラムレーズンの甘みの調和が素晴らしく、かつ、しっとりとして柔らかだ。クッキー特有のボソボソした食感とはかけ離れた奇跡の逸品。伝統あるバラディスタンの最高級茶葉で淹れたお茶とあわせれば、一週間は笑顔でいられるだろう。
茶葉が十分に開いたところでカップにお茶を注ぐ。念のため、2杯用意。師匠は「お湯でもお茶でも一緒だ」とか暴論を吐きやがる野郎なので実に忌々しいけれど、だからといってお湯をカップに入れて持っていくわけにはいくまい。唯一の直弟子としては、なおさらだ。
というわけで最高の香りを放つお茶が入ったカップが2つ、上品なソーサーが2つ、クッキーを2枚ずつ乗せた小皿が2つ。まとめてお盆に乗せて、まずは師匠の机にお茶とお菓子を配膳する。師匠は無言でスルー。はいはい、予想してましたとも。私は自分の机にお茶とお菓子を置いて、椅子にすとんと腰掛ける。
まずはお茶を一口。最高に熟したリンゴを齧ったときみたいに口の中に華やかな香りが充満して、鼻腔をくすぐる。自然と笑みが漏れる。その笑顔のまま、ブノワのクッキーをひとかじり。あー、もう、最高。最高です。完璧。完璧すぎますよこれは。はしたないなと思いながらも、クッキーを飲み込む前にお茶を一口。口の中でバターとレーズンとラム酒と林檎の香りが渾然一体となって、思わずわたしは「ふにゃあ」とだらけた声を出してしまう。いけない。今の私は3級異端審問官。こんなことではダメだ。でも、もう一口。
私が世俗の喜びに浸りきっていると、師匠がコホンと咳払いした。おおっと、いけない。私は表情を引き締め、背筋を正して座り直す。
「ハルナ。最初に言うべきか、最後に言うべきか、それなりに悩んだのだが、最初に説教から始める」
あちゃあ。
「そのブノワのクッキーは、私の私物だ。執務室備え付けのキッチンの備品としては、いくらなんでも不釣り合いだとは思わなかったか? そういう細かなところに日頃から注意を払えないようでは、審問官として生死に関わるぞ」
あ、あっちゃあ……これ、師匠が個人的に買ったおやつだったんだ……師匠はガチの甘党だもんね……
「まあ、いい。もとより君にも振る舞おうと思っていたものだ。
楽しんでもらえたのであれば、私としても嬉しい」
お、怒ってますよね? それすんごい怒ってますよね、師匠?
「が、君はもっと、小さな違和感を大事にする癖をつけたまえ。さもなくば死ぬぞ」
私は神妙な表情で頷く。確かにブノワのクッキーは早朝5時から店の前に並ぶ必要があるという話で、貴族の使用人たちが毎日夜も開けぬ時間から長い列を作っているらしい。その列に審問会派の事務局員が並ぶところは、ちょっと想像できない。であれば、このクッキーは執務室の備品ではないのではないかと疑う――とても合理的な推理だ。
「さて、菓子の話はここまでだ。
これを見給え。君の意見を聞こう」
師匠が机の上の書類をコツコツと叩くので、私はティーカップと菓子皿を持って師匠の執務机に向かう。師匠が示したのは、八名家の名前が縦軸に、週数が横軸に取られた表で、それぞれのマスにはみっしりと数字が書かれていた。
師匠は何か言いかけたが、私は無礼を承知で「少し黙っていてください」のジェスチャー。予断を交えずに純粋に数字だけを見るというのは、こういうときには意外と大事だったりする。
「――デリク家が明らかに外れ値を示しています。
この数値が何の数値であろうが、他家の動向とデリク家の動向は、明らかに違う。
で、先程は遮ってしまってすみませんが、これは何の数字なんですか?」
師匠はクッキーを一口齧って、お茶でそれを流し込んでから、ボソリと答えた。
「各週ごとの、羊皮紙の購入枚数だ。
君の提案どおり、試しに調査してみた」
なるほど。そういえば過ぎ越しのミサの後、大舞踏会からの帰り道で、私はきっと効果があるはずと以前から考えていた調査法を師匠に提案したんだった。
「さすがは八名家が恐れた神童ハルナ、だな。
私ですら、こんな陰湿な調査法は想像すらできなかった」
クッキーをかじりながら、軽く師匠がDisってくる。やっぱ師匠、クッキーの件、怒ってるんじゃないですか!
私はこれ見よがしにお茶を美味しそうに飲んでから、師匠のDis混じりな賞賛に感謝してみせることにする。
「歴代最高の審問官と恐れられる師匠に褒めて頂けて、感激です。わあ嬉しい。
でも実際、私もここまでハッキリと数字の差が出るとは思わなかったですよ。
そっかー、うちの実家は八名家のうち最下位を爆走かー。七名家になるときになくなるのはシャレット家かもしれないですね、コレ」
数値が示しているのは、正確にいえば、各家が週あたりに新たに買い付けた羊皮紙の枚数だ。
八名家ほどの大貴族ともなれば、手紙には基本的に羊皮紙が使われるし、使った羊皮紙はほぼ間違いなく使い捨てだ(庶民は木片に文面を書いて手紙とし、受け取った側はその表面を削って再利用するのが一般的だ。羊皮紙を使う場合も、普通は表面を削って再利用する)。このため、通信量が増大すれば、必然的に羊皮紙の使用量も増える。
もちろん、中にはメッセンジャーに暗号を暗記させ、記録に残らない形で情報を伝達することもあるだろう。でもそこまでやるのであれば、当然ながらそうでない通信だって増える。
「通信の機密が守られることに対して熱心な家でも、通信の量を秘匿しようとはしていない。まさに君が指摘する通りだったというわけだ。
あの舞踏会からこの方、デリク家の通信量は劇的に増大している。
彼らが何かを動かそうとしているのは、間違いない」
師匠の言葉を聞きながら、私はクッキーをかじる。なるほど、甘いものを食べると、なんだか頭がシャッキリする気がする。師匠の甘党は、これが理由なのかもしれない。
「デリク卿ですけど、つい先日、サンサ教区の視察から帰ってきています。
ニリアン卿への公式な慰問と、非公式な謝罪ってのがサンサ訪問の理由ってことになってますけど、どうも現地ではそれ以上の何かがあったみたいなんです」
師匠はお茶を一気に飲み干すと、鋭い目で私を睨みつけた。
「報告でもったいをつけるな、ハルナ3級審問官。君のもうひとつの悪いクセだ」
私は「すみません」と小さく謝ってから、この数ヶ月に渡って個人的に追跡してきたデータを口にする。
「私、羊皮紙の使用量じゃなくて、各家が動かしてる馬車の数をチェックしてたんです。
帝都の内側で起きていることはこれじゃ分かりませんけど、帝都の外に出るとなれば、必ず門をくぐることになるじゃないですか? だから門番の詰め所に審問会派の見習いを配置して、各家の馬車がいつ・何台出ていって、帰ってきたかを記録してもらってたんです。
報告書は後で提出しますが、ここでもデリク家所属の馬車の動きは他家より20%ほど多くなっています」
私の事後報告を聞いて師匠は少し渋い顔になったが、その数字が指し示すことの意味はすぐに理解した。羊皮紙の使用枚数と併せて考えると、デリク卿は帝都内外に対し、かなり大きな働きかけをし続けていると断言できる。
「それと、デリク家についてはもうひとつ、決定的なデータが出てます。
先日、デリク家の馬車隊が帝都に帰ってきたわけですけど、行きと比べて、帰りは馬車が一両増えてたんですよ。デリク卿は何か、ないし誰かを、サンサから帝都に運び込んだんです」
師匠は机に片肘をつくと、握りこぶしを作ってそこに額を押し当てた。長考に入るときの、師匠独特のフォームだ。私も鏡の前で真似してみたことがあるのだけれど、師匠くらい風格とか威厳とか威圧感とかがないと全然サマにならないっていうのだけはわかった。あとあれだ、師匠は私の父より年上だけど、いかにも文官然とした父と違って、必要とあれば自ら剣を振るって異端と戦う武人ならではの鍛え抜かれた体をしているというのも、このポーズが格好良く見える秘密のひとつだと思う。
たっぷり5分ほど考えた末、師匠は机の上の書類をまとめて引き出しに放り込んで、立ち上がった。
「動くぞ、ハルナ3級審問官。
デリク卿が異端そのものであるのか、それとも焦って動いたデリク卿に異端が食い込もうとしているのか、その判断はできない。
だがどちらであれ、我々がやるべきことは明確だ。
これより我々は、デリク卿を監視下に置く。今後しばらく彼が中央政界におけるメインプレイヤーになるのは、現状の証拠から見ても疑いがないからな。
デリク卿の監視は、私が指揮をとる。
ハルナ3級審問官、君にはニリアン卿の監視に向かってもらう」
降って湧いたような大役に、思わず背筋が伸びる。
単独での、監視任務。新米審問官には過ぎた仕事だが、それだけ師匠は私を信頼してくれているということだ。その信頼を、裏切ることなどできない。絶対に。
勢い込んだ私に向かって、師匠は苦笑いする。
「逸る気持ちは分かるが、そんなに急くな。
まずは席に戻って、ちゃんとブノワのクッキーを楽しみ給え。
サンサ教区では、そんな銘菓は決して口に入らぬからな」




