アルール歴2180年 5月18日(+18分)
――ライザンドラの場合――
ギリギリまで緊張しきったアラン君(ニリアン卿の側仕えで、村長の息子さんだ)に呼ばれて、私達は応接室に向かった。帝都から九名家――いや、八名家当主の一人であるデリク卿がわざわざ出向いてきたというのだから、アラン君が緊張するのもむべなるかなだ。
私の記憶が確かなら、デリク卿は武人の家らしく豪放磊落で、気持ちの良い方だ。ただ、いささか女性関係がだらしないのと、賄賂に弱いのが玉に瑕と言われていた。
この2つは往々にして強い相関関係があるから(お妾さんが増えればお手当や養育費が膨れ、そのあたりを公費で賄うのは無理があるから必然的に賄賂に甘くなる)、仕方ないと言えば仕方ない。でも6歳の私の耳に届くほど私生活が奔放だというのはちょっとどうなのかなと思う。
「武の名家」の当主を勤めるというのが、それほどにまでデリク卿の身の丈にあっていないということかもしれないけれど。
全身が強張りきったアラン君の案内で応接室に通されたナオキとザリナさん、そして私の3人を、鷹の目のような瞳をしたデリク卿が一瞥した。してみると、ここに至るまでに一悶着あったのかもしれない。私としては、デリク卿が私に気づくかどうかのほうがよほど気になったが、デリク卿の視線が私からすぐに外れたことから鑑みるに、ナオキの側仕えと判断されたのだろう。
実際、ナオキがデリク卿に挨拶して、話し合いが始まってからというもの、デリク卿の視線がこちらに向くことはなかった。とはいえ彼が私の正体に気づいている可能性もゼロではないので、心構えはしておかねばならないが。
ナオキとデリク卿の交渉は、おおむね五分五分といったところで推移した。ナオキが一介の商人であり、デリク卿がアルール帝国の未来を動かしうる力を持った大貴族であることを思えば、これは驚異的なことだ。
私自身、ナオキの不思議としか言いようがない交渉術は、未だに真似できる気がしない。
第一印象で言えば、ナオキは軟弱で浅薄な、うだつの上がらない商売人に見える。
けれどそう思って上手に出た相手は、気がつけば「貴族の義務」めいたものを押し付けられていて、体面を守るためにもナオキの要求を飲まざるを得なくなる。
一方でナオキが只者ではないと引いて構える相手に対しては、ナオキは無礼というか不敬のレベルでどんどん踏み込んでいく。そして交渉相手が心の奥底に押さえ込んでいた感情を揺さぶってみせる。結果、相手はナオキをパートナーとして信頼するようになる。
これだけならまだ真似できるのだが、ナオキはこれを、ひとつの交渉の間で巧みに使い分ける。これまで何度も練習として、ナオキに適当な商品を売りつける口上を述べさせられてきたのだけれど、何度やっても気がつくと私が彼のセールストークを聞いてしまっている。本当に、不思議というか、気味が悪いとしか言いようがない。
デリク卿との交渉も、ナオキはぬるりと話を前進させ続けていた。
ダーヴの街において彼が最初は賭博というあまり褒められない仕事で財を成したことも、今ではこの地域全体をもっと豊かにすることが目標であることも(そしてそれによってもっと儲けようとしていることも)、何もかもデリク卿からは「君は実に面白いな」という感想を引っ張り出す材料として活用しきっている。
だが今回の交渉の白眉は、デリク卿から「君が複製を提案したという聖書を、私が売ろうと言ったら、君はどうするかね」という一言を引っ張り出したことだ。
ザリナさんが抱えてきた〈原初〉の節24巻のうち数巻を見たデリク卿が、この原始的な方法で作られた聖書に強い興味を示したのは、すぐにわかった。一方でナオキはこの聖書の金銭的価値ではなく、信仰における価値をひたすらに強調し、これは決して売り物ではないことを暗にほのめかし続けた。
こんな露骨なほのめかしを聞いたデリク卿は、当然ながら、「この聖書をどのようにして作るかは、私にも理解できる」と彼に釘を刺しにいった。
でもそれはナオキが用意したいくつもの罠に、真正面から突撃する行為に他ならなかった。ナオキは「そうでしょうね」と軽くデリク卿の言葉を受け流すと、「むしろデリク卿のところでも、これを作ってみてはいかがですか?」と反撃してみせたのだ。
デリク卿は一瞬混乱したようだったが、すぐにナオキの意図に気づいた――気づいたと、思い込んだ。だから彼はナオキに「それは良い提案だ。だがここから竹を運んだのでは高くつきすぎる。我が領地には木材が豊富に採れる土地があるから、その木材を使うとしよう」と言い返した。
デリク卿は、ナオキが竹を輸出して儲けることをもくろんでいると思ったのだ。
けれどこれもまた、ナオキの用意した罠だった。ナオキは大いに感激してみせると、「是非その計画を実現してください」と、わざわざデリク卿の手を握ってみせた。
ここに至ってデリク卿はいよいよ困惑し、ついに白旗を上げた。「無論そのつもりだが、それで君はどうやって儲けるつもりなのかね?」と、ナオキに聞いたのだ。
ナオキの答えは明瞭だった。
「こんな見た目も悪ければ取り回しも悪い聖書が、そのまま売れることなどあり得ない。
でも八名家のデリク卿が〈貧者の聖書〉を作りはじめたとなれば、その原盤となった聖書にだって価値が出る。削った竹にインクを乗せただけのものが、商売人の目から見ても聖書になる。
だから私としては、デリク卿に是非ともこの方式で聖書を作ってほしいのです」、と。
嵌められたと悟ったデリク卿は、せめて自分の損害を減らすためにも――木簡は竹簡に比べて製造コストが跳ね上がる――ナオキに対して「ニリアン領で作られた竹簡聖書を自分が売る」という提案をするほかなかった。自ら価値を認めたものを自ら否定するなど、貴族の誇りが許さないからだ。
かくしてニリアン領で作られる竹簡聖書(おそらくはナオキが言った通り〈貧者の聖書〉の名を得る)は、デリク卿のネットワークを利用して販売されることが決まった。
そこから先は、デリク卿とニリアン卿の交渉となり、結論から言えば「ニリアン卿には上げる頭もないことですし、利益は折半と行きましょう」というところで妥結した。
聖書のような超高額商品の卸売を請け負う側として、デリク卿が示した50%という数字は破格といっていい。ニリアン卿は製造コストを持たねばならないが、デリク卿は宣伝広告や流通といった滅多矢鱈にコストがかかる部分を受け持つ。頑張ったけれど売れなかったときのダメージは、デリク卿のほうがずっと大きい。
交渉がすべて終わったころには、夕暮れを迎えようとしていた。窓からは、夕日に照らされた霊峰サンサの万年雪が、この世のものならぬ美しい赤に染まっているのが見えた。デリク卿はしばしその風景に見とれてから、改めてニリアン卿と固く握手を交わし、それからナオキともがっちりと握手をする。
ナオキも、ザリナさんも、もちろん私も、計画が最高の結果を迎えたことに、思わず安堵の息を漏らした。
けれどデリク卿は、伊達に八名家の一家を束ねる人物ではなかった。
ニリアン卿が「エミル君も是非ご同伴を」とデリク卿に晩餐会の招待をする、その応対の中で、なにげなくナオキに爆弾を投げてよこしたのだ。
デリク卿は、世間話をする程度の表情と口調で、こう言った。
「これは帝都でも極秘案件なのだがね。どうやら先の教皇アレッサンドロ2世猊下が薨去されたのは、啓示があったからのようだ。
しかもその啓示は、看過すべからざる巨大な異端の発生を告げるものだというのが、帝都でのもっぱらの噂だよ」
それを聞いたナオキは、私とザリナさんにしかわからない程度に、しかし私達にとっては露骨なくらい、動揺した。
だからその返事が「それはなんとも、恐ろしい話ですね」という、実に平凡なものだったのも、仕方ないことだったかもしれない。
そして当然ながらデリク卿は、ナオキの返答が凡庸だったことに、何かを感じたようだった。彼は護衛と側仕えを率いて応接室を出る間際に、こう言い残したのだ。
「なるほど、古の儀式を復活させたのみならず、まったく新しい方法で聖書を作り上げた君は、既存の権威にしがみつくジャービトン派はもちろん、杓子定規な審問会派にも睨まれる可能性はある。
だが、それは真の問題ではない。
300年前、この地には異端が跋扈していた。政治的理由から君に異端の嫌疑がかけられることはあるかもしれないが、君なんかよりはずっと老獪で邪悪な異端が、この地には残っているのだ。
異端の嫌疑なんてものは、帝都の政界ではちょっとした脅し文句程度だが、普通の人間には耐え難い重荷だ。そして真に邪悪な異端者は、その手の重荷が人間の心に作り出す隙を見逃さない。
君こそ、その手の連中に利用されないよう、気をつけるべきだな」
デリク卿とニリアン卿が応接室を出ていってからも、ナオキはしばらく無言で何かを考え込んでいた。
ザリナさんがナオキの背中を音が出るほど強く叩いて、ようやくナオキは沈思黙考から戻ってきたけれど、そのときに彼が呟いた言葉は、私の心の底に引っかき傷を遺していった。
「啓示が示した大異端とやらが俺でないなら――俺はいったい、何なんだ?」




