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お前が神を殺したいなら、とあなたは言った  作者: ふじやま
終わりの始まりはいつもそこにあり、なべて世はこともなし
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天真歴19年 9月14日

――ライザンドラの場合――

 美しい日だった。


 空は、雲ひとつなく晴れていた。昨晩激しく吹き荒れた嵐はいつまでもダラダラと続いた残暑をきれいさっぱり拭い去っていて、日差しはいささか強めではあったが、空気には心地よい緊張感があった。


 アシナガジカがケーン、ケーンと遠くで鳴き交わす声を聞きながら、私は彼の部屋に入る。


 彼の部屋は、どこか甘ったるく、それでいてどこか鼻を刺すような、曖昧な匂いが充満していた。どこかで嗅いだような気もするけれど、こんな独特の匂いを忘れるとも思えない、そんな匂い。

 部屋の奥にしつらえられた大きなベッドで眠る彼にちらりと視線を送ってから、私は窓を開けることにした。このぼんやりとした匂いを、秋の気配を含んだ心地よい風が吹き散らしてくれることを願って。


「……夏も、終わりか」


 背後から、しわがれた声がした。

 私は反射的に振り返って、ベッドに向かう。


「すみません、換気をしようと思って。

 寒いですか?」


 彼はまったく焦点のあわない目を、私に向けた。陸に打ち上げられた魚のように濁ったその目は、もう何も見えていないのではないかと思う。


「いいや……寒くは、ない……」


 かろうじて聞き取れるかどうかという程度の、小さな声。

 彼の口元に耳を寄せると、あの匂いがむっと立ち込めた。


 そのとき、私は唐突に理解した。

 この匂いは、死の匂いだ。


 かつて私は、死の床についた祖母の看病をしたことがある。あの陰鬱な3ヶ月の間、ずっと私につきまとっていた、腐敗したような甘い匂い。

 彼から漂う匂いは、祖母の人生がゆっくりと閉じていくあの部屋に染み付いていた匂いと、まるで同じだ。


「夏が終われば……秋だ。

 お前の作った、おはぎが、食いたい。

 作ってくれ……よう子」


 私は困惑を隠しながら、頷く。

 でも「おはぎ」とは何なのだろう?

 「よう子」とはいったい誰?


 それから彼は長い時間をかけて息を吐いて。

 そしてそれが、彼が吐いた最期の息となった。


 彼は、死んだ。


 驚きがなかったかといえば、嘘になる。

 でも驚きよりも、安堵のほうが大きかった。

 彼が長い苦しみから解放されたということに、私は安堵した。

 豪奢な寝台に、壮麗な壁紙に、分厚いカーテンに、それらすべての繊維に染み込んでいた甘い死の腐臭から逃れられるということに、安堵した。


「天に自由を、地に希望を、我らの魂に平穏あれ」


 何万回も唱えてきたマントラを、口にする。世界最大の宗教団体である天真救済教団の教えによれば、このマントラを唱えるだけで故人の魂は天国の門を通り抜ける資格を得るし、また唱えた私達自身の魂も天国に入る価値を得る、ということになっている。

 私自身、そのことを信じてきたし、今も信じている。

 でもなぜか、彼の魂だけは救済されないのではないか、と思った。そして彼の魂を救い得ない私の魂もまた、けして救われないのだろう、と。


 教団の教えに対する根本的な疑問を心の中で弄んでいると、部屋の扉が開いた。私が唱えたマントラで彼の死を察した高司祭たちが、部屋に入ってきたのだ。


「我らが教祖様の魂が、天に還られたのですな?」


 そう聞いてきたのは、最高司祭のデリク卿だ。かつてはアルール帝国の上級貴族だったが、私財をすべて天真救済教団に喜捨し(あるいは投資し)、今の立場を得た男。


 私は短く息を吐く。体の内側に入り込んだ死の匂いを、追い出すために。

 それから決然と頷いた。


「教祖様とお話されていたようだが、教祖様は最期になんと言っておられたのですかな?」


 かねてからの打ち合わせ通りの、問い。

 吐き気がするような問いだが、部屋に染み付いた甘い匂いに比べれば、耐えるのは簡単だ。


「ナオキ教祖様は、2代目の教祖としてライザンドラ祭祀長を指名されました。

 また、教団の管理実務はデリク最高司祭が差配するように、と」


 デリク卿は大げさなくらいに「これは驚いた」という表情を作ってみせた。役者としては大根もいいところだが、これくらいわかりやすければこそ効果的という側面もある。


「その言葉に嘘偽りなきこと、あなたの魂に誓えますかな?」


 デリク卿の言葉に、ためらいなく頷く。


「ナオキ()教祖様のご遺志、しかと承りました。

 ではライザンドラ祭祀長……いや、ライザンドラ教祖様。貴女はナオキ前教祖様の葬儀祭祀を急ぎ進めてくだされ。不肖デリク、我らが天真救済教団の名に恥じぬ葬儀となるよう、万事手を尽くしましょうぞ。

 天に自由を、地に希望を、我らの魂に平穏あれ」


 話は簡単だ。私はナオキ教祖のあとを継ぎ、天真救済教団の宗教面でのトップに就任する。一方でデリク卿は教団の世俗面における最高責任者となる。

 天真救済教団は、もはや大帝国と呼べるほどの世俗的な力を有する。落ち目のアルール帝国など、天真救済教団が本気を出せば物理的に叩き潰すことも可能だ。

 そんな巨大組織の、実務におけるボス。一般的な言葉を使えば、「デリク卿」は「デリク陛下」とでも呼ばれるべき立場に立ったと言える。


 デリク卿と、デリク派の高司祭たちは、あっという間に部屋を出ていった。

 デリク卿は有能な政治家だが、軍事的才能はないし、実働部隊も持たない。このため、教団の教祖親衛隊である蒼牙団や、その下部組織である翠爪団が彼に反旗を翻せば、彼は非常に困ったことになる。


 彼がこの危険なダンスで一歩でもステップを踏み間違えれば(あるいは想定外の不運に見舞われれば)、天真救済教団はいくつもの分派に分裂し、互いに血で血を洗う戦いを始めるだろう。

 その内戦はやがて聖戦となって幾多の無辜の命を奪い、それがゆえに復讐と正義が叫ばれ、流血の量はどこまでも増えていく。

 私の血もまた、この惨劇のかなり初期に流れる血の一部となるだろう。人々は口々に「天に自由を、地に希望を、我らの魂に平穏あれ」と唱えながら、互いに殺し合う。もしかしたら我ら愚かな人間が地上から根絶される、その日まで。


 けれど今は、そんなことはどうでもよかった。


 ベッドの上でただの物体になったナオキは、とても小さかった。

 彼が教壇に立って説法するときは、あんなにも大きく見えたというのに。


 彼の亡骸を見ながら、ああ、私は泣きたいのかな、と思った。

 でも涙は出なかった。

 ただあの甘い腐臭だけが漂っていた。


 だから私は、彼の枕元に膝をつき、祈る。


 心の底から、祈る。


 天に自由を。

 地に希望を。


 あなたの魂に、平穏あれ。



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― 新着の感想 ―
[一言] 最終話を見てからこの話を見ると、感慨深いものがあります。
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