アルール歴2180年 4月10日(+95日)
――ユーリーン司祭の場合――
「まさか、本当に――できちゃうなんて」
目の前に広げた木片を前に、私は思わずそう呟いていた。
ナオキが「村人を使って聖書の複製をする」と言い出してから、3ヶ月とちょっと。もちろん聖書の全文複写はまだまだ無理だけれど、最も重要とされる〈原初〉に収録された25章(合計1226節)の写本は、間違いなく完成した。
ナオキが示した写本製作の方法は、実に驚くべきものだった。
サンサの麓には、竹が大量に自生している。この竹を加工して作った細長い木片――もとい竹片を、糸で連結させて巻物を作るというのが、彼の計画の根本にある。
別段、この技術自体は新しいものではない。というか神々が争った英雄の時代においては、この「竹簡」と呼ばれる方式で作られた書類が大量にあったとされているし、実際その手の古文書は今でも残っている。
が、竹簡はとにかく重い。高級品とはいえ羊皮紙が安定して供給されている現代において、竹簡で聖書を作ろうというのはいくらなんでも時代錯誤というかアホらしいというか、最初にナオキの計画を聞いたニリアン卿が大笑いし私が「冗談でしょう?」と聞き返すような、そういう世迷言の類だった。
いやほらだって考えてほしい。例えばボニサグス派ではしばしば「服を買いに行くための服がない」という冗談が学生の間でささやかれるのだけれど、このわりと真面目な悩みに対して「だったら野生の獣を殺して生皮を身にまとおう」とか言い出す人がいたら、とりあえず薄笑いを返すしかないと思う。
けれど、ナオキは本気だった。そして話を聞くに従って、これが現実的なプランであることも理解できた。
聖書は、大きく4つの「期」と呼ばれるパートで分割され、各期はそれぞれ「章」によって分割される。1章は最も短いもので5節、最も長いと168節の文から成る。
これは逆に考えると、聖書とは合計5762節の文によって構成された書物、と言うこともできる。ならば5762枚の竹片にそれぞれ1節ずつ聖書を転記していけば、あとはそれを順番に糸で繋ぐことで「聖書」が完成する(もちろん現実的な話をすれば、全部で数十巻に渡る巨大な作品となるが)。
つまり。
もし仮に5762人の作業員がいれば、各作業員が手元の竹辺1つに1節を書き写すことで、どんなに慎重に慎重を期して作業を進めたとしても、半日あれば聖書を構築するパーツがすべて完成することになる。
現状、聖書の複写は1冊あたり1人の修道士がかかりきりとなり、だいたい1年で1冊を仕上げるというのが一般的だ。熟練の修道士によって作られた聖書は、内容の完璧な正確さは言うまでもないが、美的にもため息が出るほど美しい。
しかもこれがヴェルディティウス派修道会製作の聖書ともなれば、金箔があしらわれていたり、宝石を砕いて作った塗料で美しく彩色されていたりと、奢侈を好まぬ私でも思わず「ほしい」とうめき声が出るような美術品になる。ジャービトン派の司祭は、ヴェルディティウス修道会版の聖書を持つのがひとつのステータスとなっているらしいが、さもありなんだ。
ともあれそんな職人仕事で作られるのが聖書なので、聖書はとにかく高い。
私が持っている聖書にしたって、曽祖父の代から受け継いできた由緒ある一冊だ――といえば聞こえはいいが、つまりは祖父も父も私も新しい聖書を購入するなどとても無理だったくらいに、高い。
だがナオキが提案した方法であれば、60人の工員が1日2本のペースで書けば1ヶ月半で1冊ぶんの写しが完成する。しかも極端な話、この60人は文字が本当の意味で読める必要はない。ただ、自分が書き写す節だけ読めればいいのだ。
あとは1日に書き写された節を最終的にチェックする司祭が1人(今回の計画では私が担当する)必要になるが、この司祭にしたって1日あたりチェックすべき量はたかがしれているわけで、修道士のように人生を完全に写本に注ぎ込むようなことはしなくてもいい。
かくして何はともあれ聖書複製計画は試験的に実行され、私の目の前には〈原初〉の期の1226節が24巻の巻物となって鎮座している。書かれている文字はあまり美しいとは言い難いし、文字の大きさも不揃いだし、装飾の類は一切ない。しかも全24巻ともなると結構なスペースを取る。
それでも、これは間違いなく聖書だ。
〈原初〉だけの写本というのも帝都アルール・ノヴァに行けばそれなりに流通しているが、それにしたって普通はとても手がでる値段ではない。
そんなとんでもない価値を持つものが、この辺境の寒村において、「試しにちょっとやってみる」程度のプロジェクトのなかから、産まれてしまった。
もしこの竹簡聖書に、相場の100分の1程度の値段であっても買い手がつけば。それだけで、この村の財政は一気に好転するだろう。
改めて第1巻を手に取り、机の上に広げる。
何度見ても、間違いなく聖書だ。
本物の聖書が、ここにあるのだ。
信じがたいけれど、これは幻でもなんでもなく、本当に起きたことなのだ。
「本当に――できちゃうだなんて」
今日だけで何度呟いたかわからない言葉を、また繰り返す。
「それは間違いなく本物の聖書ですよ、ユーリーン司祭様」
背後から聞こえてきた柔らかな声にふと振り返ると、そこにはライザンドラさんがいた。着ている服こそ質素な作業着だが、相変わらず短く整えられた髪と、輝くような肌に、宝石のような瞳があいまって、ため息が出そうなほど美しい。
「そうですね……まだ、どうにも信じられません。
夢のようです。まさか――まさか、こんなことが可能だなんて。
でも、これは夢じゃない。これは間違いなく、現実の聖書です」
竹簡を巻き直し、元の位置に戻す。
これもまた、今日だけでも何十回となく繰り返した作業だ。
「ええ。そしてこれこそ、失礼ながらユーリーン司祭様が正しかった証だと思います」
ライザンドラさんの言葉に、私は思わず強く頷く。
そしてそれから、ギクリとして振り返った。まさか――彼女は、知っているの、か?
「司祭様がなぜこの地に赴任されてきたのか、ニリアン卿からお話を伺いました。
政治的理由から負けを義務付けられていた教理問答において、圧倒的な勝利を収められた。そしてそれゆえに、この辺境の地へと飛ばされてしまった。ついでのように、司祭様の研究成果も学説も、そのすべてが権威によって否定された上で。
でも、ご覧ください。司祭様の御説どおり、知は万人に対して開かれ得るのです」
彼女の言葉は、いちいち何もかもが正確だった。
そしてその正確さは、私を猛烈に苛立たせた。
知と真実を重んじるボニサグスの徒としてあるまじき思いと知りつつ、私は彼女を睨みつけてしまう。
「あなたには関係のないことです」
でもライザンドラさんは食い下がってきた。
「いいえ、関係あります。
こんな言い方をすれば司祭様はお怒りになるでしょうが、私は司祭様のお気持ちが分かります。
その怒りも、苦しみも、恐怖も、屈辱も――そして諦めという鈍い痛みも。
その何もかもが、分かります。
だから、関係なくなんてありません」
ライザンドラさんの真摯な言葉は、またしても私の感情を逆撫でした。
「あなたに何が分かるというのですか!
放蕩の限りを尽くしたがゆえ、これ以上は家名を傷つけるからという理由で修道院に放り込まれた貴族の四男坊!
醜くでっぷりと太ったその男の、無知無学の極みとしか言えぬ教理弁論を、ただその男に実績を与えねばならぬというだけの理由で聞かねばならなかった、その苛立たしさが!
もはや神を冒涜しているとしか言いようがないその言葉を、それでも聞き続けるしかなかった怒りが!
知と理性の意味を、そして先人たちが積み上げてきた研究の価値を、得意げにすべて否定してみせる彼の言葉を、たとえすべてを失ってでも叩き潰さねばならないと決意したその痛みが!
そして私には本当にすべてを失う覚悟などなかったことを思い知らされた、その恐怖が!
挙句の果てに、あのクソデブ野郎よりも無知無学な人々に囲まれ、ゆっくりと朽ちていくしかなくなった、その現実を受け入れる屈辱が!
その何が、あなたに分かるというのです!」
言いながら、私は自分が涙を流していることに気づいた。
そうだ――私は、怒り、苦しみ、恐れ、屈辱に心を痛めたのだ。
人目もはばからず大声で叫び、泣きわめくほどに。
ライザンドラさんは、そんな私に優しく微笑んでくれた。
「私には、わかります。
村の誰がわからなくても。ニリアン卿にも、ザリナさんにも、あるいはナオキさんにすら、わからなくても。
私には、ユーリーン司祭様のお気持ちが、わかります」
だから、なぜそんなことを――という言葉を、私はかろうじて飲み込んだ。
そうだ。そうだった。
ライザンドラさんは、知っているのだ。
理不尽な暴力に蹂躙され、真実を歪められ、知を汚され、何もかもを奪われて苦海の底でひたすら苦難に耐え――そしてそのうち、苦難に寄り添うようにして生きることを選び、むしろ苦難こそを己の寄る辺とするような、そんな毎日の、すべてを。
思わず、赤面する。
司祭として、信徒の心の痛みによりそうのは、最低限の義務だ。
それなのに私は己の惑いに身を任せ、よりによって最もその怒りを向けてはならない相手に、罵詈雑言を浴びせてしまった。
「ユーリーン司祭。どうか私に、この言葉を贈らせてください」
ライザンドラさんの澄んだ瞳が、私の瞳を真正面から射抜く。
「あなたは、悪くない」
ぐっと、喉の奥に何かが詰まった感触があった。
怒りでも苦しみでもない、何かが。
私はそれが外に飛び出してしまわないよう、わななくように言葉を紡ぐ。
「そ、そんな――ことは……」
けれどライザンドラさんは、同じ言葉を繰り返した。
「あなたは、悪くない」
反論しようと思えば、100も200も言葉を吐き出すことはできる。
でもそのすべては、彼女が口にしたたった2つの言葉を前に、まるで無力だった。
「でも、私は――」
ライザンドラさんが、そっと私の手を握ってくれた。
彼女の手は想像よりずっと暖かくて、優しかった。
「あなたは、悪くない」
そこが、限界だった。私は喉の奥に詰まっていたわけのわからない言葉を無秩序に吐き出しながら、ライザンドラさんにすがりついていた。涙は止めどもなく流れ、それでも私の口は言葉を紡ぎ続けた。あたかも祈りのようなその言葉は、自分でも驚くほど、果てがなかった。
ライザンドラさんはそんな私の背中をゆっくりとさすりながら、黙って私の祈りを聞き続けてくれていた。




