アルール歴2179年 12月31日(同日)
――カナリス特捜審問官の場合――
帝都アルール・ノヴァ恒例の過ぎ越しのミサは、いよいよその最終段階に入ろうとしていた。
私は必死でため息をこらえながら、貴賓席のボックスシートからミサの進行を見守っていた。大聖堂には貴族たちが目白押しになっているが、目白押しというよりは孔雀の群れと言ったほうが適切な状態だ。いったい、いつから歴史あるアルール大聖堂は動物園になったのだ。
とはいえ、今のこの状況を望んだのは自分なのだから、愚痴っても仕方ない。アルール・ノヴァで行われる過ぎ越しのミサがこんなものだというのはよく知っていたし、参加すれば不愉快な思いをするのも分かっていたのだが、任務のためには仕方ない――が、ため息のひとつやふたつ漏らしたくなるというのは、偽らざる本音だ。
「師匠、随分と浮かない顔ですね」
私の隣ですまし顔をしているのは、ハルナ3級審問官。白を基調とした見事な仕立てのドレスを纏った彼女は、神学校の審問院でさんざん私に噛み付いてきたお転婆学生からは想像もできないほど、清楚で完璧な淑女だった。
私は背後の扉がしっかりと閉まっているのを確認してから、ハルナに押し付けられた無駄に洒落た扇を口元に寄せて、忌憚ない批評を展開することにした。
「茶番にもほどがある。これのどこがミサだ。芝居に歌劇、舞踊に音楽会。
ここは世界の信仰の中心、神の御胸に抱かれしアルール大聖堂だぞ。
いつからこの大聖堂は下賤な劇場になったのだ」
私の過激な発言を、ハルナは平然と受け止めた。
「アルール大聖堂における過ぎ越しのミサにおいて、初めて寸劇が上演されたのは1999年のことです。当時の社会に蔓延した『帝国2000年問題』、つまり帝国というものは2000年を越えて維持できないのではないかという学説に対し、ひろく庶民にも理解できるような形での説法が必要ということで、ときの法王アレス6世が御自ら指揮されました。
それより師匠、こういうヤバい発言をするときは扇で口元を隠すっていうの、覚えて頂けたようでとても嬉しいです。ハルナ感激です」
ああ、まったく。このやりとりを老マルタに聞かれたら、老マルタは迷わず「カナリスは再訓練だ。ハルナ君は以後2級審問官となる」と宣言するだろう。忌々しさのあまり、思わず私は無意味な反論をしてしまう。
「そんなことは分かっている! そもそもアレス6世は庶民に対して開かれたミサとして寸劇の導入を決定されたのだ! それが、どうしてこうなる!
無駄に豪華なシャンデリア、口にされることなく廃棄されていく食事に酒、金にあかせて身を虚飾で飾り立てた貴族ども!
これを教会の腐敗と呼ばずして、何を腐敗と呼ぶ!」
隙だらけの弁論に、ハルナは素早く反撃してくる。
「師匠、それってまるで、ミョルニル派の野蛮人とか、メリニタ派のイッちゃった連中みたいな物言いですよ。
天井のシャンデリアは帝国が2001年を迎えられたことに対する、ときの皇帝ダリウス10世陛下からの寄付。
食事とお酒は大聖堂の外で開かれている救貧集会に直行。
貴族が夜会で着飾るのは、軍人が戦場で鎧を着るのと一緒です。
私だって別にこのドレス、好きで着てるわけじゃないですよ。っていうかこれ、我ながら不自然っていうか、なんでここまでしなきゃいけないのかなって情けなくなりますもん」
ハルナが着ている白いドレスは胸元がやや開き気味になっていて、比較的つつましやかな谷間がそこから顔を覗かせている。彼女が「なんでここまで」というのは、つまりこのささやかな谷間を作り上げるために、手練手管の限りが尽くされているからだ。
こういう仕事だから、ときに野宿したり、あまり安全ではない宿で同じ部屋に泊まったりして、互いに互いの裸身を見ることも珍しくない(そしてそんなことを問題視する審問会派ではない)が、速度と持久力を最重要視して鍛え上げられたハルナの身体は、彼女が審問会派見習いとなった直後よりも更に少年めいたラインを描くようになった。
ともあれ、私はこのあたりで負けを認めることにする。
「……分かった。私の失言だった。
君のホームグラウンドで戦うのは、あまりにも愚かな選択だった」
ハルナは、帝都アルール・ノヴァにおいて八名家とされる大貴族シャレット家の令嬢だ。幼くして天与の才を発揮した彼女は様々な政治的配慮と策謀の末に、5歳にして教会預かりとなった。彼女の才能はあまりにも抜きん出ており、このまま彼女がシャレット家の当主になれば、八名家のパワーバランスが崩れることが明白だったからだ。
貴様らは子供の人生を何だと思っているのだと怒鳴りつけたくなるような薄汚い政治工作だが、その少し前には同様に「あまりにも才気煥発過ぎる令嬢」を恐れた挙句に九名家が八名家になるような政治闘争にまで至ったのだから、連中も少しは智慧をつけたというところだろうか。
「ホームグラウンドですか……私、他人の人生をコマみたいに扱う人達によくよく愛想が尽きたから、ジャービトン派じゃなくって審問会派を選んだんですけど。
師匠も随分とご機嫌斜めですが、私だって今すぐにでもこんな茶番から撤退したいですよ。実家の兄とか弟とかは盛んに私にちょっかい出そうとするし、あの真面目で誠実なオルセン家を私怨で潰したガルシア家の人たちは私がオルセン家の残党に復仇を乞われたとか真面目に信じちゃってるし、ため息をつきたいのはこっちです。あーあ」
私の敗北宣言を聞いたハルナは、まるで浮かない表情で大きなため息をついてみせた。
「分かった。重ねて負けを認める。
ここは君にとっても私と同様、敵地だ。
だがそれだけに、私としては君の審問官としての働きに、期待するしかない」
敵地という言葉を聞いたハルナは、改めて表情を引き締めた。
上品な貴族令嬢の顔ではなく、怜悧な審問官の顔。
「我々はこの6ヶ月、異端の気配すら掴めていない。
だが、神の啓示が下るほどの大異端は、確実にどこかで跳梁跋扈している。
その尻尾を掴むには、最も情報が流通する場にその身を置くしかない。
だから君に――君の実家に無理を聞いてもらって、我々はこの虚飾の場に来た」
熱弁する私に向かって、しかし、ハルナはすっと人差し指を自分の口にあてがった。その視線は、舞台のほうを見ている。
つられて舞台を見ると、まさに楽団が今年最後の演奏を開始するところだった。
指揮者が指揮棒を振り上げると、歴史あるミサ曲を現代風にアレンジした、壮大で豪華な音の祭典が始まる。
「……でも、師匠が本当に狙っているのは、情報収集なんかじゃあない。
そうですよね?」
扇を口元にあてたまま、ハルナがそう囁いた。
私も同様に扇を口元にあて、荘厳な音楽に紛れさせるように囁く。
「そうだ。八名家のすべてがその才を恐れたハルナ・シャレットが、社交界に姿を表した。そのニュースは、八名家は当然として、帝都の貴族社会を震撼させるだろう。
貴族どもは、ありもしないところに関係性を見出し、そして自らが見出した関係性を現実のものとするべく陰謀を練り上げる。
そして異端者は必ず、その邪悪で歪んだ構図の隙間に入り込もうとする。
あるいは自らが寄生していた船の沈没を予期して、新たな寄生先を探そうとするのだ」
音楽はいよいよクライマックスを迎えようとしていた。
弦楽隊は艶やかな音曲を奏で、管楽器隊は天の栄光を華やかに歌い上げる。シンバルが打ち鳴らされ、太鼓が聖堂を震わせる。馬鹿馬鹿しくも華々しい、1年を締めくくる演奏。
「10! 9! 8! 7! 6! 5! 4!」
ミサ曲の最後を締めくくる喇叭の響きに、観客たちがカウントダウンの声を合わせる。
これもまた、過ぎ越しのミサにおいていつの間にか定番となっていた儀式。
ああ。神のみもとに立ったとき、1年の最後に発した言葉が「天に栄光を、地に繁栄を。人の魂に平穏あれ」ではなく、皆で絶叫した数字だったということを、彼らはどう釈明するつもりなのだろう。
「3! 2! 1!……0!」
ゼロ、の叫びと同時に音楽は幕切れを迎え、新年を告げる鐘が鳴り響いた。観客たちは総立ちになり、拍手喝采する。ここから先は新年最初のミサをすっ飛ばして、大舞踏会の始まりとなる。
だが私はもう、これを酷い茶番だとは思わなかった。
なぜならいま鳴り響いた新年の鐘こそが、我らにとって戦いの始まりを告げる鐘だから。
私はさすがに少し緊張した面持ちになっているハルナに、命令を下す。
「しっかり踊れ、ハルナ3級審問官。
この欺瞞に満ちた新年の大舞踏会を、君が支配しろ。
君が世界を揺るがせば、異端者は必ずどこかで尻尾を出す」




