アルール歴2192年 4月7日(+602日)
――シドニウス司祭の場合――
眼の前に並べられた資料を一束にまとめて「処理済み」の棚に押し込みつつ、私はため息とも感嘆ともつかぬ呼気を吐き出した。それを待っていたかのように、窓の外では日暮れを告げる大聖堂の鐘が鳴る。
本来であれば主堂で祈りを捧げるべき時間ではあるが、今日はこの部屋での略式の祈りで容赦して頂くとしよう。その程度には、これはなかなかに――込み入った問題だ。
はじまりは、ひどく簡単な異端問題だった。しかも「月並みな」としか言いようのない、つまらない案件だ。それこそ審問会派が特に血を流すまでもなくルーティン処理し(ときには新人の訓練として「消費する」ことすらあるかもしれない)、1枚の報告書にまとめられ、その報告書も倉庫の奥底に眠ってしまうような、そんな、どうでもいい事件。
その事件は、エイダ伯領で起こった……と、される。学術的に正しい表現をするなら、「最初に発見されたのがエイダ伯領だった」ということになるだろう。
エイダ伯領の南部には高級避暑地としての開発が急激に進んでいる地域がいくつかあるが、なかには「開発好適地として選ばれていたのに開発が進まなかった地域」もある。ソーリア村もまた、そんな土地のひとつだ。
ソーリア村で突如発生した民間互助団体が「異端」として真っ向から批判されるに至った理由は簡単で、彼らが掲げているモットーが異端ど真ん中だったからだ。
彼らの指導者が語った「善人が天国に行けるのであれば、悪人が天国に行けない理由などあるだろうか」という問い(専門用語で言えば「天の門」問題)に対する教会の公式見解は、「悪人が自己中心的な救済を求めたところで、神はすべてを見ておられる。天の門はその魂の罪業によって閉ざされるだろう」といったあたりに着地している。
そして少なからぬ神学者がこの着地点を無難と評価してきたし、なかには「許されざる罪を犯しながらも祈りひとつで救済されようとするなど、浅はかで自己充足的な問いであり、思慮に値しない」と一刀両断にする急進的な学者もいる。
私は学者ではあるが、同時に教会における政治を(そしてときには世俗世界との間の政治を)円滑に進めるための歯車のひとつでもある。だから表向きは、「天の門」問題について現状の解釈を否定するようなことを口にしたことはない。
だが私の本音は、異なる――どう考えたって「己の魂の救済を望む悪人に対して天の門が開かれないことなど、あるはずがない」のだ。
実のところ「天の門」問題は、1000年単位で激しい議論が交わされてきた。
〈原初〉2-11に示された「祈りこそは天の門を開く唯一の鍵である」という記述は、歴史上の名だたる教会政治家たちを悩ませた。
〈原初〉2-11は、〈原初〉2-14「正しき祈りは邪なる魂を浄化する」と組み合わせて読むと、「悪しき魂ですら正しき祈りによって浄化され、かくして悪しき魂の持ち主であっても正しい祈りによって天の門は開かれる」という理解以外に到達点を有しえない。
だがこれは公正世界仮説という名前の直感に著しく反する。また世俗権力にしてみると、絞首台に上げられた凶悪犯が、死刑見物に集まった観衆に向かって「俺は毎晩神に祈りを捧げてきたのだから、間違いなく天国に行ける」と叫びながら死んだとなると、教会に向かって「あのクソ野郎は間違いなく地獄に落ちたと保証してくれ」と詰め寄りたくもなるだろう。
結果として大体70年くらい前に「天の門」問題は「悪しき魂であっても祈りによって救済されるという解釈は異端である」という方向性で解決され、大会議においてもこれが正式な裁定として確定した。その手の安易な解釈は「愚か者による、愚かな解釈」というわけだ。
だがそれでも、「天の門」問題には定期的に疑義が突きつけられている。
理由は大きく分けて2つある。
1つは勉強が嫌いな神学生が、先行研究もろくすっぽ調べないまま「天の門は万人に対して開かれているはずだ」という大発見をしてしまうから。
そしてもう1つは、「悪しき魂の持ち主は祈っても無駄」というロジックにはあまりにも重大な欠陥が隠れているからだ。
なにせ「悪しき魂に対して天の門は閉ざされる」ことを強硬に主張した代表格とも言える賢者アムンゼンですら、論拠としたのはアリア書4.21「罪とは魂の足跡である」だ。これは罪業説として今の教会の公式見解に組み込まれているが、私にしてみれば「賢者アムンゼンらしからぬ」としか評価しようがない。
アリア書の価値を否定するつもりはないが、〈原初〉2-11と2-14という明らかに一続きの文脈に込められた意図を解析するにあたってアリア書を持ち出すというのは、技巧に過ぎるという評価を下すべきだろう。
つまり賢者アムンゼンですら、「天の門」問題については、論理的であるよりも政治的であることを選んだ。彼の中には先に「かくあるべし」という結論があり(あるいは「こうなってはいけない」という絶対的な死守ラインがあり)、そのために自説を補強できる材料を探した結果、アリア書の一節に行き着いたのではないのか。
私が「悪人が悪人であるというだけの理由で〈天の門〉が閉ざされることはない」と確信しているのは、いたって簡単な理由だ。
なぜならそうでなければ、不完結なる人の子による世界は、想像するよりずっとたやすく邪悪と悲惨の巣窟となるからだ。
なるほど、世の正邪を真の意味で判断するのは神であり、その地上における代理人である教会だ。そして世俗権力が制定する法は聖書が定める法と一致しており、ここにおいて神の定められた正義と、世俗の正義がブレることはない。神の正義は人の世に広まり、開かれ、誰もが己の歩むべき道を理解する……ように、思える。
しかし遺憾ながら、人の世は不完全だ。世俗の権力者が恣意的に(そもそも法に則らなかったり、ひどく歪んだ法適用を行ったりして)「誰が邪悪であるか」を決定してしまうことは起こり得るし、それによって邪悪と定められた人物の命が絶たれてしまうこともある。
同様に、これまた極めて遺憾ながら、我ら聖職者の同胞が私利私欲に溺れて、「何が正義であるか」を一時的に歪めてしまうこともあり得る。そして特に辺境においては、そのような腐敗司祭の一方的な決めつけにより、無実の魂が「邪悪」と貶められてしまうこともある。
現実的に考えれば、何をどうしたってこの手の冤罪は発生する。そのとき聖書までもが冤罪に苦しむ人々に向かって「お前は邪悪だから天国の門はくぐれない」と語るなら、人は何を信じればいいのか?
だからこそ〈原初〉2-11は「神を信じることこそが、『人は生まれたその瞬間に死を宿命づけられるのに、なぜ苦難と罪を重ねながら生きねばならないのか』という問いの根底を成す」ことを確認し、〈原初〉2-14は「神を信じることは小賢しい人の知恵など超越する」ことを示している――そう理解するほうが〈天の門〉問題の核心はより明確になる。もちろん、これによって社会が過度に不安定化することもあり得ない。
結局のところ、「悪しき魂の持ち主は祈っても救われない」(厳密に言えば「祈ったからといって即座に救われるとは限らない」だが、公正な世界を求める市民たちにしてみれば、その厳密性は手ぬるいものでしかない)という発想の背後には、「我ら教会は何が悪であるかを未来永劫に渡って決定し、統御し続けられる」という誇大妄想が潜んでいる。
そんなことができるのは神だけだというのは、3歳の子供でも理解できることではないか!
だから万が一、教会が神の代理人として「何が悪か」を決定できなくなったら。
そのとき教会は、神聖騎士団がそのような歪みの根源を物理的に破壊することに期待するしかなくなってしまう。
ではもし、その歪みの根源が、神聖騎士団では粉砕できないほど巨大だったら?
そのときは、完全に、詰みだ。
我々は様々な形で権力を持った狼藉者たちが「貴様は罪人であり、その魂はけして救われない」と宣言することによる影響を、拭い去れなくなる。何もかもが対症療法にならざるを得なくなり、そしてその対処の速度は世俗社会が変化する速度に決して追いつけない。あちこちで「正義」同士が殺し合い、そこで射掛けられる矢とは即ち、「お前は永遠に正義ではないと根拠なく断じられた人々」による贖罪の(そして最期の)一撃となるだろう。
結局、教会は「愚かな人々が愚かな解釈をして愚かな行為に及ぶ」ことを恐れるがあまり、「愚かであっても愚かなりに祈ればいつか救われる」という最低保証を吹き飛ばしてしまった。
そしてそのことは社会全体の抵抗力を劇的に弱めた――いまや強大な権力を握った人間が真に邪悪だった場合、世界は想像を絶する悲惨の坩堝へと成り下がり得る。
この重大な脆弱性について聖ユーリーンは完全に理解していただろうし、「異端認定の政治利用は断じて許されるべきではない」と主張したパウル一級審問官も薄々は勘付いていたはずだ。
同じ審問会派ではハルナ三級審問官もこの可能性に思い至っていただろうし、死後の魂の行方を聖なる魔術によって追跡できるメリニタ派の老婆たちも一定の知見を有していると考えて間違いない。
だが聖ユーリーンは何かを成し遂げる前に早逝し、パウル一級審問官は彼女も己も守れずに死んだ。ハルナ三級審問官は賢者アムンゼンが唱えた超越的無謬説に執着するあまり、アムンゼン説なら何であれ無批判に支持してしまった。そしてメリニタ派の老婆たちとまともに対話するのは、端的に言って不可能だ。
そうなると、現代において残された希望はライザンドラ司祭ということになる。
だがこれこそが、話を著しく複雑にした。
エイダ伯領ソーリア村で発生した異端教団について、ライザンドラ司祭は当初、静観する構えだった。
これは何ら特記すべきことではない――ソーリア村の異端教団はただの互助団体であり、異端と言っても「天の門」問題に関する見解の相違という範疇であって、一般的に言えば「強い叱責と是正」で決着する程度の話だ。正直なところ私だって報告書は読んでいたが、重要性・緊急性ともになしと判断して、その日の夕方にはすっかり忘れ去っていた。
だがソーリア村の異端教団に対する調査が進むにつれ、この互助団体が掲げる異端思想が、最初に予想された以上に広まっていることが確認された。具体的に言えば帝都の貴族に向けた高級リゾート地として選定されたが、あまり上手く開発が進まなかった地域に、幅広く分布していることが分かってきたのだ。
事ここに至って審問会派は問題が重篤であると判断し、特別行動班を含めた精鋭をエイダ伯領に送り込んだ。エイダ伯もこれには全面的に協力しており、エイダ伯の名で領民に対して警告と是正勧告が出されている。
かくしてソーリア村を中心として本格的な思想調査と是正のための働きかけが始まったが、そのいずれもがすぐに困難に直面した。人々は帝都からやってきた審問官たちに対し、必要以上に頑なな態度を示したのだ。
今になって振り返ってみれば、これは予測可能な反応だった。
高級別荘地として選定され、実際にある程度まで開発が進んだのに、途中で立ち消えになったというからには、帝都からやってきた貴族やブローカーといった連中と地元住民の間で、なんらかのトラブルがあったと考えるべきだ。
問題の原因がどちら側にあったか(住民が排他的過ぎたのか、貴族が不誠実だったのか)はともかく、住民が「帝都から来た人々」に対して融和的な態度を取る可能性は低い。
結果として審問官たちはどんどん態度を強硬にし、住人たちもそれに比例して意固地な姿勢を強めていった。
緊張が高まるなか、「異端教団」を指導する代表者の家から口語訳された聖書が発見されたことで、問題の緊急性は一気に跳ね上がった。
ソーリア村で起こっていることは、「天の門」問題について「愚かな人々が聖書を読み、愚かな解釈をして、愚かなことをする」事態を憂慮する人々が恐れたこと、それそのものだったからだ。
かくしてソーリア村を中心とした地域には審問会派のみならずボニサグス派やジャービトン派からも司祭が送り込まれ、審問会派を中心とした合同捜査部隊が設立された。
普通ならこの手の合同捜査が上手くいくことなどあり得ないし、3派がそれぞれ独自に捜査をしたほうがマシというほかない事態を引き起こすものだが、さすがに状況が状況だけに彼らは緊密に連携を取って捜査を進めていった。
そしてその結果として、「帝都から来た連中」とサンサの民との関係は急激に悪化し続けた。
極限まで張り詰めた緊張状態は、些細なきっかけひとつで、炎と血が渦巻く修羅場を現出させる。事実、「南部サンサ教区における異端問題」へと発展したこの案件が、なにを発端として流血の惨事を引き起こすに至ったのかは、今なお分かっていない。
だが何かが起こり、村人たちと審問会派の間で暴力を伴った衝突が発生し、おびただしい血が流れた。
村人たちは「天に自由を、地に希望を、我らの魂に平穏あれ」という新しい祈りを叫びながら審問会派に襲いかかり、現地にいた特別行動班8名全員が殉教した。審問会派は派遣した司祭の9割を失い、ボニサグス派とジャービトン派の司祭も壊滅的な損害を出した。
報告を受けた帝都は大いに震撼したが、私にしてみれば「諸君らはかつてサンサの戦士たちの勇猛さに喝采したのではなかったのかね?」と問いたくなってしまう。
サンサの戦士とは、つまるところエイダ伯領に住まう普通の人々のことであって、彼らが本気で怒り狂ったなら審問会派特別行動班の精鋭と言えども殉教は避けられない。
もっとも、帝都の愚図どもは「貧農相手に死んだ無能な特別行動班」をなじったが、私としてはそれもまた間違いだと言いたい。
これは、はっきり言えば帝都から派遣された聖職者全員が無残な死を遂げても仕方ない事態なのだ。数人であっても逃げ延び得た司祭がいるという段階で、殉教した特別行動班の勇気と修練、そしてその武勇に免じて非戦闘員を見逃したサンサの戦士たちの度量こそを賞賛すべきだ。
ともあれ、今の帝都は「サンサ教区に蔓延する新たな異端を掃滅すべし」という見解で一致しているし、帝都にいるエイダ伯もまた「サンサ自治区における信仰の正常化」に全面的な協力を約束している。
しかしながら具体的に何をするのかという話になると、帝都の世論は途端に紛糾しはじめる。
なにせこれまで帝国と教会がさんざんこの手の尻拭いを押し付けてきたデリク卿は帝都を辞して自領に本拠を移しており、そしてサンサ自治区にほど近い土地を所領とするデリク卿は「自領に対する異端の浸透を防ぐのに手一杯」という書簡をよこしている。
誰がどう見ても実態の伴わない言い訳だし、モンタヌス5世は無理矢理にでも帝都にデリク卿を召還するつもりのようだが、帝都市民の世論としては「皇帝陛下も教皇猊下も困ったときは神頼み、でもその前にデリク卿頼り」と風刺歌が伝えるような状況だ。
ガルシア卿もデリク卿の肩を持つ姿勢を示しているらしいが、「さもありなん」以外に感想が出てこない。即位後のモンタヌス5世はエイダ伯を重用しすぎており、帝都の七名家としてはここで急に協力を要請されても「いくらなんでも虫が良すぎる」としか言えないだろう。普段から大貴族たちの名誉を足蹴にしておきながら、危急のときに限って彼らに「貴族の義務」を要請するというのは、モンタヌス5世の統治者としての資質を疑うレベルの愚行だ。
加えて言えば、サンサ教区は「サンサ自治区」であり、事実上の独立国だ。ここに帝国が軍を進めるとなると、モンタヌス5世が最も信頼するエイダ伯のプライドはズタボロになる。要するに帝国軍を率いる者は、事態が終息したらほぼ100%間違いなく、スケープゴートにされる。
つまりあらゆる角度から見て、帝国軍を動員してサンサ自治区の異端を掃滅するというのは、無理筋だ。
では当のエイダ伯はどうかというと、サンサ教区におけるエイダ伯の評価は急激に落ちており、「エイダ伯は惰弱な気風に染まってしまった」「もはや彼はサンサの戦士ではない」という声が強まっていると聞く。
もちろん、南部サンサ教区の領地を餌として、北部サンサ教区の領主たちに兵を出すように要請すれば、十分に戦える軍隊を仕立てられるだろう。だがこの場合、サンサ教区北部と南部の間に決定的な断絶が発生し、その断絶は未来永劫解消されない可能性すらある。
その上、北部と南部で争った結果、死んでいくのはすべてサンサ自治区の民だし、焼け落ちるのはすべてサンサ自治区のインフラだ。この内戦によって、下手するとサンサ自治区は自治区足り得るだけの人口的・経済的基盤を失い、帝国の全面的な庇護を必要とするようになるかもしれない。エイダ伯としては絶対に避けたい事態だろう。
となると、現実的な選択肢としては神聖騎士団に動員をかけて、サンサ南部に蔓延する異端を掃滅するということになる。
だが、これもこれでリスクが高い。なにせ神聖騎士団はネウイミナ男爵領における異端掃滅の遠征において軍事的な敗北を喫しており、今度も勝てなかったとなれば2連敗となる。こうなっては流石に神聖騎士団の名誉も地に落ちてしまう。
ではサンサの戦士たちを相手に、神聖騎士団が100%確実に勝てるのかとなると……私の読みで言えば、勝率は30%程度といったところか。サンサの戦士たちが地の利を活かした神出鬼没な小規模戦闘に徹すると腹を括ったら、神聖騎士団に勝ち目はない。
この完全などん詰まりの状況において、白羽の矢が立てられたのがライザンドラ司祭だ。
ライザンドラ司祭はサンサ教区において圧倒的な(ほとんど信仰と呼び得るレベルの)人気を有しており、彼女であれば、サンサ教区南部で蜂起した異端者たちを説得できる可能性は高い。
そもそもソーリア村の人々が異端と糾弾されたのは「天の門」問題に関する、そこまで重篤ではない解釈違いが原因だ。結果論として口語訳聖書の悪影響であるとか、「天に自由を、地に希望を、我らの魂に平穏あれ」という危険な祈りであるとかいった形で雪だるま式に問題が発掘されたとはいえ、それでもなお、「悪魔による信仰の汚染」という大仰な評価がぴったりくる類の異端(例えばかつてダーヴの街において見出されたようなもの)ではない。彼らの信仰と、その信仰に基づいた生活は、「間違いはあるが異端ではない」という評価のほうがしっくりくる範囲にあるのだ。
老人の繰り言になるが、つまるところ南部サンサ教区における異端問題は、本来ならばその指導者ですら「厳重に警告され、特別な教育と監視が必要となる」レベルに留まるものでしかなかった。初動で「帝都の人間が嫌われている地域に、帝都から人を派遣した」のがボタンの掛け違いの始まりであり、最初から(あるいはサンサ教区南部に問題が広がっていることが判明した段階で)ライザンドラ司祭を送り込んでいれば、そこでケリがついた可能性は高かった。たとえそれによって、帝都で教会政治に勤しむ幾人かのメンツが著しく傷ついたとしても。
ああ。たったそれだけのことで、何人の嘆きと命を救えただろう?
行き場のない思いをため息として吐き出しながら、私は改めて「処理済み」の棚から、1枚の手紙を取り出す。要約すれば「サンサ南部における異端対策として、クローニア大聖堂に務めるライザンドラ司祭の協力を要請する」という、美辞麗句で埋まった手紙。
確かに、あからさまに手遅れになっているとはいえ、今からでもライザンドラ司祭を現地に送り込むという判断は、けして間違いではない。
そしてこれによって、帝都の連中が期待するような効果だって、得られるかもしれない。
あくまで、理屈の上では。
だがこの書簡が帝都から届いたとき、私は強い胸騒ぎを感じた。
帝都の連中は、彼女のことを理解しているとは言い難い。むしろ「余人の理解を越えた天才」として恐れ、遠ざけ、忌避している。
それゆえに、妙なこじれ方をした状況を片付ける掃除婦としていまさら彼女を起用するなどという、途方もない悪手を思いついてしまった。
馬鹿げている。奴らは天才のなんたるかを、知らなさすぎる。
つまりこれが――このすべてが――ライザンドラ司祭が帝都の連中に対して許した最後の猶予であり、そして帝都の馬鹿どもは最悪のタイミングで最悪の回答を彼女によこした。その可能性に、彼らはまるで思い至っていない。
だから、やがてドアを叩く控えめなノックの音を聞き、それに促されるように彼女に入室を許し、そしてこの稀代の才に凍てつくようなアイスブルーの瞳で見据えられながら、彼女の発した言葉を聞いたとき、私は思わず「やはりか」と呟いていた。
「シドニウス司祭様。
先の大会議における『天の門』に関する決議は、正しかったのでしょうか?」




