アルール歴2190年 8月14日(+6秒)
――神城ナオキの場合――
「さて。
教会と戦うってのは、サンサ自治区を乗っ取るのに比べてると、圧倒的にデリケートな対策が要求される。
だから実を言うと、俺にもまだ最後の詰めを具体的にどうするかまでは見えていない。方法は間違いなくあるはずなんだが、必要なパーツがまだ見つかっていなくてな。そういう前提で聞いてほしい」
俺は言い訳がましい弁解をしつつも、個人的には「これでいけるはずだ」という手応えがある策を語る。
「最初の一手は、もう打ってある。デリク卿は見ていないかもしれないが、サンサ教区では過ぎ越しのミサの折に口語訳した竹簡聖書のお披露目をした。
あれは一種の遅効性の毒として、サンサ教区の信仰を汚染することになる」
デリク卿が胡乱げな目で俺を見る。ライザンドラはいたって平静なままだ。
そんなライザンドラを見るとあの夜のことがふと脳裏によぎり、死にそうなほど羞恥心が高まるが、今はそこでウジウジやってる場合じゃあない。彼女が言う通り、俺はもう前に進むしかない。
「口語版竹簡聖書は今も量産が続いていて、サンサ教区のインテリ層を中心として急速に普及している。成功した商売人なんかも、成功のトロフィーとして持っておくというのが流行りだ。
ま、そんな感じで大多数の口語版聖書はインテリアになる宿命にあるが、中には真面目に聖書を読み、自分の頭でそれを理解しようとする奴らもいる。
こいつらが、サンサ教区の信仰を弱体化させる毒の、感染源になる。
さて、ここでデリク卿に質問だ。自分たちにも理解できる言葉で書かれた聖書を読んだ平民たちは、どんな反応を示すだろう?」
デリク卿は少し沈黙してから、かなり鋭い分析を口にした。
「最初に訪れるのは全能感だろうな。これまで教会が独占してきた知識が自分たちの前にも開かれた。そして竹簡聖書を購入できない貧民たちは、いまの自分に見えている世界が、まったく見えない。
優越感、全能感、満足感。ともあれ自分は特別になったという確信が手に入る。それが口語版の竹簡聖書を購入して読むということだ」
俺はデリク卿の言葉に対して強く頷き、その見識の高さを認める。
だが、やはり彼では、本当に弱き者たちがどんな反応をするかまでは、思いが至らない。生まれたその瞬間から強者として生まれ、強者に相応しい教育を受け、しまいには強者たるための実践を繰り返している彼には、弱さの物語を完全に読み解くことができない。
「そのとおりだ。だがその物語には先がある。
口語版聖書を読むことで得られる優越感、全能感、満足感は、時間とともにどんどん薄れていく。なぜなら今まで知らなかったことを知り、今まで考えなかったことを考えていくと、どうしてもどこかで『わからない』の壁にぶつかるからだ。
これ自体は、何ら不思議じゃあない。どんな天才だって――それこそライザンドラだって、ひたすらに『なぜ?』を問い詰め続ければ、どこかで『わからない』の壁に到達する。だろう?」
俺の投げかけに、ライザンドラは小さく、しかしはっきりと頷く。
「だが生まれて初めて『わからない』の壁にぶつかった人間は、それでもなお『わかる』ことを望むようになる。なぜなら『わかる』ってのは快感だからだ。『わかる』ことは、一般論で言えばセックスに負けず劣らず気持ちがいい。
だから『わからない』の壁にぶつかった彼らは、『わかりやすい答え』に――あるいは『わかりやすい答えを教えてくれる、賢い人』に飛びつく。眼の前に好みのタイプの人間がいたら、欲望むき出しで飛びついてしまうガキのように」
俺の解題を聞くデリク卿は露骨に不快そうな表情を浮かべたが、彼は俺の言葉を否定しなかった。彼もまた、似たような状況を目にしたことがあるのだろう。
「そうやって『わかりやすい答え』に飛びつく動きは、やがて、もっと賢い連中の間にも広まっていく。
世界はおそろしく複雑で、特定個人がやることですらその全部を読み解くなんて不可能だ。賢い人ですら、何もかもを正しく説明できるなんてことはあり得ない。結局、彼らもまた何かしら『わかりやすい答え』を無批判に受け入れることになる。
だがこれはこれで、別の問題を発生させる」
ここまで喋ったところで、デリク卿が口を挟んだ。
「――最初に人々が飛びついた『わかりやすい答え』は、君の言う賢い人がもたらした答えだ。
だがその賢い人の見解であっても、実は浅いところがあり得ることを知った人々は、口々にこう叫ぶだろう。
『俺達はあの自称賢い人たちに騙されたのだ』
『世間的には賢いってことになっている人間なんて、実際には大して賢くもないし、真実が見えているわけでもない』
『知識や訓練では得られない、自分の実体験に基づいた直感のほうが正しい』
『俺達に理解できるように説明できないってことは、あの自称賢い人たちは本当に何かを理解できているわけじゃあない』
かくして大多数の人々は、『もっとわかりやすい答え』を己の信条として選択するようになるだろう。
なぜなら人間は『自分は正しい理解をして、正しい選択をしている』という確信を、心のどこかに抱いているものだから。その確信なしに生きていくのは、神ならぬ身にはおそらく不可能だ」
さすがはデリク卿。適切なヒントを与えれば、一瞬で正確な予測に到達する。
俺は彼の見解を頷きで肯定しつつ、先を続ける。
「デリク卿の予想はまったく正しい。
これは、人間は愚かだとか、もっと啓蒙が必要だとか、そういう話じゃあないんだ。むしろそうなるのが当たり前なんだよ。
そもそも人間が1日に分析できる情報の量なんて、たかが知れている。自分が出会った何もかもを『これはどれくらいまで正しいんだろう?』『正しいとしたら、それはなぜこうなっているのだろう?』と疑ってかかっていたら、心がぶっ壊れちまう。
実のところ、教会の持つ重要な意義は、ここにもある。『ノータイムで絶対に正しいと言って構わない』領域が教会によって保証されているから、人は自分が本当に考えなきゃいけないことに集中していられるんだ。
『万事において自分で調査し、考察し、判断し、そのすべての責任を自分で負うべきだ』なんてのは、人間っていう生物を過大評価しすぎなんだよ。さもなきゃ、世界を過小評価しすぎなんだ」
俺の分析に、二人は同時に――ライザンドラは無表情なまま、デリク卿は苦々しげに――頷く。
「これはあくまで俺の仮説なんだが、ある一定の地域が荒れる原因としては、2つの過剰があるんじゃないかと思ってる。
1つは人口の過剰。社会的な競争が厳しくなりすぎて、行き場のない人間が大量に発生してしまう状況だな。
そしてもう1つは情報の過剰。新しい技術が発達したり、経済が発達して人や物の移動が盛んになったりすることで、従来の宗教では世界の真実が維持できなくなった状況だ。
歴史的に言うと、従来の宗教が何らかの理由で否定され、『いままでのロジックでは情報を捌けないし、捌いてはならない』と多くの人が確信することで、相対的にこの情報の過剰が発生して社会が荒れてきた。情報の真善美を脊髄反射で決定できるシステムに対する信頼が崩壊したせいで、情報の処理速度が追いつかなくなるパターンだな。だがそれならば、流通する情報量が馬鹿みたいに増えたときでも、理屈の上では起こり得る。
で、だ。
この世界は、教会が豊穣の儀式を乱発したせいで、社会全体の人口バランスがおかしくなってる。食料の生産効率が良すぎるせいで、社会が発展して仕事が増える速度より、人口が増える速度のほうが大きくなりすぎたんだ。
〈同盟〉の阿呆どもはその典型例だし、デリク卿が鎮圧した南方での反乱も、実は根っこで同じ問題が絡んでる」
俺の指摘を聞いたデリク卿はしばし沈黙していたが、突如その顔を驚愕の色に染め上げると、怒りとも恐怖ともつかぬ声色で俺を糾弾した。
「――つまり、〈貧者の儀式〉か!
君はまさか、あの段階で既にこの未来を仕込んでいたというのか!?」
俺は肩を竦めてデリク卿の怒りをいなす。
「その通りだ。
結果的にその最初の後始末というか、最初の波及効果がデリク卿を直撃したのは、言い訳がましいが、『あなたを狙い撃ったわけじゃあないんだ』以外に何も言えない」
南方のネウイミナ男爵領で反乱が起こせた背景には、ネウイミナ男爵領のような貧しい土地でも〈貧者の儀式〉によって収量を安定させられるようになったという側面が多分にある。
反乱の首謀者であるレナートが品行方正な司祭を演じたのも、それが〈貧者の儀式〉にとって不可欠だからだ。さすがに大規模な反乱を主導するだけあって、レナートは〈貧者の儀式〉が戦略的な兵器として使えることに気づく程度には、頭が切れた(総体的に言えば馬鹿としか言いようがないが)。
「ともあれ〈人口の過剰〉は、今の帝国と教会の統治における潜在的な不安定要素になってきた。俺みたいな人間がピンポイントで煽るとヤバイ結果が出るくらいには、魔女の釜はもう煮えたぎってる。〈同盟〉もネウイミナ男爵領も、それを実証してくれた。
そこに向かって、口語版聖書を通じて〈情報の過剰〉をぶつける。
この世界において〈情報の過剰〉がどう機能するかは、〈同盟〉で試してみた。結果はご存知の通りだ。正直なところ俺ですら、〈同盟〉があそこまでやらかすだなんて思わなかった。
だから、サンサ自治区は間違いなく大変なことになる」
デリク卿は露骨にげんなりしたような顔になったが、それでも俺の計画に頷きで同意を示した。
「その上で、『わかりやすい真実』と、それを示す者が必要だ。
これについては、2つの方策がある。
1つめは、ハルナが作った歌だ。あの歌の全部はいくらなんでも長すぎるが、サビの『天に自由を、地に希望を、我らの魂に平穏あれ』は覚えやすいし響きもいい。『天に栄光を、地に繁栄を、人の魂に平穏あれ』よりもずっと洗練された煽りだ。
サンサ自治区では、既にカナリスとハルナを象ったアクセサリーが戦士たちの間で流行してる。カナリスの武勇に至っては、エイダ伯が名指しで激賞するほど、サンサ全域に鳴り響いている。
この素地に向かって、ハルナの歌を流し込む」
俺はちらりとライザンドラの顔色をうかがう。俺が最悪の方法で殺したと言っても過言ではないハルナと、自分でも胸が悪くなるような計略で揺さぶって殺したカナリスを、さらに辱めるような策を口にする俺を、彼女はどう思っているのか。
だがライザンドラの表情はピクリとも動かず、俺は小さなため息と一緒につまらない後悔を体の外に吐き出す。自分が殺した人間に対して感傷的になるなど、今の俺には許されない。
「当然だが、教会も帝国もハルナのこの歌がサンサ自治区で流行ることに対しては、何らかの抗議ないし指導を行うだろう。ネウイミナ男爵領で起こった反乱で異端者たちが歌っていた歌が高歌放吟されるなんざ、放置できる問題じゃあない。
だが教会がどこまで強く出られるかってことになると、これはこれで微妙なところだ。この手の問題に対して最も強硬に動くべき審問会派は、現状においては教会政治の負け犬だ。その彼らが、元三級審問官のハルナが残した歌を、異端の疑いでぶっ叩けるか?
俺は無理だと思うね。むしろジャービトン派あたりが、これ幸いとぶん殴りに行くんじゃあないかな。で、脊髄反射でミョルニル派がハルナの歌を擁護する。ボニサグス派は教理の面から歌を分析するだろうから、派閥全体としての判断がくだされるまでには時間がかかる。
なんにせ、教会が意思を完全に統一するのは難しいだろうな」
まあ、こればかりは教会に向かって「だからお前らは駄目なんだ」とも言い難い案件だ。巨大な組織は、どうしたって動きが鈍くなる。
「一方で帝国としても、これはなかなかデリケートな問題になる。救国の英雄エイダ伯のお膝元で起こっている案件だけに、ネウイミナ男爵領みたいに『殴って終わらせる』なんてのは無理だ。
となると、エイダ伯はここで判断を迫られることになる。帝国や教会からの要請に応じて歌を禁じるべきか、サンサ戦士たちの心情を慮って歌を守るべきか。
これは実に難しい問題だ。だからこそエイダ伯がそこで何をするかは、決まっている」
俺はちらりとライザンドラに目をやる。
彼女は一呼吸おいてから、自明な答えを返した。
「教会が絡んだ難問に直面したエイダ伯は、自分が心酔するアドバイザーに教えを請うでしょう。
つまりライザンドラに、自分はどうすべきかを聞きにきます」
彼女の見解を聞いたデリク卿が、またしてもゲンナリといった感じの顔になる。
デリク卿は優れた策士だが、その根っこにはわりとまともな感覚を持った善良なる人間がいて、こういう場では何かとストレスを貯めることになるのだろう。そしてそのストレスは、彼を女遊びに走らせる。「ハメを外しすぎなさんなよ」と思わなくもないが、とはいえ彼もこの道のプロであれば、そのあたりはちゃんと管理するだろう。
「ライザンドラは、この件についてエイダ伯から何か聞かれたら、適当に玉虫色の返答をしておいてくれ。それこそ『今日は暑いですね』程度で構わん。そうすればエイダ伯は必ずそのアドバイスを『かの流行り歌は禁止すべきだ』と読み解くだろう。
常識的に言えば、今この状況においてエイダ自治区と帝国の蜜月を破壊するのは下策中の下策だ。だからエイダ伯は帝国と正面衝突してはならないという助言を欲しがっているし、そうである以上たとえライザンドラが『歌を禁止すべきではありません』と明言したとしても、エイダ伯は『ライザンドラ司祭は歌を禁止すべきだと暗示しているのだろう』と理解する。
つまりライザンドラが注意すべきは、後々になって第三者に『ライザンドラ司祭はエイダ伯をけしかけた』とも『ライザンドラ司祭はエイダ伯を制止した』とも断言されないような言葉遣いを心がけること、それだけだ」
俺の指導を聞いたライザンドラは、素直に頷く。こんなことくらい彼女は俺が言わなくたって理解しているだろうが、世の中には万が一ということもある。いわゆる慢心ってやつは、致死的なものであればあるほど、細部に宿るものだ。
「言うまでもなく、この対教会の策は、エイダ自治区をエイダ伯の手から奪い取る策ともリンクする。
歌を禁じられたサンサの戦士たちは、エイダ伯の腰抜けっぷりを再確認することになるだろう。
あとは適切なタイミングで、ライザンドラが『天に自由を、地に希望を、我らの魂に平穏あれ』を引っさげて、人々にわかりやすい真実を語ればいい。
以上が、対教会向けの策、その1だ」
しばし無言で俺の話を聞いていたデリク卿は、ここでふと声を上げた。
「ナオキ君の策は実によくできている。サンサ自治区は間違いなく混迷を極め、少なくともエイダ伯の政治的生命は絶たれるだろう。そしてその混乱を収拾するのはライザンドラ司祭以外にあり得ない。
だが、君の策はまだ足りない。我々がサンサ自治区を手に入れてから次の計画に着手するのでは、本腰を入れた帝国と教会には勝てん」
これまたさすがは帝都きっての策士、デリク卿だ。確かにここまでの策はサンサ自治区を手に入れる範囲に留まっていて、その先をどうするのかというビジョンがない。つまり、このままでは構造的な「策士策に溺れる」構図になってしまっている。
そしてこれこそが、現状における俺の案の未完成なポイントでもある。
「そこで『わかりやすい真実』を示す策その2の登場……なんだ、が。
実を言うと『その2』の具体的な方策はまだ定められていない。方針はあるんだが、それにフィットするパーツが見つけられていない。
ただ、適合するパーツは絶対にある。俺はそれが何なのかを、思い出せていないだけのはずなんだ。
だからここはライザンドラに頼りたい。今から俺が言う条件を満たすトラブルは、このクソ長い教会の歴史のどこかで起こっているはずだ。それも1つや2つじゃあない。
俺としては、その条件に合致するトラブルを、できるかぎりたくさん知りたい。
そのなかから最も致命的な脆弱性として機能するものを選び、教会を真正面から攻撃する」
俺のプランを聞いた二人は、揃って怪訝な顔をした。デリク卿はともかく、ライザンドラがその可能性に思い至っていなかったというのは、ちょっと意外だ。
だがサンサ自治区という事実上の国を乗っ取る計画を走らせる以上は、もう影でコソコソと策を巡らせる段階は終わりだ。
今の俺たちが狙うべきは、完璧な奇襲をもって、教会の権威を正面から叩き折ること――つまり、神と正面決戦をして、ぶち殺すことなのだ。
そしてその最大のチャンスは、教会と帝国の屋台骨が大いに傾いているが、世の多くの賢人たちは「まだなんとかなる」と踏んでいる、その瞬間しかない。早すぎれば俺たちは横綱相撲で叩き潰され、遅すぎればなりふり構わない反撃を食らって潰されるだろう。
「俺はサンサ自治区での動乱にあわせて、教会の理論屋から政治屋までの全員が絶対に無視できない問いを立てる。
そして教会に公会議――こっちでは大会議と言うんだったか――を招集させて、その場で俺が教皇を論破し、権威を地に落とす。
論破するのはライザンドラでもいいが、どこの馬の骨とも知れぬ俺が教皇を折伏したら、さすがに教会は一巻の終わりだろ?」




