アルール歴2190年 8月14日(+43日)
――神城ナオキの場合――
「遅参しましたこと、大変に申し訳ございません。
本来は午前中で終わるはずのアポイントを、この時間まで引っ張られました」
10分ほど遅れて到着したライザンドラは、そう言うと神妙な表情で頭を下げた。
窓の外に目をやれば、アルール大聖堂は既に夕闇の中に沈もうとしている。
「念のための確認だが尾行はされていないだろうな、元特捜審問官殿?」
午前中で終わるはずの予定を「ついでに会食でも」だのなんだのと引っ張り続ければ、ライザンドラはどうしてもどこかの段階で「次の予定がある」ことを訴えて切り上げねばならなくなる。そこで席を立った彼女を尾行すれば、彼女の時間をこれほど長く独占し得た面会者は、彼女が自分よりも優先する人物が誰かを確認できる。
強引かつ稚拙な策だが、これはこれで尾行に成功すれば今をときめくライザンドラの謎人脈を偵察でき、尾行に失敗すれば元特捜審問官であるライザンドラの実力を確認できるという、なかなかに嫌味な感じに機能する。
俺の疑念に対し、ライザンドラは苦笑いしながら首を横に振った。
「尾行もなにも、ライザンドラがお借りしている宿舎まで、特別の馬車で送って頂きました。皇帝陛下からのお申し出をお断りするわけにもいきませんでしたので。
とはいえ宿舎からここまでの間を追跡された感触はありません」
ふむ。ライザンドラがそう言うなら、間違いないだろう。
それよりさっさと会議を始めて、さっさと終わらせてしまおう。ダラダラ話をすればするだけ盗聴その他のリスクを高めるし、そもそも俺は長い会議ってやつが嫌いだ。
「今日の宮中昼食会、陛下が開始ギリギリ間際に着席したと思ったら、前菜だけ食べて席を立ったのは、そういう理由だったか。
こんなに慌ただしく席を立たれたからには、よほど重要な問題が発生しているのだろうともっぱらの噂だったよ」
名前を聞くからに息が詰まりそうな昼飯の話題を持ち出したのは、デリク卿。この場にいる、俺とライザンドラ以外の唯一の人間だ。
「さて、じゃあ主役が到着したところで、さっそくだが打ち合わせを始めたい。
時間が惜しいから、互いに敬称も丁寧語もなし。オーケー?」
二人は表情を引き締めると、小さく頷く。
「今日の議題は3つある。多いな。順番に行くぞ。
まずは今後の大方針と現状の再確認。
それから俺たちの役割分担の確定。
最後に具体的な行動方針の策定だ。
最初の議題については、ライザンドラから説明してもらうのが一番だろうから、頼む」
俺の指名を受けたライザンドラは、テーブルの上に放置されたまま10分が経過してすっかり冷めきった茶を一口すすると、淀みなく語り始めた。
「ライザンドラたちの大方針に、変化はありません。
ライザンドラは、神を殺す。
お二人はそのために力を貸して頂きます」
改めてそう宣言されると、身の引き締まる思いがする。「勝算はゼロじゃあない」と虚勢を張ることすら難しかったところから始まったこの計画だが、ライザンドラが俺たちを引っ張っていく限り、勝算はもう5割を超えただろう。
もちろん、「まだ5割程度で致命的な破綻をきたす」とも言えるが。
「神を殺すにあたって、取り急ぎ必要になるのは、新しい教会を作ることです。
今の教会が作り上げてきた信仰の体系とは異なる理論体系を構築し、また信徒に対してはそれに基づいた豊かで価値ある生活を保証しなくてはなりません」
もともとは俺が考えたことだが、他人の口からこれを聞くと、「そんなの無理だろ」という感想が反射的に脳裏によぎる。ちらりとデリク卿に目をやると、彼もまた額に皺をよせて前途の多難さを危ぶんでいた。
けれど、俺たちはそれがもう前途多難という範囲にしかないことを、理解している。
「以上が大方針の確認です。
続いて現状の説明をいたします。これについては、補足や訂正などありましたら、遠慮なく途中で口を挟んでください」
俺の隣でデリク卿が足を組み直すと、手に持っていたワイングラスを机に戻した。俺としてもこの論点についてはデリク卿とライザンドラが相互に補足してこそより正しい現状理解につながると思っている。
「まずはライザンドラたちの地位です。
デリク卿はいまなおデリク家の当主ですが、その社会的な評価は芳しくありません。〈アルフレッドの乱〉における最大の功労者はエイダ伯であり、帝都ではその勇猛果敢さをもって知られたデリク卿といえども、本物の勇猛果敢さを備えたエイダ伯の前では武勇も霞んで見える、といったあたりが一般論でしょうか。
もっとも大貴族たちの間では、内戦後にデリク卿とジャービトン派が急速に接近していることについて、危機感を高めている人々も多いようですが」
ライザンドラの歯に衣着せぬ見解に、デリク卿は苦笑いを隠せない。
「当人である私からひとつだけ補足させてもらうと、ジャービトン派との接近は『お互いにやむを得ないから』程度のものでしかないな。むしろ現状では、ガルシア家との協力関係を深めているところだ。
これはあくまで推測の範囲に留まるが、ガルシア家もデリク家同様に帝都からの段階的な撤退を考えているようだ。それ以外の大貴族たちにしても、今の帝国の体制を見限るという選択肢は十分に現実的なものになってきている。
帝都があわや内乱の炎に焼かれかねなかったというのは、我々にとってみると、それくらいには衝撃的な事件だった」
そりゃあそうだろう。さすがに俺だって、まさかあのバカ殿下がそこまでやるとは想像すらできなかった。帝都で皇帝が籠城戦をするなんざ、戦争とスポーツの区別がつかないガキでもない限りは、採り得ない策だ。
とはいえデリク卿のような人間だけでなく、わりと普通の貴族たちまでもが帝都から離れて自領での軍閥化を構想する徴候を示し始めたのはなぜかという問いになると、「バカ殿下のバカさ加減がずば抜けていたから」というだけでは不十分だ。
大貴族たちに自主的な都落ちを選ばせるその最大の理由は、「バカ殿下が主張したとおりに、一度は帝都の門は閉じた」ことにある。激しい競争が渦巻く帝都の高等教育環境における勝ち組として生き残り、ついには帝国の官僚として職位を得たり、高級軍人としての地位を得たりしたエリートどもが、一人として皇帝(的な存在)の暴走を止めらなかったのが、最大の問題なのだ。
帝都の門が閉ざされたことは、つまり、帝国の統治システムが完全な機能不全に陥っていることの、明確すぎる証拠となったというわけだ。
「次にエイダ辺境伯ですが、文句なしに英雄扱いですね。皇帝陛下の信頼も厚く、サンサ辺境自治区も全会一致での成立となりました。
最近では帝国軍の兵士相手に模擬戦をして勝ったり負けたりしていますが、勝っても負けても彼の名声は高まるばかりです。上り調子の人間とはかくのごとし、といったところですね。大恥をかくような大敗はしていませんし」
模擬戦で大恥をかくような負け方はしていない、というのは実にもっともな話だ。帝都の連中は、そのあたりの空気はしっかりと読む。
鎧袖一触で終わらせられる実力差があったとしても、「サンサの戦士長」でもあるエイダ伯を秒殺するような馬鹿はいないだろう。
「続いてナオキですが、これといって帝都で話題に登ることはありません。ライザンドラからその話題を切り出すこともありませんし。
とはいえメリニタ派の儀式により、ナオキ討伐に出たカナリス審問官を筆頭とするチームが全滅したことは確認されています。審問会派としては失地を回復するためにも、ジャービトン派と連携して、『かつて〈同盟〉を堕落させた首謀者であるナオキ』を追跡する計画を立案しつつある……とは噂で聞きました。
言うまでもなく、この背景にはかつてナオキの下で働いていたライザンドラを間接的に叩きたい、という意図もあるのでしょう。
ですがジャービトン派のシドニウス司祭は、ライザンドラを援助する姿勢を打ち出しています。ジャービトン派本体としても、いま審問会派と協力するのは時期尚早であり、たとえ手を組むとしても自分たちが失った地歩を十分に回復してからのことだ、という見解がマジョリティです。
ゆえにこの計画は、そこまで効率的には進まないかと推察されます」
なるほど。それは実に好都合だ。
ライザンドラの活躍を疎ましく思う連中が、「あの女司祭の弱点はナオキなる怪しげな男だ」と決めてかかってくれるなら、防御も反撃も容易だ。この手の戦いでは、敵がどんな意図で、どこから攻めてくるかわかるってだけで、防御側はとても楽になる。
「最後にライザンドラです。
ライザンドラは1週間後に、クローニア大聖堂の副司祭に就任することが決まりました。シドニウス司祭が名指しで推したとのことです。
ライザンドラの所属派閥としてはミョルニル派のままですので、ジャービトン派の歴史のなかで初めて、他派の司祭がクローニア大聖堂の管理側に就任することになります」
ほほう。ジャービトン派に「初めて」を受け入れさせる(しかも自派が占める椅子の数を減らすような案だ)とは、シドニウス司祭ってのは相当にやり手だ。
もっともクローニア大聖堂はジャービトン派の中でも傍流扱いされているから、帝都のジャービトン派としては「田舎街の司祭が自分で自分の経歴に傷をつけるならご勝手に」とでもいうところか。
もちろん、ライザンドラを自派が管理する大聖堂で飼っておけるというのは、それはそれでメリットにもなる。メリットとデメリットの算数をすればメリット寄りだし、何かマズいことになったらシドニウス司祭ごと切ることにすればリスクも最小化できる。けして悪い手ではない。
だが――
「ですがこのことは、エイダ伯の政治能力の限界を露呈させることにもなりました。
エイダ伯としては、ライザンドラをサンサ教区につれて帰り、ダーヴの街の司祭に迎えたかった模様です。エイダ伯の部下たちも、ライザンドラのことを強く慕ってくれていますし。
なので『ライザンドラ司祭をダーヴに呼べないのであれば、サンサ教区に就任した司祭に対するこちらからの援助は最小限のものとなるだろう』とエイダ伯は強硬に主張したようなのですが、この手の教会政治となると彼は完全な素人です。結局、ジャービトン派に言いくるめられる形でエイダ伯は引き下がりました。
もっとも、ライザンドラを諦める代償として教会から様々な政治的譲歩と援助を引き出していますし、どうやらライザンドラは何年かに1度はダーヴの街で過ぎ越しのミサを主導することになった模様ですので、エイダ伯が完全に負けたわけではありませんが」
やはり、か。だとするとこれまた大変に好都合だ。
言葉は悪いが、誰かが大勝利してしまって状況が安定してしまうというのが、俺たちにとって最悪の事態だ。「帝国と教会が一致団結してナオキなる犯罪者を捕縛して殺す」といった形で意思が統一されてしまったが最後、俺がこの世界で死ぬまでにかかる時間は長くて3ヶ月ってところだろう。
だが現状のように勝ち負けが入り組み、同じ国どころか同じ組織の内部で派手な派閥抗争が起きているとなると、やれることは一気に増える。
「以上が現状において最優先で共有すべき情報かと思います。
追加があれば補足を願います」
ライザンドラが報告を終えたところで、デリク卿が口を挟んだ。
「一応、細かいところを足しておこう。
現皇帝陛下は、能力的には平凡、といったところか。文教方面を強化したいようだが、内戦の直後ということもあって皇帝直下の軍からは大規模な予算の拡大を強く求められている。一概にどちらが良いとも言えないが、陛下の今の指導力では結局いつも通りの中途半端な予算配分になりそうだ」
可もなく不可もなくというべきか、可と不可しかないと言うべきか。
「外交関係は、いったん落ち着いた。エイダ伯軍の戦いっぷりは、諸外国にも広まりつつある。
エイダ伯の軍隊とまともに殴り合いたい国は、いまのところは存在しないようだ。これは良いこと、と評価できるだろうな。
私から追加すべき情報は以上だ」
なるほど。つまりデリク卿は「国外にその威名が鳴り響くほどの軍事的名声を得たエイダ伯は、遠からず帝都において疎まれる存在となる」だろう、と言いたいわけだ。なにせデリク卿自身、かつて南方で起きた異端教団が主導する反乱鎮圧にあたって、似たような扱いを受けている。
ふむ。これはこれで、俺たちにとっては厄介の種になり得る、か。
「追加情報は以上でしょうか?
では現状確認と共有は以上とします。次の議題に入りましょう、ナオキ」
ライザンドラが議事進行のバトンを戻してきたので、俺は今日一番めんどくさい話になると覚悟してきた話題を切り出す。
「では次だ。俺たちの間での役割分担を決める。
言うまでもないことだが、役割を決めたからといっても決められた仕事だけをやればいいっていう話ではないし、重大な問題が発生したらその責任は一蓮托生で俺たち全員に降りかかる。
だからここで言う『役割分担』ってのは、『自分は何が得意で、何が苦手か』をはっきりさせる、という意味合いが強い。少なくとも、デリク卿が教理問答の席に立ち、俺が軍を指揮して、ライザンドラが軍需物資の買い付けをするってのは、あまり良い組み合わせじゃあないだろう?」
ライザンドラは一人でなんでもやれてしまいそうだが、だからこそ仕事を分担するのは大事だ。「なんでもやれてしまう」人間は「自分でなんでもする」のではなく、高い視野から計画の全貌を見通す立場で動いた方が、計画に関わる全員が幸せになる。
だがその肝心のライザンドラから飛び出した提案には、デリク卿も俺も、驚きを隠せなかった。
「役割分担なのですが、ライザンドラとしては将来的に構築する新宗教の教祖には、ナオキが相応しいと考えます。
それが、あなたの強みを最大化する選択です」




