アルール歴2190年 7月2日(+168日)
――デリク卿の場合――
簒奪者アルフレッドを打倒し、帝国の玉座に正統なる皇帝を復帰させるための聖なる戦い(さすがに聖戦の指定までは得られなかったので、「聖なる戦い」と呼称した)は、エイダ伯が率いるサンサの戦士たちの奮戦によって予定通り我々の勝利に終わった。
ライザンドラ司祭の祝福を受けた戦士たちは伝説の狂戦士かのごとく戦い、観戦武官として派遣されてきたスヴェンツ王立軍事学院の猛者がドン引きするレベルで戦場は酸鼻を極めた。
戦争が終わって、いつもの事後処理がつつがなく進行し、いつもの戴冠式が盛大に行われ、いつもの椅子取りゲームが始まりつつも、その裏ではいつもの祝勝会が行われ、私もまたそのルーチーンに巻き込まれた。
祝勝会の二次会に押しかけた有象無象を相手に「果てしなくどうでもいい」としか評価のしようがない儀礼的な挨拶を一通り終えた私は、同様の義務からだいたい同じタイミングで解放されたガルシア卿と二人で酒盃を傾けていた。
先代のガルシア卿はどうしようもないクズ野郎だったが、ガルシア卿を襲名してから1年ほどで謎の頓死を遂げた。現ガルシア卿は先々代の奥方を思わせる、落ち着きと気品、そして得体のしれぬ奥深さを兼ね備えた老貴婦人で、利害関係が絡まない話をするのであれば最高の相手と言える。
通り一遍の挨拶を終えたところで、ガルシア卿がハンカチで包まれた小さな何かをハンドバッグから取り出し、私に差し出した。
「――ミセス・フランスキのことは、本当に残念でした。
差し出がましい振る舞いとは知りつつ、わたくしも裏から手を回しておりましたが、彼女は自身の正義を貫くことを選びました。
これはわたくしが彼女から預かったものです。デリク卿に渡してほしい、と」
私は一瞬だけ瞑目してから、ガルシア卿が差し出したハンカチ包みを受け取る。
可憐な花が刺繍されたハンカチ包みの中には、昨年の2月に彼女と会って食事をしたおりに贈ったネックレスが収まっていた。奔放かつ勝ち気、それでいて妙に律儀な彼女らしい、私への最後のメッセージだ。
「なんとも、いたたまれぬものです。
それが世の常とは言え、善良かつ優れた才を持った者から先に死んでいく。そうやって若き才能が世を去る一方で、私のような老人が決死の形相で俗世にしがみつき続けている」
私の愚痴を聞いたガルシア卿は、華やかに笑った。
「まったく同感ですが、それを言うなら貴方はまず、わたくしよりも長生きすることを目標にされるとよろしい。
貴方のような尻の青い若造が『若者の死』を嘆くのは、30年早いですよ?」
大貴族の威厳もなにもあったものではないズケズケとした物言いに、思わず声に出して笑ってしまう。いやはや、食えない人だ。
「そういえば、老リーンハルトのご容態はいかがですか?
わたくし、先週の段階ではまだ生死の境で奮戦しておられる、と伺っておりましたが……」
ガルシア卿の問いに、私は自然と渋い顔になる。
「正直に申し上げれば、無意味な延命措置としか思えません。
クリアモン修道会の医師によれば、意識を取り戻す可能性は文字通り奇跡そのものであり、たとえ意識が回復したとしても重い障害が残ることは疑いない、と。
簒奪者アルフレッドの右腕であった以上、ラウレンツ殿下――失礼、モンタヌス5世陛下が取り仕切られる裁きの庭に引き出されざるを得ませんが、その筋から伝え聞いた範囲で言えば、モンタヌス5世陛下が賜られる恩赦のリストの中には、老リーンハルトの名前も載っているとか」
ラウレンツ軍が帝都の門前に展開したとき、アルフレッド軍の降伏を宣言して正門を開けたのは、老リーンハルトだった。そして門が完全に開かれたことを確認した彼は、致死的な毒を呷った。
我々はまさに死を迎えんとする老リーンハルトを拘束し、従軍医師の超人的な努力によって彼は一命をとりとめた。だがその意識はいまだに回復する兆しを見せない。
ちなみに降伏したアルフレッド軍に組みした貴族のうち、戦死を除くと、「己が一命をもって謝罪」した者はいない。
老リーンハルトを除けば、全員が全員、「簒奪者アルフレッドと、その寵妃にして姦婦たるフランスキ婦人」によって嘘を教えられたり家族を人質に取られたりしたことが原因で簒奪者アルフレッドに与せざるを得なかった、という主張だ。悲惨、としか言いようがない。
もっとも、アルフレッド殿下にとって最大のシンパだった元ご学友一同は、戦場で揃って名誉の戦死を遂げている。自分を裏切らない人材をきちんと見抜いて決戦の場を任せたアルフレッド殿下には最低限の「人を見る目」があったと言えなくもなし、その一戦で腹心の部下を全部使い切ってしまう程度の人脈しか作れなかった彼は救い難く幼稚な人間だったと言えなくもなし。なんとも、いたたまれない。
「恩赦ですか――願わくばミセス・フランスキの名誉も回復されると良いのですが。
あり得ぬこととは言え、わたくしとしては彼女の勇気を陛下が公の場で正しく評価されることを、強く祈りたいところです」
沈痛な表情でそう言いながら、ガルシア卿は神に小さく祈りを捧げた。私もまた、すばやく神に祈る。
エレオノーラはアルフレッド副皇太子を閨房から操り、最後は己の過ちに気づいた副皇太子によって殺され、副皇太子もまたその場で自害したというのが、表向きのストーリーだ。
だが実際に起こったのは、その逆だ。
野戦軍を失ったアルフレッド副皇太子は、帝都の門を閉じ、籠城戦を命じた。帝都を囲む城壁は高く、本格的な攻城兵器の準備まではしていなかったラウレンツ軍にしてみると「本気で籠城されたらマズい」としか言いようがない。
つまり純軍事的に見れば、アルフレッド副皇太子の選択は正しい。
だが世界一の巨大消費地である帝都で籠城戦を始めれば、帝国の経済は途轍もないダメージを受ける。帝都を守る帝国軍は万が一の籠城に備えて物資の備蓄をしているし、大貴族たちも一定レベルの備蓄は怠っていないが、一般家庭ともなれば、下手すると明日の食料すら備蓄がない。一週間もたたずに、帝都市民は飢え始めるだろう。
もちろんこの状況をアルフレッド軍は上手く使うこともできる。例えば市民が飢え始めたところで門を開いて市民を外に出し、ラウレンツ軍に対する強烈な兵站負荷とすれば、包囲側はいよいよ切羽詰まる。
門の外に出ようとする市民たちを轢き潰しながら帝都内部に突入するというのは、理屈の上では可能だが、「正統なる玉座の回復」を目的とするラウレンツ軍にとっては自殺行為だ。
つまり、何から何まで上手くやれれば、「帝都での籠城戦」はアルフレッド副皇太子にとって起死回生の一撃になり得た。
しかし言うまでもなく、そんな大事業をスムーズにこなせるだけの能力は、アルフレッド副皇太子にはなかった。老リーンハルトだって、一人ではとても無理だ。
籠城に伴う配給制へのシフト、配給切符の手配と厳正な配布、帝都内に居を構える貴族たちとの折衝および協力依頼、帝都内を流れる運河の閉鎖と警備、それらに関する軍のマニュアルの確認などなど、私だって「思いつきで策略を口にするな」と怒鳴るであろう仕事量だ。
ラウレンツ軍の軍議において「帝都に籠城されたらどうするのか」という疑義が出されたとき、シーニー君が「籠城という発想は素晴らしいですが、適切な実行は不可能です。書類を整える事務方だけで1個師団は必要になりますよ? 門を閉ざしたとしても、一週間以内に内側から開きます」と解答して質問者を一撃で黙らせていたが、これはそういう偉業にして愚行なのだ。
にも関わらず帝都の門は閉ざされ、城壁に姿を見せたアルフレッド副皇太子は徹底抗戦を叫んだ。
そしてその3日後、老リーンハルトによって門は再び開かれた。
それを可能としたのは、エレオノーラがアルフレッド副皇太子を泥酔させ、殺したからだ。
エレオノーラがハイリスクな強硬手段(暗殺に失敗したら、アルフレッド副皇太子は偏執的なまでに籠城を継続させただろう)に出た理由は、容易に推測できる。
「軍事的視点だけで言えば、この籠城戦はアルフレッド軍有利の籠城戦だ」と理解できる人間は、それほど多くない。むしろどう考えたって外から救援の軍が来る可能性が皆無な籠城を続けるのだから、アルフレッド軍の末端には「必敗」の意識が蔓延していただろう。
そんな兵士たちが市民への配給を仕切れば、何が起こるかは自明だ。
兵士たちは配給物資を可能な限り私物化する。そしていざ城門が破られたら「自分はラウレンツ軍の兵士だ」という顔をして略奪に参加するなり、さっさと降伏して備蓄した私財を賄賂に使うなりするだろう。
しかしながら配給が計画どおりに行われなかった場合、赤子や老人のような弱者から順番に、凄まじい勢いで市民が死んでいくことになる。
その惨事を前に帝都市民が蜂起する可能性は高いが、そうなったらなったで市民にも軍にも「無為」としか言いようのない死が蔓延する。
そしてこんな大惨事が、よりによって帝国の政治・経済・文化・宗教の中心地である帝都で起ころうものなら、帝国の威信などという概念は紙くずのように吹き飛んでしまう。
だからエレオノーラは、手遅れになる前にアルフレッド副皇太子を殺し、そして自分も死んだ。
とはいえこの英断は、帝国のメンツという方向から見ると、非常に宜しくない記録となる。
野心を抱いた副皇太子が父王を殺し、一時的に国を乗っ取ったというところまでなら、恥ずべき歴史ではあるが、どんな国でも起こってきたことだ。帝国の歴史にだって、そういう事件は何度か刻まれている。
しかし「副皇太子が出自も怪しい高級娼婦に誑かされ、国政を壟断し、愛人として囲ったその女に最後は暗殺された」となると、いくらなんでもいただけない。いや、そういう皇族は歴史的に見れば世界中に満遍なく分布しているだろうが、よりによってそれが世界に冠たるアルール帝国の副皇太子であり、しかも一時的にとはいえ帝国の頂点に上り詰めたとなると、さすがに外聞が悪いにもほどがある。
結果、「アルフレッド副皇太子は最期の土壇場において己の過ちに気づき、自分を堕落させた姦婦エレオノーラを殺してから自害した」というストーリーが公式見解となった。
簒奪者アルフレッドを悲劇のヒーローにするわけにはいかないが、貶めすぎるのもマズいというジレンマを前に、微妙な着地点を無理矢理に作るため、エレオノーラの苦悩も決意も、そのすべてが汚されたのだ。
「過ちに対し、それは過ちだと訴える。
たったそれだけのことが、どうしてこうも多大な困難を伴うようになったのでしょうね?」
陰鬱な思いに押しつぶされそうになりながら、気がつくと私はそんな言葉を口にしていた。アルール帝国を支える大貴族にとって、けして言うべきではない弱音。
けれどガルシア卿は、私の言葉を笑わなかった。
代わりに、祝勝会のど真ん中にできた、大きな人だかりに視線を送る。
「あの子の戦いはそういう戦いであると、わたくしは理解しておりますよ、デリク卿。
だからこそ貴方は、あの子を――ライザンドラ司祭を支援すると決めたのではありませんか?」
祝勝会の会場となった大広間のど真ん中にできた人だかりは、あまりにも大きく、またあまりにも密度が高かった。とてもではないが、その中心に誰がいるかなど見通せない。
だが、あの人々の中心にいるのは、間違いなくライザンドラ司祭だ。それ以外の可能性があり得ようか?
だから私は、ガルシア卿に向かって、決然と宣言する。
「私は、この世界を変えんと欲します。
その戦いの過程で、もしかしたらガルシア家とは決定的な対立をするかもしれない。たとえそうなっても、私は妥協も譲歩もしません。
ですがどうか、この若造がどこまでやれるかを見守って頂けませんか、レディ・ガルシア? 少なくとも貴女が天に召されるまでの間、日々退屈させないことだけは保障します」




