アルール歴2190年 1月15日(+15日)
――ニリアン卿レイナの場合――
静かな軋み音をたてて重たいドアが開いたとき、私は漫然と窓の外を見ていた。
鉛色をした空から細かな雪がしんしんと降り続き、威風堂々たるクローニア大聖堂の鐘楼に雪化粧をほどこしている。故郷が故郷なだけに雪と聞くと本能的に命の危険を感じる私だが、帝都での留学生生活の間にこの手の風情ある雪にも慣れた。
「お待たせして失礼、ニリアン卿。
ですがこちらとしても容易ならざる話ですから、ご容赦頂きたく」
従僕に先導されて部屋に入ってきたのは、帝国第二の都市を称するクローニア市にある大聖堂を管轄するシドニウス司祭だった。
ちなみにクローニア市が帝国第二の都市を称すると言った理由は簡単で、帝国には「面積では2位」「人口では2位」「歴史の長さでは2位」といった具合に大量の帝国第二の都市が存在するからだ。なおクローニア市は「街の中心となる教会の大きさが2位」という、背景を知らずに主張だけ聞くと、思わず「微妙」という感想を抱いてしまうような「第二の都市」だ。
その主張の印象はともあれ、クローニア大聖堂が巨大なのは議論の余地もない。そして実のところ、かつてのクローニア大聖堂は、敷地面積においても、鐘楼の高さにおいても、帝都のアルール大聖堂を上回っていたという。
しかしながら歴史の荒波に揉まれるうち、クローニア大公国はクローニア領として帝国の中核州となり、これに伴いクローニア大聖堂はアルール大聖堂よりも小さくなるように修繕されたそうだ。それゆえクローニア市民の間では、いまだもって大聖堂と言えばクローニア大聖堂のみを意味する(帝都の大学に留学していた頃、ルームメイトがクローニア市出身だったせいで、このあたりの機微を理解するまで随分と苦労した)。
このような歴史的経緯から推測できるように、クローニア大聖堂を統括する司祭という地位にもまた独特の重みがある。具体的に言えばジャービトン派のクラシックな本流を成すのが、クローニア大聖堂を中心とした人脈なのだ。
もちろん、実際の教会政治の話となれば帝都がその中心であり、ジャービトン派の中枢となる〈評議会〉も帝都を基盤としている。ジャービトン派全体から見ても、「クローニア市に配される」というのは政治的主流から滑り落ちたことを意味する(なにせ帝都からクローニア市まで、全行程で馬車を使っても4日は見たほうがいいくらいには距離がある)。
それでもなお、ジャービトン派にとっての聖地はクローニア市であり、クローニア大聖堂だ。「ジャービトン派の政治的中心がアルール大聖堂にある一方で、文化的中心はクローニア大聖堂にある」と言うのが、最も誤解なく伝わる言い方となるだろうか。
そしていま、私の前にはクローニア大聖堂を取り仕切るシドニウス司祭が立っている。
「こちらこそ、貴重なお時間をいただけたこと、深く感謝いたします。
容易ならざる話であるという点につきましても、まったく異存はございません」
通り一遍の礼を口にしてから、シドニウス司祭に指し示されるがままに着座する。さて、問題はここからだ。出てくる結論に大きな差異が生まれるとは思えないが、細かい調整が必要になる可能性は高い。
「まずは手短に、ジャービトン派としての合意をお知らせします。
ジャービトン派は、デリク卿の計画に協力いたします」
そのものズバリとしか言いようのない直截な言葉に、思わず顔をしかめる。このご時世、どこで誰が聞き耳を立てているかわからない――が、よくよく考えてみればここはジャービトン派の内輪も内輪、これ以上の内輪はあり得ない、派閥の深奥だ。かの〈評議会〉ですら団結力という面では怪しいものだが、このクローニア大聖堂の僧房において敵の心配をする必要はない。
一人で得心する私を福々しい(それでいてまるで油断ならない)瞳で見つめながら、シドニウス司祭は報告を続けた。
「ボニサグス派も、賢人会議も、我々の味方です。
ボニサグス派にしてみれば、自派の司祭が『異端の兆候なし』と報告するニリアン領に対し、審問会派があくまで『異端としての掃滅』を主張するというのは、完全に一線を越えたと言うほかありません。
また賢人会議は、先年に賢者マクファーレンが天に召されてからというもの、審問会派とは距離を置くようになっていました。審問会派の功績を否定することはないにせよ、彼らとしても今の審問会派はいささかやりすぎということでしょう」
このあたりまでは、デリク卿の読みどおりだ。「さすが」以外に言葉もない。
だがこうなってくると、デリク卿の読みから外れたらしき部分の動向が気になる。
そんな私の疑念を感じ取ったのか、シドニウス司祭は苦笑すると言葉を続けた。
「問題があるとすれば、ミョルニル派ですかね。
彼らは自派の司祭が中心人物として関わっているというのに、『派閥全体としては中立』だそうです。ただ、個々人が勝手に動くぶんについては自由だとか。
いやはや、私としては『なんともはや』としか申し上げられないところですが、もとより多くを期待できぬ相手でもあります。この程度で良しとすべきでしょう。
正直なところ『派閥の総力をあげて支援する』と言われるより、対処も計算も楽です」
ひどい言いようだが、政治を仕事とする人間としては「まったくですね」と同意するほかない。大規模(かつ複数レイヤーで同時に進行する)集団戦において、統制のとれない個人の群れを援軍として得るというのは、内部に敵を抱えるに等しい。ミョルニル派が有する情報ネットワークを組織的に利用できる可能性が失われたというのは「非常に惜しい」という他ないが、こればかりは仕方ないと割り切るしかないだろう。
「ともあれ、ミョルニル派が派閥全体として審問会派に味方することはありません。ですので我ら有志が発起人となって教皇令の審査請求を起こせば、審査が門前払いされることはけしてありません。
このあたりの力学については、我らジャービトン派を大いに信用頂いて結構かと」
シドニウス司祭はやや自虐的に語っているが、この手の複雑怪奇な教会内部の政治システムとその運用、そしてそこで自分たちの意思を通すための力学にかけては、間違いなくジャービトン派がこの世界で最も優れている。
私にしたって教会法に精通しているわけではないので、教会政治の細部については言われたことを言われるがままに信用するしかない。それに、ここで何としても私が知らねばならないのは、ひとつだけだ。
「つまり、ラウレンツ皇太子が正当なる地位を回復するために起こす戦いに際し、教会は最低でも中立を保つ――そう考えてよろしいのですね?」
私の問いに、シドニウス司祭は強く頷いた。
「間違いなく。すべてが理想的な展開をすれば、教皇の名においてラウレンツ皇太子軍の正統性を支持する声明を出すところまであり得ます。
ですが最悪の場合でも、神聖騎士団が副皇太子を守るために招集されることはありません。同様に、ニリアン領を焼却するため神聖騎士団が動くといったことも、ありません。
ただし、今回の騒乱に区切りがついた後、ライザンドラ司祭がニリアン領の司祭を続け得るか否かに関しては、現状では確約致しかねます。こればかりはミョルニル派の意思も関わってきますし、なにより……」
シドニウス司祭はそこで言葉を濁したが、彼が何を言いたいかは明白だ。
デリク卿の計画において、ライザンドラ司祭はラウレンツ軍の最前線に従軍することになっている。そこで非業の戦死を遂げる可能性は一定レベルであり得ることだし、戦場のどさくさに紛れて彼女を暗殺しようと企んでいる者が身内に紛れ込んでいる可能性も高い(エイダ伯あたりは特にあり得る)。
「この内戦の後、ライザンドラ司祭をどのような地位に迎えるかは、彼女が戦乱を生き延びてから考える」というのは、判断として妥当と言わざるを得ない。私としては彼女がこんなところで死なないように最善を尽くすつもりだが、こと戦場においては「最善を尽くす」ことと「望む結果が出る」ことの相関が非常に弱い。
だからこそ、私は下腹に力を入れて、微笑む。
祖父から学んだ、戦士の笑い方。
「ライザンドラ司祭は、必ずやこの戦いに勝利するでしょう。
私見ですが、彼女がミョルニル派に落ち着いたのは、現状においては必然であろうと考えております。彼女は今なお果ての知れぬ旅を続けていますし、そんな彼女を既存の社会の枠組みで捉えうるとすれば、かろうじてミョルニル派と判断するほかありません。似たような旅を精神のレベルで行っていた聖ユーリーンを、今のボニサグス派は受け止め損ねたわけですしね。
そして繰り返しになりますが、それゆえにライザンドラ司祭は勝利します。なぜなら聖ユーリーンと異なり、私達全員が彼女を支えるのですから」
虚勢と呼ぶに相応しい私の言葉を、シドニウス司祭は笑顔で受け止めた。丹田に力が込められた、戦士の笑みだ。
「いやはや、実に心強いお言葉ですな。
さすがはあのデリク卿が全権を委任しただけのことはある。デリク卿もたいしたイカサマ師ですが、あなたもけして彼に引けをとりませんなあ」
シドニウス司祭がデリク卿をイカサマ師呼ばわりするのは(そして私もその一味にカウントするのは)、いたって当然のことだ。
確かに私はデリク卿に全権を委任され、雪のサンサを突っ切ってこのクローニア市まで来た。
だが私がニリアン領でデリク卿から計画の協力者となることを求められたのは、去年の9月末のことだ。ライザンドラ司祭と(包囲下における)2度めの会見を終えたデリク卿は、あらゆる事務的な準備を整えた上で、私にこの計画の協力者としてジャービトン派を説得する任務を託した。
私は即決でデリク卿の提案を受け入れ、翌日朝にはニリアン領を出てクローニア市へと向かった。途中で本格的な降雪が始まったが、幸いにして難所はすべて越えており、南に下るにつれて旅足は早まった。私がクローニア市の門をくぐったのは、12月初旬だ。
これは逆に言うと、クローニアに集まってきたジャービトン派の重鎮に向かって「ダーヴの街では過ぎ越しのミサでライザンドラ司祭が説法を行うし、そうなれば人々は感涙にむせぶことになる」だの「デリク卿はエイダ伯をうまく御しながら、必勝の体制を作っている」だのいけしゃあしゃあと私が語ったそのすべての言葉は、単なる予断に過ぎないということだ。
もちろん私は今頃サンサ教区が自分の予測どおりの状態になっていると確信しているし、その確信についてはジャービトン派の重鎮ですら妥当性があることを認めた――認めたからこそ、私はシドニウス司祭と友好的な会見を続けられている。
でもおそらくはジャービトン派ですら、今この瞬間のサンサ教区がいかなる情勢にあるかは、知らない。もしかしたらライザンドラ司祭は既に死んでいて、ダーヴの街は審問会派の司祭によって堅固に守られ、なにかのはずみでエイダ伯がデリク卿を殺しているかもしれない。
それでもなお、ジャービトン派はデリク卿が示した策に乗った。
これはつまり、それほどにデリク卿の策は用意周到であるということであり、ジャービトン派はこんな危うい橋を渡らざるを得ないほど追い詰められているということだ。まあ、彼らも何らかの保険はかけているだろうが。
そんなことを考えていると、ふとシドニウス司祭が問いを投げかけてきた。
「ニリアン卿。あなたはライザンドラ司祭を深く信頼しているようですが、彼女が何を目指しているのか、理解されておられますか?
それを理解した上で、ライザンドラ司祭を支持されておられるのですか?」
おや。これはまた実に剥き出しな問いだ。
だが、かのジャービトン派がここまで言葉を飾らずに問うてきた以上は、私も言葉を飾らずに答えるべきだろう。
「彼女の目指す終着点がどこにあるのか、私にはわかりません。
ですがそれでも私は彼女を支持します。なぜなら彼女は、ニリアン領がニリアン領であり続けるために必要な尊厳を取り戻すと、私に誓ってくれましたから。
もちろん、その過程においてニリアン領が生物学的な存亡の危機に立たされれる可能性は高いと言えます。そのリスクを管理するのは、世俗の支配者たる私の役目ですし、その視点に立てば私は彼女を拒否すべきかもしれない。
ただ、所詮は世俗の支配者でしかない私では、領民たちに真の尊厳ある生活を取り戻せません。司祭様に向かって言うのはお恥ずかしい限りですが、それは神の領域でしょう?
であれば、私にとり得る選択は1つだけです」
私の解答を聞いたシドニウス司祭は、いまひとつ納得できないという表情を作って首を横に振った。
「あなたの考え方は、いささか近視眼的なように思えます。
目前のリスクと、来るべきリスクを比較して、意図的に後者を軽く見積もっている。
そう、私には感じられます」
なるほど。そこは環境の違いというやつだ。
私はシドニウス司祭が浮かべた「いまひとつ納得できない表情」を真似しつつ、ゆっくりと首を横に振った。
「失礼ながら司祭様は、サンサ教区に生きる民が受け入れている掟を、軽んじておられます。
サンサ教区に生きる者にとってみれば、『雪が降ったら神任せ』です。最大の都市であるダーヴの街においてすら、冬になれば降り積もった雪が原因となって、老いも若きも無差別かつアトランダムに死を迎えます。
つまるところサンサ教区の人間にとって、来年の春を生きて迎えられるかどうかなど、神ならぬ身には知り得ぬことなのです。来るべきリスクを軽んじているのではなく、そのリスクが――たとえそのリスクが一つの村の全滅を意味するとしても――その年の冬を越えた未来に存在するという段階で、サンサ教区においてはそもそも論の範囲に入る。
それだけのことです」
私の言葉を聞いたシドニウス司祭は、「その言葉を待っていた」と言わんばかりの笑みを浮かべながら、何度も頷いた。
「お見事。さすがはニリアン卿の名を継がれるだけのことはある。
貴女の見解は、完全に正しい。私にしたところで、今この瞬間に死を迎える可能性がゼロなのかと問われれば、ゼロではないと答えざるを得ません。
どんなに保障と保険を重ねても、生きとし生けるものの生は極めて危うい。その危うさは、生きるということの根幹にあります。困難と戦おうが、困難から逃げようが、こうすれば大丈夫と人の子が語ることなど不可能なのです。
そのうえで打ち明け話をしますと、実は私も、ライザンドラ司祭が何を究極の目標としているのか、測りかねています」
驚くべき告白に、シドニウス司祭の瞳を見つめてしまう。しまった、こちらの驚愕を悟られたと思ったが、これは隠す必要もない驚きだ。
だから私は率直にその思いをぶつける。
「これは驚きました。
ジャービトン派はライザンドラ司祭というリスクを完全に把握した上で、このたびの計画にご助力いただけているものとばかり」
私の素朴な言葉に、シドニウス司祭は呵呵と笑った。
「それは私を買いかぶっておられる! なにせライザンドラ司祭は当代きっての天才ですぞ? 私が見たところ、彼女は故ハルナ嬢ほどの果てなき深淵は抱えていないが、世界を覆う天空にも似た広大さがある。いずれにしても、余人の知が及ぶ才ではありません。
そして遺憾ながら我らがジャービトン派もまた、頭の回転の速さや鋭さをもって畏怖されているわけではない……ああいや、もちろん無知蒙昧な帝都の同僚どもに向かっては、『ライザンドラ司祭の企みはすべて看破している』と語りましたがね!」
なるほど。確かにライザンドラ司祭の視線はおそろしく高くて広く、そしてサポートしているこちらが焦るくらいに足元がふわっとしていることがある。
もっとも彼女は地を歩む人というよりも空を飛ぶ鳥であり、それゆえ足元が疎かに見えるだけなのだろう、とも思う。
そしてそんな彼女を見上げながら必死で支えようとする自分は、ただの道化なのだろう、とも。
「ただ私の読みが正しければ、ライザンドラ司祭は帝国と教会の双方を根底から揺るがし、世に未曾有の戦乱を招くでしょう。後世の歴史家がこぞって『人類史上最悪の愚行』と呼ぶような戦乱が地を覆い、場合によっては人の子の3人に1人は死ぬことになるかもしれません。
それだけの無理を、ライザンドラ司祭は成し遂げようとしている。ほとんど直感ですが、私はそう考えます。
でも私は、それも良しと思うのですよ」
シドニウス司祭の赤裸々な告白を、私は慎重に受け止める。私もハルナさんとシャレット家の間で起きたこと、そして故シャレット卿が温めに温めぬいた破滅願望のことは、聞き及んでいる。
その破滅願望と同じものをシドニウス司祭が抱いているというのであれば、私はデリク卿に与えられた権限を行使して、この合意からシドニウス司祭を排除すべく動く必要がある。
だがそんな秘めたる思いを、百戦錬磨の政治家であるシドニウス司祭は一瞬で読み取った。
「私には破滅願望などありません。そこはご安心頂きたい。
ただ――そうですね、せっかくですから共犯者たるニリアン卿には、ジャービトン派の秘儀中の秘儀をお教えしましょう」
右から左へと目まぐるしく跳躍する議論に、必死の思いで食いついていく。まったく、この世界にはこんなにも天才だの秀才だのが多いくせに、揃いも揃って皆どうしてこうも拗れるのか。
「さて、ミョルニル派の概略については帝都で勉強されたかと思いますが、ニリアン卿は彼らの思想を不思議に思いませんでしたか?
彼らのモットーにはあまりにも巨大な理論的欠陥があることに、ニリアン卿はお気づきでしたよね?」
突然始まった宗教論に思わず面食らったが、それでも私はすぐにシドニウス司祭が何を言いたいのかを理解した。
確かに私は帝都に留学していた頃(しかもまだ右も左も分からない子供時代に)、宗教学基礎の講義に派遣されてきた司祭に向かって、タブーすれすれの無邪気な質問をしたことがある。
だから私は、その問いをもう一度ここで繰り返す。
「――ミョルニル派のモットーは、自然に帰り、自然から学ぶことです。
しかし人間もまた自然の生物なのですから、なにも野山に出て他の動物から学ぼうとしなくても、ただ隣人たちの振る舞いから学べば良いのではないのでしょうか?
もちろん人間以外の動物や植物から生の在り方を学ぶことは素晴らしいと思いますが、ミョルニル派が意図的に『動物』から人間を除外しているのは、なぜなのでしょう?」
私の問いを聞いたシドニウス司祭は、嬉しそうに両手を叩いた。
「まさにそれこそが、ミョルニル派の抱える根本的な問題です。
そしてそれが、ミョルニル派とジャービトン派の関係が険悪であり続ける、最大の理由でもあります。
ジャービトン派とミョルニル派は、もともと1つの派閥だったのです。しかしあるとき同時に2人の突出して優れた司祭が生まれ、やがて1つの派閥は2つに分裂しました。
それゆえに、今なおこの2つの派閥は不倶戴天の関係にあります」
ジャービトン派とミョルニル派が、もともとは1つの派閥!?
彼らが公表している派閥の歴史のどこを見ても、それを示唆するような記述はない(はずだ)し、成立年代だってまるで違う。
でも、いまここでシドニウス司祭が嘘を(しかもこんな脈絡のない嘘を)吐く理由がない。だとしたら、ジャービトン派とミョルニル派はもともと1つの派閥だったというのは、本当だと考える他ない。
とはいえ、それが現在の状況にどう関係しているというのだろう?
「そこで不思議そうな顔をされる必要はありませんよ、ニリアン卿。
なぜなら貴女はもう、私の話がどこに向かおうとしているのか、悟っておられるから。そうでしょう?」
……ええい。確かに、私の中にはくっきりとした仮説が浮かび上がっている。それを見透かされている以上、隠し立ては無駄だ。
私は小さく咳払いしてから、仮説を口にした。
「ミョルニル派とジャービトン派がもともと1つの派閥であり、ミョルニル派が『人間以外の自然』に真理を求めているのであれば、ジャービトン派の本質は『人間という自然』に真理を求める派閥だ、ということになります。
この仮説は、ジャービトン派が政治に長けることと矛盾しないどころか、むしろ相互に妥当性を補強します。政治学の基礎に則るなら『政治とは人間が生きようと決意し選択すること』ですから、政治を実践することは即ちジャービトン派の本義にかなったことと言えるでしょう」
2たす2は4という程度のシンプルな仮説を聞いたシドニウス司祭は、またしても嬉しそうに何度も頷いた。私は半ば呆れつつ、それでも少しは誇らしく思いながら、仮説を先に進める。
「そして今、ライザンドラ司祭という人間なのだか動物なのだか判別し難い、それでいてその双方を軽く超越したかのような存在が、人間の世界の流れに棹を差そうとしている。
そうである以上、ジャービトン派の真髄を大聖堂で守るシドニウス司祭としては、彼女がどこから来て、何をして、どこに行くかを観察したいという欲望を抑えることなど、絶対にできない。
たとえシドニウス司祭の卓越した知性が、ライザンドラ司祭の旅路の向こうに横たわる数十万に及ぶ屍を幻視したとしても、そんな些細なことはどうでもいい」
聞く人が聞けば糾弾の言葉にしか聞こえないであろう私の仮説を聞いたシドニウス司祭は、大きく頷くと、強い笑みを浮かべた。
武人の、笑み。滅多に笑わなかった祖父がごくごく稀に見せてくれた、笑み。
「いやはや、デリク卿は実に幸運ですし、幸運な人間ならではの行動様式を外しませんね!
貴女のような優れた協力者を得ただけでなく、陰謀全体の帰趨を決しかねない判断をその人物に委ねる。一見すると幸運と無謀の組み合わせですが、ジャービトン派として言わせて貰えばこれは必然と必然の組み合わせです。人の世の幸運とは、そのようなものなのですよ。
教会としては、デリク卿はもとよりニリアン卿とも、末永く良い関係を構築していきたいものです」
そう語り終えたシドニウス司祭の顔からは武人の笑みは消えていて、ただの柔和な政治家の表情だけがあった。
私もまた政治家の顔を作ると、司祭が差し出してきた右手を、強く握る。




