アルール歴2179年 6月30日(+5日)
――カナリス2級審問官の場合――
「……ハザイ書4-11.144が示すように、神は決して過ちません。これを神の完全無謬説と言います。
ゆえに人が生きる現世に瑕疵があるならば、それは人の過ちなのです。
もし不信心者が神の無謬性に疑義を示すのであれば、まずこのことを明示しなさい」
私の言葉に、ベッラ見習いとスヴェン見習いが何度も頷く。
アルール・ノヴァの中心地にある中央神学校審問院において、書物やノートは持ち込みを禁じられている。見習いたちは己の記憶のみを頼りに、審問官試験へと至る3年の研修期間を過ごしていく。
無論、それは教官たる我々も同じだ。そしてそれゆえ、特に才気煥発で、かつ野心的なハルナ見習いのような生徒は、教師に反問してくる。
「カナリス師、ですがアリア書2.16が示す、『神は人より大きく、人の過ちもまた神の正義である』を踏まえれば、神の完全無謬説ではなく、超越的無謬説のほうが、より神意を明らかにしているのではありませんか?」
なるほど、ここで超越的無謬説か。ハルナ見習いは実に優秀だし、よく勉強している。
だが、まだ若い。そして未熟だ。
「ハルナ見習い。アリア書2.16を踏まえて超越的無謬説を唱えたのは誰ですか?」
ハルナ見習いは、待ってましたとばかりに胸を張って答える。
「17世紀を代表する賢者、アムンゼン大司祭です。
第58回アルール・ノヴァ大会議にてこの説は提示されました」
だと思った。でなくてはこの文脈で超越的無謬説を持ち上げるような愚行を犯すことはあるまい。私は少し浮ついた表情になっているハルナ見習いを、厳しい言葉で糾弾する。
「アリア書2.16を踏まえての超越的無謬説は、アルール歴1654年7月1日の第58回大会議において提示された。これを提示したのは、賢者アムンゼンの名で知られる、アムンゼン大司祭だ。そこまでは君の言うとおりだな。
だがアルール歴1766年2月1日の第1012神学審議会において、超越的無謬説を提示したときのアムンゼン大司教はすでに老境著しく、その思考の精度に疑義があることが、各種資料から明らかとなった。
ゆえに、超越的無謬性は否定こそされていないが、全面的に肯定されているわけでもない――いわば留保された数多くの諸説の、ひとつに過ぎぬ。
ハルナ見習い。その説を唱えた人間の名声をもってのみ、その説の価値を判断してはならない。さもなくば同じ陥穽の先に、君は反逆者アキレウスの説を称揚させられることになるぞ」
反逆者アキレウスというのは、12世紀における巨大な知性でありながら、その晩年において異端に走った人物だ。いまでも異端者の多くは反逆者アキレウスの言葉をその教条とし、未熟な異端審問官はこれによく抗し得ない。
異端者が語る、一見すると現代神学の基底公理かのように思える言葉を、迂闊にも審問官が肯定してしまい、その直後その言葉が反逆者アキレウスの言葉であることを明かされる。審問官が地位と生命を失うことになるケースとしては、決して珍しくないパターンだ。
完全に論破されたハルナ見習いは、しゅんと肩を落としたが、すぐに闘志を取り戻したようで、姿勢を正すと「貴重なご教示、ありがとうございます」と頭を下げた。一般的な言語に翻訳すると「次は勝ちます」という意味。
よろしい。それでこそ審問官見習いであり、私の生徒だ。
ともあれ、最後の質疑応答も終わったところで、私は教室の後ろに座っていたマルタ特級審問官に軽く一礼する。老マルタは鷹揚に微笑むと、両手を軽く叩いた。解散の合図だ。
合図にあわせ、生徒たちは老マルタと私に深々と頭を下げると、教室を去っていった。無論、互いに「天に栄光を、地に繁栄を。人の魂に平穏あれ」の祈りは忘れない。
ちなみに、老マルタはただのタイムキーパーとしてこの教室にいるのではない。
もし見習いからの質問に対し、私が間違った解答をしたり、あるいは見習いが私を論破した場合は、勝利した見習いはその場で審問官試験を免除される――その勝敗の審判が、老マルタだ。
無論、見習いに劣る現職審問官など不要なので、この場合、私は良くて1年の再教育、最悪で自決を求められる。この場は、教師が生徒を導く場などではない。教師と生徒が戦う場なのだ。その緊張感なしに、狡猾な異端者と戦う審問官は育たない。
とはいえ、文字通り命がけの講義を2時間もすれば、いささかの疲れは否めない。
肩を軽く回した私を見た老マルタは、「少し茶でも飲んで行かぬか」と声をかけてきた。お断りする理由もないので素直に頷き、老マルタの3歩後を追う。
数分歩いた先にある教職員専用の喫茶室には、誰もいなかった。この時間にしては珍しい。
講義が終わった直後は、一息つこうとする教師たちで、だいたいどの席も一杯になるものだが。
私は茶の良し悪しがわからないので、老マルタが勧めるがままのメニューを注文する。運ばれてきた茶は、たぶん、最高級品だった。
上品な甘みの茶菓子を食べながら、今年の見習いたちの所感を老マルタに伝える。特に何も意味のない、雑談程度の話題だ。老マルタも私の所感に対し、特に何ら深い意味を持たない批評を返してくれた。そう、息抜きの雑談とは、かくありたい。
が、そんな穏やかな時間は、老マルタの何気ない一言で突如終わりを告げた。
「近く、コンクラーベが始まる」
思わず動揺し、茶の入ったカップを取り落としそうになった。慎重に、カップをソーサーに戻す。だが動揺は抜けきっていないようで、カップとソーサーがガチリと嫌な音をたてた。
コンクラーベ。新しい教皇を選出する会議。これが近く開催されるということは、つまり現教皇アレッサンドロ2世が突如、天に召されたということだ。
だがそれは、普通ならあり得ない。神の第一の下僕である教皇は、必ずその寿命をまっとうする。暗殺など絶対に成功しないし、病や老衰とも無縁だ。そしてそれゆえ、歴代教皇は己の寿命が途絶える前にその気配を察し、周囲に自らの死を予告してきた。
だが、アレッサンドロ2世は予告なく急逝した。となれば、その可能性は1つしかない。
「――啓示があったのですね」
老マルタはゆっくりと頷いた。
啓示とは、文字通り、神の啓示だ。全能たる神が、唯一御自ら、地上の我らに言葉をもたらす奇跡。かつて神話の時代に結ばれた約定のなかで、神と悪魔が互いにその行使を認めあった、ただひとつの直接的奇跡でもある。
そしてこの啓示は、我ら不完全な人間にとって、あまりにも重い意味を持つ。
まず、啓示を受けた人間(必ず教皇だ)は、間違いなく死ぬ。神の知の、その一端にでも触れた人間は、その精神が超越してしまう。そしてかような精神と肉体の不一致が起きれば、肉体も速やかに死に至る。
その上、啓示を受けたものの言葉は、我ら凡俗にとってほぼ意味をなさない。超越した精神による理解は、我らの知性のほぼ限界か、その境界上にあるのだ。
ゆえに、啓示の言葉を解き明かすには、その時代における最高の賢者たちが結集する必要がある。
動揺からなかなか立ち直れない私に向かって、老マルタは悪戯っぽく微笑んだ。
「よもや、啓示があった直後に、超越的無謬説などという黴の生えた説を聞くことになるとはな。
これもまた、神の啓示が及ぼした余波かもしれぬ」
わたしは無言で頷きつつ、若くて利発な見習いの顔を思い浮かべる。
超越的無謬説が持つ理論面における最大の問題は、啓示との相性だ。
啓示は神の言葉ではあるが、歴史上何度か、誤った啓示としか言いようがない啓示がなされたことがある。だが神は間違えないのだから、これはときの賢者たちが啓示を読み解き損なったのだと考えねば、矛盾する。
一方で超越的無謬説は、神にとっては我々人間ごときが理解する「正誤」など通用しない、というの考え方がその根幹となる。これは力強い説だが、これに則ると、「我々の目から見れば誤りとしか言いようがないが、神の知においては正しい啓示もあり得る」こととなる――さすがの私でも「そんな高度な思想を納得して理解できる市民がどれほどいると思っているのか」と言わざるを得ない。
想像してみてほしい。例えば何らかの啓示があったが、その内容と未来に食い違いが起こり、看過しえぬ人的・経済的損失が起こったとしよう。
さて、ここで「啓示に従ったのに被害を受けた、どういうことだ」と怒り狂う王侯貴族に対し、超越的無謬説に立ち「我らの目から見て誤りと思えるものも、神にとっては正しいのです」と説明したとする。それで彼らが納得するだろうか?
無理だ。そんなことより、完全無謬説に則り、啓示の解釈を間違った賢者たちを殉教させたほうが、八方すべて丸く収まる。
「カナリス教官。儂の権限を以って、貴様の審問院教官としての任を解き、特捜審問官に任ずる。また、ハルナ見習いをハルナ3級審問官に昇格させ、貴様の助手とする」
老マルタの言葉に、私は居住まいを正す。
元特捜審問官だった私を――そして休養の必要から2級審問官として教職に就いていた私を――現場に呼び戻す。つまり今回の啓示は、なんらかの巨大な異端に関わるものだ。
「啓示の解析は我々審問会派でも進めておる。腐りきった賢人会議の解釈など待ってはおれぬし、どうせ奴らは数年に渡って議論した挙句、世俗の権力に阿った事なかれ主義の解釈を出すに決まっておる。
カナリス特捜審問官よ、戦いに備えよ。この度の異端は、神が御自ら指し示す、世界をゆるがす大異端である。
必ずや、完膚なきまでに、異端を掃滅するのだ」




