アルール歴2189年 5月29日(-7日)
――神城ナオキの場合――
「こいつはまた、特大級で面白いことになってやがるな。
皇帝が死んだかもしれない、だと?」
報告書を読み終えた俺は、ついそんなどうでもいい感想を漏らしてしまう。
「司令の感想は後回しでお願いします。
まずはこの緊急事態にどう対応すべきか、ご指示を。
デリク卿は我々より早くこの事態を知っているはずですが、今に至るまで我々には何ら新しい指示を出していませんし、情報の共有もありません」
渋い顔をしたシーニーがズケズケと言い放つ。普段ならブルーノに伝令を任せるところだが、状況が風雲急を告げたこともあって、彼女自らが俺のアジトにまで足を運んできたというわけだ。
ともあれ、目下の状況に対してどう動くべきかとなると、選択肢はそれほど多くない。こっちだって相変わらず「勝ち目はゼロじゃない」程度の綱渡りをしていることに違いはないのだから。
「基本的な方針に変更はない。つまり、デリク卿を支持する。たとえ皇帝を殺したのがデリク卿だったとしても、その程度ではこの筋書きは変わらん。
ただこれは俺のカンに近いが、デリク卿も今起きていることすべてをコントロールできてはいない。
だから彼との交渉では下手に出過ぎる必要はないし、むしろ『我々のほうが恩を売っている側だ』ということを態度ではっきり示せ。
もうお前の実力はデリク卿にも見せつけたんだろ?」
俺の質問に、シーニーは短い頷きで答えを返す。
「なら、せいぜいお前を高く売れ。
デリク卿は交渉と陰謀はお得意だが、戦争となると微妙だ。
事実、彼は南方での戦争で敵の残党を鉱山にまで逃しちまった挙げ句、最後の仕上げは直接殺すんじゃなく、土木工事を選んだ。
彼の凄みは、武の名門を率いる当主でありながら、自分が軍事オンチなことを自覚し、その弱点をきっちりカバーしてるところにあると言ってもいい。
つまり彼は、お前のような才能を、間違いなく高く買う。
ああ、そういえばシーニー。お前は万の規模を仕切ったことはあるか?」
今度の質問には、シーニーは首を横に振る。
「その規模の軍勢を実際に指揮したことはありません。
ですがスヴェンツの王立軍事学院に在学中、机上演習で誰かに負けたこともありません」
なるほど。前世でも噂には聞いていたが、ホンモノの軍隊における机上演習というやつには、幾種類かあるという。最も本格的な演習は完全リアルタイム進行で行われ、司令室に飛び込んでくる情報の密度や不確かさも、そのすべてが限りなく現実に近いそうだ。
シーニーが学生時代に負け知らずだったという机上演習もその類のものらしく、その期間は最大で一週間に及ぶとか。つまり7日ずっと野外でテント生活をしながら、24時間いつ伝令が飛び込んでくるかわからない不眠不休の状況に置かれ、それでもなおかつ的確な判断と指揮が下し続けられるかどうかが対戦形式で問われる――そういう狂気じみた演習において負け知らずの女王だったというのだから、つくづくコイツは化物だよなと思う。
ま、コイツを紹介してくれた人脈の一端にいたマダム・ローズは「やまほど女の子を見てきたわたくしの経験から言えば、怖いほど才気煥発だけど、ひどく壊れやすいタイプね。本当の戦場には向かないんじゃないかしら」と言っていて、それもそれで正しい評価ではあったのだが。
「ならデリク卿にも、そう言っておけ。
彼は人間の弱さを知るタイプの策士だ。お前が万を超える規模の戦いを仕切った経験がないと知れば、それをどうカバーするかを考えるだろう。
ま、俺ならそんな馬鹿げた戦争が起こらない方向に話を誘導すると思うが、こればかりは何とも言えん」
俺の言葉に、シーニーは小さく頷く。
「で、だ。報告書に文字として残せなかった範囲の報告をしてくれ。
帝都で何が起こった? なぜ皇帝は死んだ?」
俺に促されたシーニーは腰の水袋を手に取って軽く口を湿らせてから、とてつもなく面白いとしか表現できない報告を始めた。
「コンラドゥス4世陛下は表向き、園遊会に向かう馬車が事故を起こして重態、ということになっています。ですが本当に起きたのは、園遊会を利用しての、アルフレッド副皇太子による宮廷クーデターです。
暗殺未遂事件とそれに伴う政争を経て、副皇太子はより強く武断派としての旗幟を鮮明にした、というのは以前の報告書にも書いた通りです。武断派と言うより、脳筋派と言うべきスタンスですが。
ともあれ4月20日の夕刻、アルフレッド副皇太子とその一派によってコンラドゥス4世陛下は拘束された模様です。未確認ですが、アルフレッド副皇太子に譲位するという書面にサインもなされたとのこと。
つまりコンラドゥス4世陛下はもう殺されたか、さもなくば死んだも同然ということでしょう」
なんとまあ。
そりゃあもちろん、その手の騒動は絶対に起きるだろうとは踏んでいた。
一定レベルでの文明を築いた社会が煮詰まってくると、「自然で健全な肉体こそが健全な人間の基本であり、自然で健全な肉体によってのみ人間社会は健全化できる」「軽佻浮薄かつ退廃的な文化は不自然なものであり、文化文明もまた自然で健全なものでなくてはならない」と言い出す奴が必ず出てくる。
これは人類の仕様とでも言うべきもので、たぶんどうにもならない。人間はいつだって「真実を簡単に説明してほしい」のだ。
だがそれはそうとして、この手の主張を掲げた輩がクーデターを成功させるというところまで行くかとなると、普通はそうは問屋がおろさない。シンプルな理想を叫んだだけで、カネと名誉で雁字搦めになった社会が変わったりはしないのだ。
「青臭い脳筋バカが、手際よくクーデターを成功させられるはずがない。
誰か絶対に黒幕がいるはずだが……そういえば、クーデターが起こったのは4月20日と言ったな?」
俺の問いに、シーニーはすぐさま頷き返す。
「ならその絵図を描いたのはデリク卿と見て間違いない。
4月初頭には、デリク卿と麾下の精鋭部隊がダーヴに向かって出発してる。つまりデリク卿はクーデターという案件そのものに対しては完全に中立だし、中立であることを誰からも批判されない立場でもある。しかも虎の子の精鋭部隊は自分がしっかりと掌握した状態で、な。
こんな状況が偶然起こるだなんて、あり得るものか。帝都でバカ殿を焚き付けたり支援したりしたのは、ほぼ疑いなくデリク卿の協力者だ。奴は帝都を混沌の坩堝に叩き込みつつ、自分はそれを外から眺めていられる特等席を仕立てたってわけだ」
俺の予測を聞いたシーニーは、汚物を見たかのように顔をしかめた。だが特に反論がないところを見ると、彼女も俺の見解に同意はしているのだろう。つまりあのしかめっ面は「よくそんな薄汚いことを一瞬で思いつきますね」という一言を飲み込んだ顔だ。
うるせえ。こちとらこういうことを考えるのが商売なんだよ。
「さて、となると……鍵になるのは、デリク卿はあくまで『中立』で居続けられる位置をもって最上とした、ってところだな。
なんともはや、食えないオッサンだ。
実にたいした政治家だよ、デリク卿は」
ひとりごちる俺に、シーニーが軽蔑しきった視線を向けてきた。「勝手に真相に至るだけじゃなく、情報を共有してください」という顔。本当にコイツの表情は読みやすい。
仕方ないので、俺は自分の推測を口にする。
「繰り返しになるが、アルフレッド体制を仕組んだデリク卿にとって、『中立の立場こそが最良の立場』だってところがキーポイントだ。
つまり彼は現状、脳筋殿下を支持することもできれば、脳筋殿下を帝位の簒奪者だと批判する立場にも立てる。彼の政治力があれば『帝位を巡るゴタゴタは帝室内部の問題であって、臣下が見解を口にすべきことではない』とでも言い放って第三勢力を形成することだって可能だろう。
逆に言えば、彼の計画は『自分はどういう立場にでもなれる』ことを大前提にしていると考えるべきだ」
喋りながら、自分の考えをまとめなおす。
どこかに見落としはないか。先入観に支配されてはいないか。意図的に無視している事実はないか。
「その上で、彼がゴールとして見据えているのは、帝国における権勢の拡大なんかじゃあない。
そこがゴールなら、最悪の場合は反逆罪に問われるリスクを犯してまでクーデターを扇動する意味がない。それにそこまでのリスクを負いながら、脳筋殿下の『公然たる保護者』として押し出していかないのも不自然だ。
彼は帝国の大貴族だ。つまり彼の目的は、あくまで『デリク家の繁栄と存続』にある」
そこまで言ったところで、シーニーがすっと手を挙げた。何が言いたいのか、手に取るようにわかる。俺は薄く笑って、彼女の無言の疑義に回答する。
「もちろん、大貴族の当主なら家の存続を至上命題とすると断言はできない。シャレット家のクソッタレは、その例外の典型だった。
だがデリク卿からはああいう不健全さは感じられない。
デリク卿は脳筋殿下と同じで、健全な精力があり余ってる系の人間だよ。女を抱くにしても、いつか本妻にバレることを夢想しながら埃っぽい四畳半で汗まみれになって愛人とセックスするタイプじゃあない。最高のドレスを着た最高の愛人を連れて、最高のレストランで食事してから、最高のホテルで夜を明かすタイプだ」
実際のところ、デリク卿が「誠実なれど色を好むこと甚だしい」という噂は、彼と竹簡聖書のビジネスを進めている頃から耳にはしていた。
俺自身、彼は破滅願望を弄んで楽しむタイプの人間ではないと断言できる――デリク卿がいわゆるバリバリのパリピだってのは、年季の入ったオタクである俺にしてみれば、会った瞬間に直感的に思い知らされたことだ。
「そんな絢爛豪華な自信家が、左手でこっそりと帝国の威信に泥をひっかけながら、右手では帝国の威信のために遠征軍を指揮している。
つまり彼はデリク家を存続させるために、帝国における実績を高めることだけじゃなく、帝国から距離を取ることも選択肢として視野に入れている。
それは教会に対しても同じことだ。ライザンドラをぶっ殺して教会に恩を売ることもできるし、ライザンドラを庇護して教会のインテリどもの支持を集めることもできる。教会だって一枚岩じゃあないからな。
だがそれらすべてを選択肢として考える一方で、デリク卿は明らかに、帝国からも教会からも距離を取る方向性を特に模索している。その証拠は、そんな選択肢が見えていること、それそのものだ――デリク卿が帝国と教会の行く末を案じる謹厳実直な武人にして神の戦士だったら、『うまく距離を取る』なんて選択肢が出てくるはずがない。
そう考えれば、彼の究極の狙いはいたってシンプルだってことも見えてくる。つまり彼は、実質的なデリク帝国を作ろうとしてるってわけだ。サンサへの遠征は、その布石だ」
俺の推理を黙って聞いていたシーニーが、そこでまた手を挙げかけて――そして、その手を膝に降ろした。
「――ナオキ司令。もし私が正義の軍人であったなら、いま自分の目の前にいる薄汚いクソ野郎を万難を排してこの場で殺していたと思います。
それで、我ら翠爪団へのご命令は、いかに?」
俺は最大級の褒め言葉を軽く受け流しつつ、シーニーに命令を発した。
「奴らの時計を進める。
厚顔無恥なパリピ野郎に、世の中はお前らだけが仕切ってるわけじゃあないことを、思い知らせてやろうじゃないか」




