アルール歴2189年 5月7日(+88日)
――ハーマン司祭の場合――
慌ただしい毎日が慌ただしく過ぎていき、気がつくと4月が終わっていた。「歳をとるごとに月日の過ぎるのは早くなっていく」とは先達から散々聞いていた言葉だが、この年令でそれを感じるとは実に複雑な気分だ。いや、つまりは僕もそれほど若くないということなのだろうけど。
やれやれ。僕はあくまで学究の徒として生きて死ぬ予定だったのに、どこで何を間違ったらこうなるのか。
以前は「サンサに来ても多少は自分の時間は作れるだろうから、スキを見て研究を」なんてことを考えていたけれど、まったくもって甘い見通しだった。はるばる帝都から持ち込んだ研究用の資料は、荷解きが終わった状態のままずっと放置されている。
まったく――僕はいったい、何をしているのだろう。
とはいえ、今の僕には自分の研究以上に大切なことがある。ダーヴの街の市民の信仰の元締めを務めるのは僕だし、サンサ教区全体に対しても一定の責任がある。
そりゃもちろん僕としては読みたい本もあれば書きたい文書もある。でもそんなことより、「こんなにもたくさんの罪を重ねてきた自分は天国に行けるのだろうか」と怯える、死の床についた若き娼婦と対話するほうが、僕にとってはずっと大事だ。そこを見失ったら、研究もクソもあったもんじゃあない。
だから教会付きの下男が息せき切って「ハーマン司祭様、今すぐ教会にお戻りください」と飛び込んできたときも、それがただの帝都からの来客でしかないとわかった段階で、待たせておくことにした。
うっかりと下男がその来客の名前――デリク卿――まで漏らしたものだから、狭い部屋に詰めかけた人々の顔には露骨に動揺が走ったけれど、僕は慌てず騒がず、もちろん一切の手を抜くことなく、今朝がた亡くなられた老婦人の魂が天国に受け入れられるよう、祈りを捧げ続けた。
その後もちょっとした説法をして(「神の前において、あらゆる人は平等である」ことは強調しておかねばならない場面だろう)、遺憾ながら自分の昼食は諦めながら小走りで教会に戻ると、教会の応接室では下男の言葉通りにデリク卿が待っていた。
立ち上がったデリク卿に対し僕は礼を失しない程度に頭を下げ――神の家の中においては特に、人に上下などない――遅参した理由を述べた。
「お待たせしました、デリク卿。
今朝早くに亡くなられたレオノルさんの葬儀があり、ご挨拶に戻るのが遅れました」
興味深いことに、デリク卿は「おお」と呟くと、小さく祈りを捧げた。
「亡くなられたレオノル殿の魂に平穏があらんことを。
その様子では、ハーマン司祭殿は葬儀の場から直接ここへ?」
ふむ。噂には聞いていたが、デリク卿からは大貴族にありがちな特権意識がほとんど感じられない。無論、身についた威厳的なものはひしひしと感じるが、それもけして無意味に威圧的というわけではない。
「はい。はるばる帝都からデリク卿その人がいらっしゃったとなれば、急ぐには十分な理由と言えましょう。
ともあれ、お座りください。重要なお話があってこの辺境までわざわざいらっしゃったのでしょう? まずは要件を片付けてしまいましょう」
デリク卿は軽く苦笑すると、椅子に腰掛けた。我ながら性急な話の進め方だなと思わなくもないが、ボニサグス派としてはこれが普通だ。礼節や儀礼に価値がないとは思わないが、TPOを考えれば、それらを前に押し出す状況ではない。
「重要な話、か。無論、その通りだ。私は帝都のお偉方から、この地に対して伝えるべきメッセージを大量に拝領している。それこそやんごとなき御方からも、な。
だがそれを全部伝えていたら、司祭殿が昼食を食べるタイミングを完全に奪ってしまう。それゆえ、最も重要な点のみをお伝えしたいと思う」
ほほう。これもまた噂に聞く通り、実に明敏な人だ。こちらが儀礼を排したことに対し、彼もまた儀礼を排して対応する。「自分はそちらの流儀にあわせるだけの余裕がある」という態度を示すとともに、「そちらの流儀をリスペクトする」という姿勢にも受け取れる。
――などと僕が考えていると、デリク卿はとんでもないことを言い出した。いや、一応は予想の範囲内ではあるのだが、実際に言われてみると、これはなかなか衝撃的だ。
「私はいまサンサ教区で起こっていること――より限定的に言えばニリアン領における異変について、具体的かつ断固とした対応をするようにと、コンラドゥス4世陛下およびテオドヌス8世猊下から命じられている。
そして私は本件の解決に限り、帝国と教会の全権を委任された代表者として、この地に来た。
無論、私が帝都に戻って皇帝陛下と教皇猊下に報告をした後、帝国および教会から改めて異なる判断が下される可能性はある。
だがそれまでの間、私の判断が帝国の判断であり、私の指導が教会の指導だ」
実に凄まじい話だ。「本件の解決に限り」という但し書きこそあれ、デリク卿は聖俗双方の最高権力を集約した力を持つ、というのだから。
これは明らかな異常事態(聖俗が合一するなど、帝国と教会の根底原理に反する)ではあるが、神代まで遡ればまったくなかったことではない。それに現実的な話をするならば、サンサ教区における判断を迅速に行うためには、これくらいの特例は必要になるだろう。
「とはいえ、私は聖職者ではない。
神の信徒であるという自負はあるし、聖書だってそれなりにはそらんじているが、その解釈であるとか、あるいは教会法上の問題ということになると、ただの素人に過ぎない。
正直な話をすれば、私としては教会側が判断の責任を私に押し付けようとするところまでは、断りたかった」
おおっと、これは実に赤裸々トークだ。
だがこれで一気に状況は理解できた。つまり「今のところまだものすごいことにはなっていないが、一歩間違えるとスピリドの反乱どころではなくなるかもしれない」サンサ教区の現状に対し、帝国と教会が下す判断の全責任をデリク卿におっかぶせる――それが中央の思惑というわけだ。
それだけではない。たとえデリク卿がこの地における問題を綺麗に解決したとしても、教理の素人であるデリク卿は、教会関係の何かしらにおいて絶対にミスを犯す。それを針小棒大に騒ぎ立てることで、教会は(あるいは帝国も)「デリク卿の判断に問題あり」として彼がサンサで成した手柄を全部チャラにできる。彼がこの地でしくじったなら、話はもっと簡単だ。
あまりの無責任さと陰湿さに、思わず僕はデリク卿の言葉を遮ってしまう。
「ちょっと待ってください。いくらなんでも、この条件は卑劣だ。非人道的ですらある。
ここまで人の道に反したオファーを、なぜデリク卿は受けられたのですか?
いかに勅令と言えども、さすがにこれは修正を求めることくらいは許されたのでは?」
デリク卿は露骨に苦笑いすると、軽く首を横に振った。
「理由は、いろいろだ。司祭殿もご存知かと思うが、とかく浮世はままならんのでな。
ともあれそんな状況だから、私としてはせめて教理や教会法のエキスパートを顧問としてつけてくれるように主張した。自画自賛するわけではないが、極めて妥当な主張であると思う」
まったくだ。でもそれは、あまり上手くいかなかっただろう。
教会としてはデリク卿がなんらかミスしてくれることを期待しているわけで、ここにおいて教会から顧問を出すということは、「デリク卿のミスを見逃した罪を問う」ことが確定している、犠牲の羊を選ぶということに等しい。
ああ……なるほど。と、いうことは、つまり。
僕はやや呆れながら、デリク卿に尋ねる。
「状況は理解しました。
ということは僕が本件における、デリク卿の顧問というわけですね?」
僕の推測は正しかったようで、デリク卿は懐から豪奢な封書を取り出して、僕に手渡した。
「話には聞いていたが、司祭殿は実に頭が切れるな。
司祭殿の推測通り、本時刻をもって司祭殿は私の特別顧問として配属される。
司祭殿の上からは、司祭殿はサンサ教区における筆頭司祭、あるいはダーヴの街における司祭としての職務より、特別顧問としての職務を優先して遂行する立場に置かれる、と聞いている。
念のため、その書類を確認してほしい。しかるに私の理解が間違っていないようなら、司祭殿は急ぎ、この街の司祭代理を選んでもらえまいか」
僕は受け取った封書を開封し、ざっくりと目を通した。
内容は実に簡潔で、デリク卿の理解には一分のスキもない。
「特別顧問の任、謹んでお受けします。代理の司祭の件につきましては、こちらで進めておきます。
ですが――まあその、今後それなりのお付き合いになると思いますので前もって申し上げますが、僕の助言や輔弼はデリク卿の立場を悪くしても、良くはしませんよ?」
あまりにも自明な指摘だが、この手のことは最初に宣言しておくのがフェアというものだろう。
「これはあくまで想像ですのでご返事は不要ですが、デリク卿は帝国と教会の上層部から、ライザンドラ司祭を殺すように求められておられますよね? 異端者認定でも重犯罪人認定でも、理由なんて何でもいいから、彼女を殺せと。
けれど現状、僕が彼女を異端と認めることは、まずあり得ません。
そもそも僕には異端認定資格なんてないですし、たとえ僕が急に1級審問官の地位を与えられたとしても、現状の彼女には異端を示す要素は何もないとしか言えません。もしここまでの間にその兆候があったなら、いまこの場で『ライザンドラ司祭には異端の疑いがある』と言ってますしね。
つまり僕はデリク卿にとって、あまり望ましいパートナーではありません。ただそれでも、必要と判断した助言はさせて頂きます。結果として不快な情報をお伝えすることにはなると思いますが、僕としても帝都に戻ったデリク卿が異端の罪に問われるようなリスクは、なるべく避けられるようにしたいと思いますので」
僕の長口上を聞いたデリク卿は、少し感心したように頷いた。
「ふむ。司祭殿は、実に親切なのだな。
別段、帝都に戻った私が異端者扱いされるようなことをしでかすことを避け得たとしても、司祭殿にとってみればメリットにはなるまい?」
いやいや、さすがにそれは穿ち過ぎでしょう、デリク卿。
僕は苦笑いしながら、首を横に振る。
「それは2つの点において大問題です。
1つ。目の前で異端の行いに手を染めんとする者を見過ごすなど、司祭として絶対にあってはならぬことです。
1つ。もしデリク卿が異端の罪に問われるようなことをこのサンサ教区で成したならば、それによって苦しむのは僕の教区の信徒たちです。僕には彼らの信仰を守る義務があります」
僕の言葉を聞いたデリク卿は、ほんのわずか驚いたような表情を浮かべたあと、表情を引き締めると、その尊い頭を机にすりつけんばかりに下げた。
「大変に失礼なことを申し上げた。非礼のほど、深く謝罪する。
司祭殿の言葉、心が洗われる思いがする。確かに、我々が真に考えねばならないのは、本件を通じてこの教区の人々に不幸をもたらさぬことだ。
我々こそが民草に幸福をもたらすのだと言ってのけるほど傲慢ではないが、我々には彼らが必要以上に不幸になるような事態から守る義務がある」
――ふむ。今の言葉を鵜呑みにはできない(なにせ彼は毒蛇の巣とも言うべき帝都の貴族社会において、七名家の当主として辣腕を振るう男なのだ)が、それでもこの言葉はそれなりに彼の本音に近いと考えていいだろう。僕だってそれが分かるくらいには、たくさんの人の話を、大量に聞いてきた。
そんなことを考えていると、デリク卿はすっと頭を上げた。
そして僕の目を真っ直ぐに見つめながら、この問題の核心に踏み込んできた。
「特別顧問に腹蔵なく状況を話すならば、私は皇帝陛下からも教皇猊下からも、ライザンドラ司祭を大異端として殺害し、ニリアン領を異端者の巣窟として浄化することを命令されている。
そしてもしこの見解に反対を唱えるものがあれば、その者も殺せと厳命されている。
その上で、改めて特別顧問に聞きたい。
ライザンドラ司祭は、異端であるか?
またニリアン領の領民は、異端に汚染されているか?」
僕はデリク卿の強い視線を真っ向から受け止めながら、迷いなく答える。
「いま僕が知る限りの情報に基づけば、ライザンドラ司祭に異端の疑いはなく、ニリアン領においては正常な信仰が守られています」
僕の答えを聞いたデリク卿は、そのまましばらく僕の目をじっと睨みつけた。それからふと天を仰ぐと、大いに破顔する。
「なるほど。噂には聞いていたが、司祭殿は実に……実に、頑固だ。
それほどまでに頑固では、さぞこの浮世は生きにくかろう」
デリク卿の感想を聞いて、思わず僕は笑ってしまう。
これはまさに処刑宣言とも言える言葉ではあるが、この言葉で人生が閉じられるのであれば、僕としては本望だ。
でもデリク卿が続けて言った言葉は、まるで想像とは違っていた。
「どうやら私はこの辺境において、得難き戦友を得たようだな。
この戦いは長く、また困難なものとなるだろう。今後とも、特別顧問の叡智に期待する。
だがまずは、ライザンドラ司祭と正式に面会する手はずを進めてはもらえまいか?
ああ、もちろん昼食を済ませたあとで着手してもらって結構だ」




