アルール歴2189年 2月8日(+67日)
――デリク卿の場合――
その女性が応接室に入ってきたとき、窓の外では小雪がチラついていた。どっさりと積もるような降り方ではないが、もうすぐ日が沈もうとするこの時間に、この寒さは、なかなかに骨身に沁みる。
「ようこそ、フランスキ夫人。
それともエレオノーラと呼んだほうが?」
シンプルな黒いドレスを身にまとったその女性は、長くジャービトン派の資料室長を務めてきたフランスキ司祭の若き妻、エレオノーラ・フランスキだ。若い頃の彼女はその美貌のみならず詩作の才でも知られており、少なからぬ数の名高い貴族たちとの間で浮名を流した――その中には私も含まれている。
もっともエレオノーラはやがてフランスキ司祭の愛人として腰をおちつけ(かの老人がどうやって彼女の心を射止めたのかは永遠の謎とされている)、6年ちょっと前には正式に結婚してフランスキ夫人となった。
「エレオノーラで結構です、デリク卿。
本日は貴重なお時間を頂きましたこと、まことにありがとうございます」
彼女は歌うように謝辞を述べると、優雅に一礼した。そろそろ30代もなかばに差し掛かろうとしている彼女だが、その色気には磨きがかかっているようだ。
「貴女の頼みとあれば、できるかぎりの努力をさせてもらうさ。
それに君もご存知かとは思うが、最近の私は――暇なのでね」
自嘲気味の言葉を口にした私に、エレオノーラは少し眉をひそめた。
「そのようなことを仰られるべきではありませんよ、デリク卿。
卿に真面目な陳情をしようと訪れた方であれば、なんと返事したものか、冷や汗をかくことになりますよ?
私相手であれば多少は構いませんが、私としても多少の範囲でお願い致したいところです」
いやはや、相変わらずズケズケとものを言う女性だ。
だが私はそんな彼女のことが嫌いではないし、そもそもかつて彼女に惹かれたのも、そんな物怖じしない態度を気に入ったという部分がある。
「なるほど、では君には多少は言わせてもらうとしよう。
私はこの平穏な時間を楽しんでいるし、武の名門たるデリク家の当主が暇なのは帝国にとって望ましいことでもあろう。ゆえに私としては、このまま静かに世の平穏が保たれ続けることを、心から願っている。
それで、君のご用向は何かね、エレオノーラ?」
スピリドの反乱を鎮圧してからも帝国のあちこちで小規模な反乱や暴動は継続的に起こっているが、私は帝国の政治にあまり深入りしないようにしている。理由の半分は先方が私を遠ざけたがっているからで、残りの半分は私が帝国の前途を危ぶんでいるからだ。
はっきり言って、帝国はもはや現状を維持できない。
帝国の歴史をひもとけば、帝国は今のように巨大な統一国家として世界に君臨している時代もあれば、ほぼほぼ地方のいち都市国家というべき規模にまで縮小したこともある。後者の時代においては帝国とはまさに名ばかりの存在であり、統治実態と言うよりは統治のための概念に近かった――300近い都市国家の連合体を、「アルール帝国」と呼んでいただけの時代もあったのだ。
これ自体は、さしたる問題ではない。どのような形であろうがアルール帝国は2千年を越えて維持されてきた。それで十分だ。
むしろこれは、逆に言えば帝国は今のような形でなくても構わないということでもある。現状の帝国は皇帝を頂点とした統一国家だが、別段もっと小さな国家になっても問題ないはずなのだ。
そしていま、帝国がその巨大さを完全に持て余している現状にあって、「今の帝国」を「帝国のあるべき姿」として守ることに、私はあまり意義を感じない。むしろこれ以上、国家としての体力を失う前に、より小回りの効く形に自ら変化してしまったほうが良いとすら感じている。
この変化には大量の出血を伴うのは疑いないが、今のまま惰性で帝国が四分五裂していくよりは、計画的に「小さな帝国」への脱皮を果たしたほうがトータルでの死者の数は少なくなるだろう。
もっとも、かつてのような「小さな帝国」を再編成するとして、その動乱のなかでアルール帝国が完全に消え去ってしまう可能性もあるだろうにと言われれば、「わりと良い確率で消え失せるだろうな」としか言えないのだが。
そんな行き場のない思いを内心で転がしている私に向かって、エレオノーラは滔々と要請を口にした。
「サンサ問題――いえ、非公式ながらもより正確に状況を捉えている言葉を使えばライザンドラ問題について、コンラドゥス4世陛下は内密に、デリク卿の出動を求めておられます。
どうか帝国のため、皇帝陛下の悩みをご解決頂けませんでしょうか?」
どうせそういうことだろうとは思っていた。
私に対する皇帝からの密使として、確かにエレオノーラは適役だからだ。
だがいきなり真正面から返事をするのも癪なので、まずは軽い皮肉を返すことにする。
「……君が皇帝陛下からの密使を務めるとはね。
帝国もいよいよ人材が払底してきたということかな、フランスキ夫人?」
エレオノーラの夫であるフランスキ司祭は、およそ1年前に起きたアルフレッド副皇太子暗殺未遂事件において著しく悪化した教会と帝室の関係を修復したことで知られる。
ボニサグス派の若き司祭がアルフレッド殿下の一行を暗殺しようとしたこの事件は帝都を震撼させ、帝室と教会は互いに互いを非難するに至った。
というのもアルフレッド殿下は「学問こそが帝都市民を惰弱にしている」という持論を展開する人物であり、〈ボニサグスの図書館〉の再建を帝国は援助すべきではないとも主張していたからだ(ちなみに現在の帝都において、アルフレッド殿下のような意見はけして少数派ではない)。
アルフレッド殿下がそういったいささか過激な意見を主張するだけであれば、そこまで話はこじれなかっただろう。
けれどある日の夕暮れ、酒をたんまり飲んだ殿下ご一行は、〈ボニサグスの図書館〉再建に向けた募金活動をしていたボニサグス派の僧侶たちに暴行を加え、あろうことか彼らが掲げていた聖ユーリーンの遺物――彼女が窓外に投擲したことでバラバラになって燃え尽きた〈ヘンルーインにおける奇病とその伝播〉原本のうち、奇跡的に生き延びた一葉――を燃やしてしまった。殿下らいわく「己が奉じる宝物すら己の手で守れぬ軟弱者が、夢や理想を語るな」ということらしい。
当然ながら(そして幸いにして)、殿下が燃やした一葉はレプリカであり、聖ユーリーンの遺物が焼失するという悲劇は回避された。またこの一件に対し教会は帝室に厳重な抗議を行い、帝室は非公式ながらも教会に謝罪した。この話はこれで、ケリがついたはずだった。
けれど募金活動に従事していた若きボニサグスの司祭にとって「非公式な謝罪」はあまりにも不十分であり、またアルフレッド殿下は彼にとって命を賭して廃すべき人物となって――あとは起こるべきことが起こった。
若き司祭は暗殺を試みると同時に死に、教会も彼の愚行を罰したが、それでも教会は(帝室の要望を無視して)かの司祭を司祭として葬った。アルフレッド殿下は自分を殺そうとした(そして殿下のご友人を巻き添えで殺した)人物が「適切に罰せられなかった」ことに怒り狂い、帝室と教会は徐々に「メンツにかけて引き下がれない」状況へと落ち込んでいった。
ここにおいてフランスキ司祭とエレオノーラは、それぞれ教会と貴族社会の双方に対して根気よく対話のチャンネルを作り続け、彼らの尽力によって辛うじて和解は成った。
教会は「交渉の余地なし、破門されたくなければ帝室が頭を下げに来い」というところまで態度を硬化させていただけに、ジャービトン派の閑職を誠実に勤め上げていた(つまり教会政治から見れば脇役中の脇役である)フランスキ司祭が個人的に開いた交渉の窓は、渡りに船だったとも聞く。
帝室もまた教会に対しては「世俗法に照らして疑う余地なき大罪人を擁護するのであれば、今の教会は帝国の治安を乱す存在と判断するほかない」とまで表明しており、ここでもまたエレオノーラという「人脈はあるが格式は持たない人物」によるとりなしは、都合が良かった。
かくして、このままでは「副皇太子を教会が破門し、帝室が教会に対して裁判権を行使する」という歴史的椿事に発展しかねなかった危機的状況を脱した帝国と教会だったが、老境にあったフランスキ司祭にとって、この大仕事は心身ともに、あまりにも負担が大きなものだった。
帝室と教会の和解が成った2週間後、フランスキ司祭は朝食の席で倒れ、エレオノーラの手の中で天に召された。
それからというもの喪に服したエレオノーラは黒いドレスしか着ようとせず、社交界とも完全に一線を引いてしまった。〈副皇太子危機〉において大きな役割を果たした彼女を利用したり頼ったりしようとする者は多く、そのあまりの煩わしさ(と危険)を嫌った彼女は、すべてから身を引いたのだ。
そのエレオノーラが、皇帝陛下の密使として、デリク家を訪れる。
帝室は〈ライザンドラ問題〉を、よほど深刻に捉えているということだろう。
私の皮肉を聞いたエレオノーラは、ほのかに笑みを浮かべた。
「教会も酷いものよ。
真面目で誠実なだけが取り柄だったあの人が動き出すまで、誰もが『副皇太子は破門されるに値する』というばかり。
でも私だって、人のことは悪く言えない。
唯一のお友達と言ってもよかった審問会派の老マルタが亡くなられてから、あの人はすっかり元気をなくしてた。だから殿下の件であの人が『マルタが生きていたら、アルフレッド殿下に必要なのは父親のゲンコツであって、破門ではないと断言するだろう』と言い出したのを、私は止められなかった。
あの人の最後の言葉は、『すまん』だった。あの人、あんな大仕事をすれば、自分の身体がもたないことを知ってたんだと思う。そんなこと、私だってわかってたはずなのに」
その内容に反し、エレオノーラの声はどこまでも落ち着いていた。
きっと彼女は、これを何百回、何千回と思ってきたのだろう。
愛する夫が、柄にもなく決死の覚悟を固めたとき、「柄にもない」と言って止めていれば――そんな後悔に苛まれるがままに枕に頭をうずめる夜を、幾夜も幾夜も越えてきたのだろう。
「そこまでにしておけ、エレオノーラ。君に自嘲は似合わない。
それに、君になんと返事したものか、冷や汗をかいてしまう」
いささか不格好な仕返しに、エレオノーラがくすりと笑う。
「じゃあ、この程度にしておきましょう。
――では、デリク卿のご返答はいかがでしょうか?」
真面目な表情を作り直したエレオノーラに向かって、私は即座に言葉が返せない。
帝国が(そしておそらく教会も)〈ライザンドラ問題〉の解決にあたり私を名指しで指名してきたのは、わからなくもない。スピリドの反乱の序盤における華々しい浪費を思えば、最初から私に全権を委ねてしまえという判断は、なかなかに正しいとすら言える。
だが私の本音を言えば、「ふざけるな」の一言に尽きる。
スピリドの反乱を鎮圧した私を「用は済んだ」とばかりに遠ざけておきながら、また辺境でいかがわしい動きが始まったら猟犬を小屋から引きずりだすかのごとく呼びつける。いかに皇帝陛下の勅令とはいえ、「密命である限りは『聞かなかったことにする』と伝えてくれ」と言いたくもなる。
とはいえ、今回の件はデリク家にとってもいろいろと面倒なことになり得るというのもまた、事実だ。
なにせニリアン領はいまやデリク家の親戚が支配しているわけだし、私自身、先代とは竹簡聖書の件で取引がある。〈ライザンドラ問題〉の中心がニリアン領である以上、皇帝陛下の勅令が下ったのを口実に、私自身が処理してしまったほうが何かと無難なのは間違いない。
……が、それと同じくらい、〈ライザンドラ問題〉を奇貨として「デリク家の責任」を問われる立場にわざと立ち、これをもって帝都から公式にデリク家が撤退する口実にするのも悪くない。今の帝国にいつまでもしがみついているのは、明らかに下策なのだから。
さて――どうしたものか。
何を悩んでいるかをエレオノーラに悟られぬよう、わざと表情を険しくして考え込む私に向かって、エレオノーラはまたしてもズケズケと踏み込んできた。
「私が貴方の立場なら、密使に向かって『馬鹿めと言ってやれ』とでも言い放つと思う。それで罰せられて帝都から追われるなら万々歳――でしょう?
私だって、もうこんな街は懲り懲り。帝国も教会も、私に愛の穏やかさを教えてくれた人を奪った、憎き敵でしかない。適当な口実が作れるチャンスがあるなら、それに乗らない理由がない」
ほぼほぼ内心を読み切られた私は、思わず憮然とした顔になってしまう。
エレオノーラは――昔はそんな私を「大貴族様なのにすぐに顔に出す」といって笑ったものだが――どこまでも真剣な表情のまま、言葉を続けた。
「でも私は、あなたにこの密命を受けてほしい。
だってライザンドラさんは、私の夫にとってただ一人の友人だった老マルタの、最後のお弟子さんだから。
彼女が何を考えているにしても、あるいは彼女にどんな裁きが下るにしても、私はその結末に納得したい。
だから私は、あなたにその結末を、選んでほしい。
今の帝都でそれを任せられる相手は、あなたしかいない」
なるほど。
思わず私は、大きく頷いていた。
そんな私の顔を見て、エレオノーラは改めて小さく笑う。「またすぐ顔に出す」と言わんばかりに。
ええい、小癪な。では少し、反撃させてもらおう。
「いやはや、帝国も本当に人材が払底したと見える。
ほんの15年前には花から花へと華麗に飛び回り、誰にも言質を与えなかった美しき蝶が、ここにきて、しなびた男に『あなたしかいない』と言い放つとは。
だが、いいだろう。君と、君のご主人の願いだと言うのであれば、微力を尽くさせてもらうとしよう。皇帝陛下や教皇猊下のために働くよりは、ずいぶんとやりがいもあるしな」
政敵に聞かれたら一発アウトな私の言葉を聞いたエレオノーラは、大輪の花が開くかのように鮮やかに微笑んだ。
私はそんな彼女に、右手を差し出す。
「さて、そろそろ日も暮れる。君がよければ、食事でも如何かな?
昔と違って、私はデリク家の当主だ。
家名を出せば、たいていのレストランは喜んで我々を迎え入れてくれる」
彼女は私の手を取り、私達は二人並んで応接室を出た。




