アルール歴2188年 10月22日(+5秒)
――ライザンドラの場合――
「実際、先代ニリアン卿は、それほど有能な人物でもありませんでした。これもまた、ホフマン司祭がご指摘のとおりです。
ナオキ商会がこの村を訪れるまで、冬が来るたびにたくさんの幼子と老人が死んでいきました。ときには飢えに苦しむことすらあったと聞いています。
領民を飢えさせるのは、世俗の支配者として下の下と言うほかありません」
私の言葉に、聴衆はやや眉を顰めた。当然だろう。
先代のニリアン卿は、領民の信望も篤い人物だった。そして領民たちにしても、このニリアン領が過酷極まる土地であることは「誰よりも自分たちがよく知っている」という気概がある。
サンサ教区の人々にとって、「雪が降ったら生き死には運任せ」というのは常識だ。そして、これを受け入れられないひ弱な帝国野郎は、サンサの地では生きていけない――この思いは、彼らの誇りの一部となっている。
それだけに「先代ニリアン卿が無能だったから、冬を越せない領民が出たのだ」という私の言い分は、彼らの誇りをかなり深々と傷つける言葉となり得る。
「武人としての能力にも疑問が残ります。
先代ニリアン卿はナオキの監禁を指揮する立場にありましたが、ナオキは護衛のザリナらの手によって、監禁場所から連れ去られています。これは、言い訳のしようもないほどの、大失態です。
もとよりナオキの監禁と監視を行うと宣言したのは、先代ニリアン卿です。審問会派に任せておけばよいものを、自分が指揮を取ると言い張った挙句、結局はナオキの逃亡を許すという最悪の結果に終わってしまった。
起きたことを確かめていけば、先代ニリアン卿は武人としてもあまり大した人物ではなかった、と言う他ありません」
さらなる侮辱の言葉に、聴衆は明らかにざわつき始めた。
彼らの内側に盛り上がろうとしているうねりを感じた私は、その炎を掻き立てるべく、慎重に言葉を選ぶ。
「おや、何かおかしなことを言ったでしょうか?
先代ニリアン卿は皆さんを手駒として使ってきた犯罪者であり、皆さんの魂を汚した人物であり、皆さんの苦しい生活は彼が無能だったからだ。皆さんはこの事実について、心底納得されているはずでは?
いいですか、もう一度――いえ、何度でも繰り返しましょう。
先代ニリアン卿は、罪を犯しました。それだけでなく、領主として無能であり、武人としても疑問が残ります。
皆さんはそれを、よくよく理解されているはずではありませんか?」
聴衆は一気に押し黙った。けれど、萎縮はしていない。
誇りを深々と傷つけられた挙句、「お前たちは自分で自分たちの誇りを傷つけたのではないか」という糾弾を受けた彼らは、内心に渦巻く怒りの持って行き場に困っているから黙ったのであって、説得も論破もされてはいない。
「どうやら、みなさんが先代ニリアン卿に対して抱いている幻想を、ちゃんと壊しておかねばならないようですね。
先代ニリアン卿は、よく言えばロマンチスト、悪く言えばまったくの偽善者でもありました。
イーヴァリ、ヘルカ、ヤーナ、セルナス、コスティ、オラヴィ、リーナ、サムエル、リューディア、サイニ、ヴィヒトリ、ヴィエナ――これは何だと思いますか?
この12人の名前はすべて、死者の名です。
先代ニリアン卿が若かりし頃、彼なりの改革を試み、そして無残な失敗をしました。改革が失敗した年の冬を、その年に生まれた赤子たちは誰一人として越えられませんでした。彼はそうやって死んだ子供の名を、執務室の壁に刻んだのです。嘘だと思うならば、あとで執務室を見に行けばいいでしょう。
いやはや、ひどく無責任で、自分勝手で、偽善の極みのような行いです。結局、彼は『俺は自分の失敗を忘れない人間だ』というところに逃げ込み、そこから出てきませんでした。つまり、皆さんが日々苦しい生活に耐えているのを見ながら、何もしないことに決めたのです。
彼が為し得たのは、せいぜい、サンサ山中の野盗の密輸を手伝い、その上前をはねることで、領地経営の足しにした程度のことでした」
私の言葉は、聴衆たちの間に強い衝撃をもたらした。
「先代は、自分たちの痛みを、こんなにも深く背負ってくれていた」という驚きと感動が、聴衆の感情を強く揺さぶる。そして同時に「そんな素晴らしい先代が犯罪者であることを受け入れることで、今の安楽な生活を手に入れた自分たち」への恥ずかしさを、彼らは意識せざるを得ない。
でも、聴衆が気持ちを整理できないうちに、私は素早く話題を変える。
彼らには、まだまだ混乱していてもらわねばならない。
「そうそう、実のところユーリーン司祭も、浮世離れした方でした。
帝都に戻ったユーリーン司祭は、大きな図書館に勤めることになりました。
でもそこに司祭の命を狙う異端教団が押しかけ、図書館に火をつけました。
ユーリーン司祭は本を救うために炎の中に飛び込み、結果として32冊の本を救って、亡くなられました。
これだけ聞けば、素晴らしい話に聞こえるかもしれません」
心のなかでユーリーン司祭に少しだけ詫びを入れつつ、私は聖ユーリーンに対する批判を口にする。
「でも、本当に?
ユーリーン司祭はこの地に戻ってくることを夢見ている、と何度か語ってくれました。でも窮地に追い詰められた彼女は、自分が生き残る可能性を少しでも増やすのではなく――何が何でも生き延びて、皆さんの元に戻ることを目指すのではなく――眼の前で燃えていく本を救うことにしたのです。それも、己の命と引き換えに。
結果、彼女が救えたのは、たった32冊でした。
なるほど、あのユーリーン司祭にとってみれば、32冊は十分な成果だったでしょう。でも皆さんにとって、どちらが大事ですか? ユーリーン司祭と32冊の本、どちらが大切かなど、聞くまでもないのでは?」
この問いかけには、聴衆の多くが同意を示した。ニリアン領の人々は、彼女のことを今も深く尊敬しているのだ。
本を守るために命を賭したというのは、実にユーリーン司祭らしいと思う。でも炎が渦巻く塔に突入する前に、この世には彼女の帰還を待つ人達がこんなにもいるということを思い出してほしかった――そんなことを、今更のように思う。
「けれどユーリーン司祭にとっては、そうではなかった。
ボニサグス派の司祭としては非の打ち所がない行いですが、皆さんの毎日を導くにあたって、本当に適格であったのか。
ユーリーン司祭の抱いていた、あまりにも浮世離れした価値判断基準は、サンサという土地で生きる皆さんにとってみれば、いささかズレていたのではないか。
なにより、ユーリーン司祭がもっと俗世に視線を向けられる人物であれば、先代ニリアン卿の悪事はもっと早く露見したのではないか」
村人にとって純粋な敬愛の対象であったユーリーン司祭を否定したことで、聴衆が私に向けてくる敵意は否応がなく高まった。「お前に何がわかる」と言わんばかりの強い視線を、ひしひしと感じる。
ある意味で疵のある先代のニリアン卿を否定しただけであれば、ここまで激しい敵意にはならなかった。だが、大きな感情の波によって平常心を失った彼らは、目の前に転がされた都合の良い義憤、誰からも批判され得ない怒りに、全速力で飛びつこうとしているのだ。
ならば、最後のひと押しをするとしよう。
私は演壇からさらに離れ、聴衆たちが並んで座るそのただなかへと足を踏み入れる。
「皆さんは、真実と向き合う必要があります。
先代ニリアン卿は新規事業に手を出して大失敗し、多くの領民を殺しました。
仕方なく彼はダーヴの街を統治していた、格下にあたるエルネスト男爵に頭を下げて借財したり、エイダ伯を訪れて借財したりと、頭を地べたに擦り付ける毎日を送ることになりました。エルネスト男爵の日記には、先代ニリアン卿が公衆の面前で土下座までしたので、やむなくカネを貸したという一節すらありましたよ?
借財の旅は、ときに長く続きました。ご年配の方でしたら、先代がほぼまる1年、領地を離れたことがあったのを覚えていらっしゃるかもしれません。あのとき先代は、帝都にまで足を運んだのです。そして審問会派の靴を舐めんばかりに日参して、わずかばかりの小銭を義援金として拾い集め、帰っていったそうです。これらは審問会派の記録に、しっかりと残っています。
挙句、それでも首が回らなくなると、サンサ山中の野盗と取り引きを始めました。まったく、負のスパイラルとはこのことです。
そこまでやって、相変わらず少なからぬ領民が冬を越せずに死んでいった。それが先代の統治における、真実でした」
先代のニリアン卿は、良くも悪くも帝国貴族だった。
だから領民の前では、自分がどんな仕事をしているかを、けして見せなかった。優雅に泳ぐ白鳥も、淀んだ水の下では両足を必死に動かしているもの――この古臭い貴族の誇りを、先代は呼吸をするような自然さで体現していた。
だから領民たちは今の今まで、あの誇り高き先代が、領民の生活を守るために己の名誉をすり潰すようにして金策に駆け回ってくれていたことを、知らなかった。
「間違った為政者は、間違った後継者を作ります。
先代の背中を見て育った現ニリアン卿であるレイナ嬢は、帝都で学問を修めましたが、同時に将来の婿候補を見繕うことにも余念がありませんでした。
彼女が女性として魅力的であるのは、言うまでもありません。そのことを、彼女は存分に駆使しました。そして見事に、大魚を釣り上げることに成功します――帝都の大貴族たるデリク卿の、次男坊です。
でもこれは致命的な失敗でした。デリク卿の元次男であるエミルは、皆さんも御存知の通り、ダーヴの街に流れてきて、そこで大異端ケイラスの直弟子となります。エミルはデリク家から勘当され、最後は異端者として討伐されました。
つまりレイナ嬢は、あわやこのニリアン領に異端者を招き入れるところだったのです」
レイナ嬢はただ帝都で遊んでいたのではなく(ニリアン領の人々にとって「勉強する」と「遊ぶ」の区別がつくとは考えにくい)、己の想いや尊厳を売り渡してでも、ニリアン領の将来のために尽くそうとしていた――これもまた、聴衆にとっては初耳のはずだ。
「賭けに負けたレイナ嬢は、デリク卿の温情で、9歳年下の婚約者をあてがわれました。後は皆さんがよく知る通りです。
レイナ嬢の婿君であるヘイズ殿はこの地に姿を見せることなく、今日も帝都で放蕩三昧と聞きます。新たにニリアン卿となったレイナ嬢もまた、ニリアン領が物笑いの種になることをしでかすばかり、というわけです。
こんな有様では、ニリアン領はお先真っ暗と言う他ないでしょう」
再びちらりとホフマン司祭を見る。彼は何かとても良くないことが起こりつつあることは理解しているようだが、彼にとっての最大の武器である理性がその理解を妨げているのだろう。彼は「理論上はあり得るが、まさかそんなことが起きるはずがない」というところで足踏みしている。
実に、残念なことだ。ホフマン司祭はおそらく、審問官として実戦の経験がない。
もしホフマン司祭の代わりにカナリス審問官がいたならば、彼は理屈がどうこう考えるよりも早く、私の頭蓋骨を叩き割らんとして戦鎚を片手に飛び出しているはずだ。私がやっているのは説法ではなく、扇動でしかないのだから。
とはいえ、これはどう考えても時間の問題だ。ホフマン司祭だって遠からず、実力行使に出るだろう。それより先に、事態を復旧不可能な方向に決壊させる必要がある。
「レイナ嬢の褒められぬ振る舞いが残した傷跡は、あまりにも深いと言えましょう。
本来は愛と縁によって結ばれるのが人であるというのに、彼女は打算と姦計をもってエミルと結ばれようとし、その試みは半ばまで成功しました。異端者エミルとの婚姻が成らなかったのは、慈悲深き神のご采配と言うほかありません。
ですが、レイナ嬢は再び誤る可能性を秘めている。それはおそらく、皆さんも薄々感じていらっしゃるのではありませんか?
なにせレイナ嬢は、先代ニリアン卿の孫娘です。先代の悪癖を、その血に受け継いでいないという保証はありません」
私は聴衆の間を歩きながら、暴言を吐き続ける。
さあ、そろそろ仕上げだ。
「皆さんのなかでもお年を召された方でしたら、先代の悪癖は記憶にあるのでは?
若かりし頃の先代は、皆さんのような純朴な平民に手をつけるという愚行をなしていました。
そう――たしかアイーシャさん、ですね」
背後で、誰かが椅子を鳴らして立ち上がる音が聞こえた。
私はそれに気づかないふりをして、なおも語り続ける。
「アイーシャさんは、若き先代のために、ハンカチに刺繍をしてあげていたようです。なんとも情けない話ですが、先代はそのハンカチを後生大事に保管していました。後に奥様を娶られたにも関わらず、です。
してみると、アイーシャさんがお手つきの最初ではなかったかもしれないし、最後でもなかったのかもしれません。アイーシャさんも、あんな男に騙されるとは、実に残念な話です。
そんな先代の血を引いたレイナ嬢が、色仕掛けでエミルを落としたというのは、世も末と――」
そこまで口にした瞬間、背中に鮮烈な痛みが走った。
打撃があることは予想はしていたものの、想像よりはるかに激しい痛みに、思わず膝をつきそうになる。
だがここで倒れてはならない。倒れれば、私は最悪この場で死ぬ。
苦痛で折れそうになる心を叱咤しながら、審問会派特別行動班と繰り返した訓練が体を導くがままに、最短の動きで背後を振り返る。
予想通り、そこには憤激に震える老人の姿があった。両手で杖を大上段に振り上げているのが、予想と唯一異なる部分だ……いや、この年齢の老人が素手で殴りかかってくると予想するほうが、ずっと浅はかだった。
声にならない怒りに突き動かされるがままに老人が振り下ろす杖の一撃を、右手で払う。直撃したら骨にヒビくらいは入っていたかもしれないと思うと、ヒヤリとする。帝都では特別行動班の面々と木刀で訓練を繰り返したものの、やはり実戦の恐怖は訓練とは別物だ。
と、頭はそんなことを考えながらも、体は勝手に動く。
床に叩きつけられた杖の先端付近を、力強く右足で踏みつける。梃子の原理から言えば私のほうがずっと不利な動きだが、「上から下に振り下ろす」力が乗っていることもあって、わりと簡単に武器を封じ得る。
杖を取り落とした老人は、怒りに突き動かされるがままに、私に掴みかかろうとする。けれどさすがに周囲の人々がこれはマズいと思ったのか、老人は背後から羽交い締めにされた。若者たちの力にかなうはずもなく、老人は荒い息をつきながら私を睨みつける。
その目を見ながら、私は老人に告げた。
「ヨーナスさん、お久しぶりです。お元気そうでなによりです。
先代のニリアン卿に一度は結婚まで提案されたアイーシャさんは、あなたから見ると、やや歳の離れたお姉さんでした。
でもアイーシャさんはその提案が子供の妄想でしかないことを理解し、それでもいち領民としてその言葉を真正面から拒むこともできず、曖昧な返事で引き伸ばしを図った。若き先代が求めるがままに体は許したけれど、言質は与えなかった。
そうこうするうち、アイーシャさんはある厳しい冬のさなかに肺炎にかかって、あっという間に亡くなった。
この認識に、どこか間違いはありますか?」
老ヨーナスは私の言葉に仰天したようだったが、すぐに自分を取り戻すと、「そこまで知っていて、なぜ……!」と唸り声のようなものを絞り出した。
間髪入れずに、私は老ヨーナスを言葉で突き刺す。
「なぜ? あなたがそれを聞くのですか?
いいでしょう、お答えします。ライザンドラがなぜ、こんなことを口にしたのか。
それは簡単です。
ライザンドラは、ニリアン領の皆さんのことを、尊敬しているからです。
そしてまた、先代ニリアン卿のことも、レイナ嬢のことも、ユーリーン司祭のことも、尊敬しているからです」
主堂の中は、水を打ったように静まり返った。
「けれど皆さんは違う。
皆さんは、先代ニリアン卿に対する敬意を捨てた。
さもなくばライザンドラが先代を侮辱する言葉を発したそのとき、その場で、この無礼な愚か者を袋叩きにしたはずでしょう!
皆さんは、レイナ嬢に対する敬意を捨てた。
さもなくばライザンドラがレイナ嬢を侮蔑する言葉を発したそのとき、その場で、この痴れ者が床に這うまで叩きのめしたでしょう!
皆さんは、ユーリーン司祭に対する敬意を捨てた。
さもなくばライザンドラがユーリーン司祭を軽んじる言葉を発したそのとき、その場で、この不敬な異端者を焼き殺したでしょう!
そして何より皆さんは、自分自身に対する敬意を捨てた。
さもなくばライザンドラが皆さんを地に這う蛆虫がごとき言葉で罵ったそのとき、その場で、この狂人を教会の外へと追い出したでしょう!
違いますか! ライザンドラの言葉に、何か間違いがありますか!」
誰もが――ホフマン司祭ですら――固唾を呑んで、黙り込んでいた。
老ヨーナスの荒い呼吸だけが、この場における唯一の音だった。
だから私は、老ヨーナスに語りかける。
「ヨーナスさん。あなただけは、違った。
あなただけは、ライザンドラという愚か者を排除すべく、立ち上がった。
ライザンドラが語る恥知らずな言葉に対し、『それは間違っている』と、その杖をもって反論した。
だから――どうか、教えてください。語ってください。
あなたが知る、アイーシャさんの物語を」




