アルール歴2188年 10月22日(+140日)
――ライザンドラの場合――
ニリアン領に着いた頃には、空にはそろそろ雪の気配が感じられつつあった。本当はもっと早く到着する予定だったのだが、ニリアン領に直行する商人がいなかったため、ダーヴの街を経由してニリアン領に向かうほかなかったのだ。
なにせ旅のミョルニル派修道士たちですら、金品目当てで襲われるのが昨今の世相だ。女の一人旅など、野盗に向かって「好きにしてくれ」と宣伝するようなものでしかない。なるべく大きな隊商に同行させてもらうように頼み込む以外、安全な旅は期待できない。
そんなこんなで懐かしきニリアン領に到着した私は、旅路をともにした商人たちが領主の館に向かうのに同行することにした。ニリアン領はあくまで霊峰サンサを包囲する陣地のひとつであり、旅人は真っ先に領主と面会する必要がある。
新領主にして現「ニリアン卿」であるレイナ嬢とは会ったことがないが、聡明な人物だという話は聞いている。そのことが今のニリアン領を統治するにあたってどれくらいプラスに機能するかは分からないが、少なくとも領民にとってはプラスだろう。
3人の商人が挨拶を終えたところで、私がご挨拶をする番になった。正確には謁見と言うべきだが、先代がそうだったように、当代もその手の虚礼には興味がないようだ。
「はじめまして。ライザンドラと申す者です。
故あって、先代のニリアン卿には大変なお世話になりました。
先代様が神の御下へと還られたと伺い、甚だ遅まきながらも参上いたしました。願わくば一握の花と祈りを捧げさせて頂ければ、これにまさる喜びはございません」
久々に全力で畏まった言葉を使ったせいか、言い回しのあちこちがぎこちない。
そんな私に向かって、レイナ嬢はにっこりと微笑んでくれた。
「祖父からの手紙で、ライザンドラさんのことは聞いていました。
もちろん、ライザンドラさんの帝都での活躍も、よく知っています。帝都で会えなかったこと、とても残念です。
祖父が世話したと言いますが、世話されていたのはもっぱら祖父のほうだったとも聞いています。夕べの鐘が過ぎれば私も手が空きますから、祖父の墓に案内しましょう。
それまでの間は、どうかアラン村長の家で休憩を。では、後ほど」
領主として実に堂に入った返答だ。今やただの平民でしかない私に対し過度の敬意を示すことなく、かつ、「先代が世話になった」というラインはきっちりと押さえている。なるほど噂に違わぬ英才っぷりというところか。
それだけに、レイナ嬢が「村長の家で休んでいろ」と念押ししたのは、気になる。要するに彼女は私に「村をあちこち見て回ったりせず、また教会に顔を出したりもせず、とにかく村長の家に篭っていろ」と命じたのだ。
とはいえ、ここで命令の真意を問いただしても仕方あるまい。私は「ありがとうございます」と一礼すると、村長の家に向かうことにした。
「アラン村長」ということは、まだまだ子供だったアラン君が、前の村長のあとを継いで新村長となった、ということだろう。考えてみれば彼と最初に会ってから、ちょうど10年。少年が大人になるには、十分過ぎるほどの時間だ。
村長の家に行くと、予想通りアラン君――もといアラン村長が出迎えてくれた。すっかり大人の顔つきになった彼と、固い握手を交わす。家の奥の方から赤ん坊の泣き声が聞こえてくるところをみると、村長としてだけではなく、家長としても立派に成長したようだ。
ダーヴの街で会って親しくなったというアラン君のお嫁さんを紹介してもらい、元気なお子さんを2人ほど抱っこさせてもらってから、私たちは茶を片手にいろいろなことを話し合った。
アラン君いわく、村の現状は「とても良くない」らしい。
私達がナオキの指示のもと、〈貧者の儀式〉を復活させ、竹簡聖書を作り上げたあの数年間を体験した村人は、「自分たちの手でなにかを成し遂げる」という喜びを知ってしまった。
たった3年ほどのことではあったけれど、その間に村人たちは自ら学び、工夫し、理解して、さらにその先を求めるという繰り返しの苦しさと楽しさを、体験してしまった。
けれどそのすべては(よりによってユーリーン司祭が発した命令によって)無期凍結され、村人たちは再び絶望と停滞の厩舎へと押し込まれた。
しかも先代の死後、ユーリーン司祭の後任として審問会派から正式に送られてきた司祭が、またよろしくないらしい。
ホフマン2級審問官と名乗ったその司祭は、先代ニリアン卿がこっそりと進めていたサンサ山中に巣食う山賊との違法な交易を暴露し、先代を痛罵した。そして村人たちに向かって「諸君らは無意識のうちに最悪の罪に加担させられていた被害者ではあるが、同時に神の定めた大いなる罪を犯した重罪人でもある」と告げ、村人たちを精神的に叩きのめした。
同様な綱紀粛正は、霊峰サンサを包囲する他の諸領でも行われたという。
結果として、アラン村長の見立てでは、「いまやニリアン領の領民たちは生きる屍のようになってしまった」。「ライザンドラさんたちが来る前よりも、村は悪くなった」という彼の見解に、どう言葉を返してよいのかわからない。
とはいえ、レイナ嬢が私に向かって「村長の家でおとなしくしていろ」と命じた理由は理解できた。彼女が商人相手に荷物の検品その他で慌ただしくしているタイミングで、いまや大罪人扱いの先代ニリアン卿と懇意にしていた私が、教会でホフマン2級審問官とばったり出会う――領主としては可能な限り避けてほしいシナリオだろう。
そのことはアラン村長も理解しているようで、「いずれホフマン司祭とも会うことにはなると思いますが、ニリアン卿と一緒に会うことを強く勧めます」という彼の見解には、全面的に同意する他ない。私がホフマン司祭と会うことで何が起こるのか読みきれない以上、この地における世俗側の最高権力者(かつ、どうやら私の味方)であるレイナ嬢を同伴したほうが良いだろうという観測に、つけいるスキはないように思える。
そんな感じでアラン村長と情報交換をしていると、一日の仕事を終えたらしきレイナ嬢がわざわざ村長の家までやってきた。ちょっとフットワークが軽すぎる気がするが、なんとなく「先代も若い頃はこうだったのかもしれない」とも思う。
そろそろ夕餉の頃合いという時間ではあったが、それもまた動くにはちょうど良い頃合いということで、私はアラン村長に礼を言って席を立つ。それからレイナ嬢の導きに従って、歴代のニリアン卿が埋葬されているという墓所へと向かった。
日暮れを迎えたニリアン領の風は冷たく、遠くに見える霊峰サンサの山容はどこまでも峻厳だ。
私たちは何を話すということもなく墓地への道を歩き、特に誰にも声をかけられることなく、ひときわ目立つ墓の前に立った。これといって気の利いたお供え物の用意も(「一握の花を捧げたい」などと洒落たことを言った割には)ないので、私はただ無言で両膝を折り、故ニリアン卿のことを思う。
総じて言えば、厳しい人だった。
厳格、謹厳実直、無骨、質実剛健……そういった言葉が似合う立派な武人であり、また支配者だった。
同時に、悩みと迷い多き人でもあった。ずる賢いと言うしかない側面もあれば、卑屈さを感じる一面すらあった。己の怒りを律しきれない、そんな脆さもあった。
つまり、間違いなく、一人の人間だった。
「天に自由を、地に希望を。
我らの魂に平穏あれ」
気がつくと、そんな祈りの言葉が口をついていた。
でも、驚きも、違和感も、感じなかった。
この新しい祈りは、誰よりも先に、故ニリアン卿に捧げられるべきだ――そんな気がした。
そうやって祈りを捧げていると、ふと肩に手がかけられるのを感じた。見上げると、レイナ嬢の手だった。彼女の視線に導かれるがままに教会へと目をやると、村人たちが続々と中へ入っていく。
「――ホフマン司祭による、夕べの説法です。
彼はああやって、この村に残る悪しき習俗について、極めて強い言葉で説法をします。かつては〈貧者の儀式〉の再生や、竹簡聖書の製造といった前人未到の偉業を成し遂げたことに対して誇りを抱いていた彼らも、ホフマン司祭の度重なる説法を前に、完全に萎縮してしまっています。
自分たちは大いなる間違いをしでかした咎人であり、最悪の異端者の一歩手前であり、死ぬまで罪を償って生きるしかない。誰もがそう信じるようになりました」
さもありなん。この荒れた世情のなか、2級審問官がこんな辺境に(その肩書を保ったまま)派遣されてきたということは、つまりはそういうことだ。
審問会派は、サンサ教区における隠れ異端を掃滅したことを、政治戦における拠り所にしているのだろう。だからホフマン2級審問官のような人物をサンサ教区へと派遣し、想定外のことが起きることを力で押さえ込もうとしている。もしいまこの地で再び異端騒動が起ころうものなら、審問会派はとてつもないダメージを受けることになるから。
私は立ち上がると、レイナ嬢の顔を真正面から見た。日はほとんど沈んでいて、わずかな残光が彼女の整った顔を照らしていた。
その険しい表情を見ながら、私はなぜ領主たる彼女自らが私を(しかも供もなしに)墓地まで案内したのか、ようやく理解する――が、まずは順を追って状況を確認していくとしよう。そのほうが、レイナ嬢も本題を切り出しやすいだろうし。
「それだけではないですよね?
ニリアン領は、以前よりもかなり多くの補助金を中央から得ているのでは? 彼らはこの地で芽生えた希望に対して鞭打つのと同時に、希望を捨てることの代償となる飴も用意したはずです。
はっきり言えば、ライザンドラ達がこの村で活動していた頃より、この村は経済的には豊かになった。違いますか?」
この推測には、具体的な証拠もある。アラン村長の家に招かれた私は、茶でもてなされた。以前であれば、最善を尽くしても白湯だったのに。
間違いなく、この村には大量のカネが流れ込んでいるのだ。
私の指摘に対し、レイナ嬢は泣くとも笑うとも怒るとも知れぬ、複雑な表情を浮かべた。その唇が、わずかにわなないている。
「お察しのとおりです。
私はデリク卿のご紹介で、デリク家の分家であるマイス家の三男、ヘイズと結婚しました。夫が、ニリアン家の婿に入る形で。
結婚式は、帝都で行われました。そして夫は、ただの一度たりとこの地に来たことがありません。夫婦の契りも、式の直後の一夜のみです。私は式の翌日にはこの地へと旅立ち、夫とはそれっきり会っていません」
――なるほど。吐き気がするような話だが、構図としては理解できる。
デリク卿はマイス家に支援金を送り、マイス家はその大部分をポケットに入れた上で、残りをニリアン家に送る。血で結ばれた家と家の間でそのようなカネが動くことにまで、他の大貴族が口を出すことはあり得ない。かくしてニリアン領には、もともとの支援金に上乗せするかたちで、多額の(あくまで比較級だが)カネが流れ込むことになった。
もちろんこの形式だと、現ニリアン卿の世継ぎはどうするのかという問題は発生する。そのあたりについては、帝都でのうのうと暮らすヘイズ君とやらが、囲った側室を相手に日々励んでいるのだろう。
どうしようもなく腐り果てた構図だが、デリク家の視点に立ってみれば、ニリアン領の治安を維持したい審問会派に対して協力でき、分家であるマイス家に貸しを作れ、古くからの陪臣であるニリアン領は潤う。「費用対効果は抜群」といったところだろう。
この構図は、一見すると、誰も損はしていない。
レイナ嬢とニリアン領の人々の尊厳が、完膚なきまでに踏みにじられていることを除けば。
レイナ嬢は、必死で感情を押し殺しながら、言葉を続ける。
「ニリアン領や私が帝都でどのように呼ばれているかは、よく知っています。
かつてはエミルを相手に高値で純潔を売った私が、今度はその父親であるデリク卿と寝ることで援助を引き出したという噂も、帝都では定番の笑い話だそうです。
でも、その程度のことであれば、耐えられます。
祖父が愛した領民たちは――かつてはどんなに苦しくとも必死で働いて日々を紡いでいた彼らは――さして働かずとも飢え凍えて死なないだけの援助を得られるようになったいま、酒と賭博に溺れています。
しかも、そんな堕落した日々の片棒を担いでいる司祭に自分たちの罪深さを叱責されると、薄ら笑いを浮かべながら懺悔の言葉を口にし、その懺悔をもって司祭から酒をふるまわれるのです。
この最悪の日々を根底で支えているのが、私です。なぜなら私は、かつてのように領民たちが飢えと貧窮と病に苦しみ、明日の夢も見れないような毎日を送るほうが良いのかと問われれば、『今のほうがマシだ』と答えるしかないから。
そして私がそう判断し続ける限り、これは続きます。もしデリク家が没落したならば、私は新たな支援者を求めて再び股を開くしかありませんし、それがこの地における領主としての務めということになるでしょう。若き日の祖父が、いかに猛々しく取り繕おうとも、帝都では秘密裏にかのごとく振る舞ったという、忌まわしい風聞が伝えるように」
もし、この場にハルナさんがいれば。
彼女はきっと、レイナ嬢にこう聞いただろう。
「レイナさんは、死にたいと思うことがありますか?
何もかもを無茶苦茶にして、終わりにしてしまいたいと思うことがありますか?」――と。
でも私は、ハルナさんではない。
いま改めて彼女のかつての問い――「ライザンドラさんは今でも、死にたいと思うことがありますか? 何もかもを無茶苦茶にして、終わりにしてしまいたいと思うことがありますか?」に包み隠さず答えるならば、「いいえ」という一言に凝縮できる。
なぜなら私は、ハルナさんほど賢くないから。
ハルナさんのようにこの先を完璧に見通し、「無駄に足掻いて死人の数を増やすよりも、すべてを飲み込む破局をさっさと呼び込んだほうが、トータルで見ればダメージは小さい」という判断ができるほど、訓練されていないから。
まだイケると根拠もなく確信し、おぼろげな希望に縋り付いてしまうくらいに、弱いから。
私だって、自分が馬鹿げたことをしようとしているのは、わかっている。
間違いに対して「間違いだ」と声をあげることの意義を世界に知らしめ、そうやってたくさんの人が自分で考えるようになれば、この世界は巨大な破局を回避できる――こんな発想は、どこからどう見ても、妄想でしかない。
この世の中に、自分で考え、自分で判断し、自分でその責任を負いたいなんていう特殊な趣味を持った人間は、ほとんどいない。
もし「間違いに対して間違いと言う」という動きが世に浸透したとしても、自分で考え、自分で判断し、自分の責任のもとに「それは間違っている」と言う人間は、ほとんど現れないだろう。
むしろ、人々は世界に対しなんとなく間違いを感じ、それをなんとなく間違いだと主張し、その糾弾の真意を問われたならば「そこまで真剣な話ではない」と言い逃れるだろう。
これは良いとか悪いとかではなく、そんなものなのだ。人はパンのみに生きるわけではないが、24時間営業で神と世界のことだけを考えて生きていけるわけでもないのだから。
つまるところ、私は世界の苦しみを増やそうとしているに過ぎない。
これまでにない新手の苦しみを、世界に拡散させようとしているに過ぎない。
それでも。
それでも私は、自由を信じる。
それでも私は、希望を信じる。
そしてその先にある平穏を、信じる。
生きるということと、ただそこにあるということは異なると、信じる。
だから私は、レイナ嬢に問う。
「希望さえ抱かなければ、未来さえ欲さなければ、人はあらゆる苦難を苦難と認識せずに生きていけます。
希望を抱き、未来を欲することを取り戻したならば、それゆえに、より大いなる苦難に立ち向かうことになるでしょう。
それでも――?」
それはかつて、先代ニリアン卿が私に語った言葉。
レイナ嬢は私を真っ直ぐに見据えて、答えた。
「それでも、苦難を苦難と認めて戦わないなら、私達は豚や牛にも劣ります。
私達は、人間です。
生きて、喜び、悲しみ、苦しんで、ときに失い、ときに別れ、ときに己の命をも損ない――それでも明日もまた生きたいと乞い願う、人間です」
先代が続けて語った慟哭のような言葉を、レイナ嬢は淀みなく口にした。
それは、ニリアン領という極限の大地が鍛え上げた、魂の慟哭。
たとえ叛意ありと謗られようとも譲らない、尊厳の咆哮。
私はレイナ嬢に右手を差し出し、レイナ嬢はその手をしっかりと握る。
きっと私は、こうなることがわかっていて、この地に戻ったのだろう。
私の戦いを始める、その最初の戦場として、私は無意識のうちにここを選んでいたのだ。
そんな私に、戦友が問いかける。
「念のために、聞いておきます。
この戦、勝算はいかほどと見ますか?」
いたずらっぽく微笑むレイナ嬢に向かって、私はいたって真面目な顔で予測を語る。
「ゼロではない、程度ですね」
レイナ嬢は「大変に結構です」と呟いて何度も頷く。ここまでは予想どおりだ。
でもそこで彼女はいきなり、予想外の行動を取った。彼女は、領主の館に向かって歩き始めたのだ。それどころか、自分に同行するようにと、私を手招きしている。
一瞬、私は彼女の能力を読み損なったかと考えた。
なにせ私たちはサンサ教区における教会秩序に対し――つまりは今の帝国と教会の政局全体に対して――宣戦布告しようとしているのだ。
こちらが準備期間を取れば取るだけ、敵はより素早く、より大規模に、対抗策を固めていく。今この瞬間が最も彼我の戦力差が小さいタイミングであり、それゆえに、少なくとも今夜のうちにホフマン司祭は何とかする必要がある。状況は、1秒を争うのだ。
だが、それが分からないレイナ嬢ではあるまい。
ということは、これは彼女なりのテストと考えるべきだろう。
だから私は、黙って彼女のあとに続く。
案の定、自分に追いついてきた私を見たレイナ嬢は、にっこりと笑った。
そして声を潜めて、私にこう語ったのだ。
「現状、無駄にできる時間などまるでないのは、わかっています。
ですがホフマン司祭は長い年月をかけて、領民たちを洗脳してきました。
私たちはホフマン司祭を排除するだけではなく、領民の心に巣食った怯懦と惰弱を、ただ一撃をもって叩きのめさなくてはならない」
実に正しい状況判断。才能ある若者がひしめく帝都にあって、才媛の一人として名を知られていただけのことはある。
「無論、ライザンドラさんでしたら、この至難を必ずや果たすでしょう。
でも私としては、かけられる保険は、かけておかなくてはなりません。今後はそれこそが、私の役回りとなるでしょうから。
なに、大仰に保険と言いましたが、必要な時間的投資としては30分もかからないようなものですし、ホフマン司祭のひどく凡庸で退屈な説教が終わるまでには、まだ1時間ほどあります。まずは急ぎましょう」




