アルール歴2182年 10月8日(+1日)
――シーニーの場合――
いろいろな後片付けを終え、負傷者の手当てや後送といった手続きも一通り終わってみれば、あの戦闘からまる1日が経過していた。
今回の作戦における私の任務は、第一に審問官たちを全員確実に殺すこと、第二にザリナ隊長が率いる独立部隊の支援を行うこと。ザリナ隊長とナオキのサインが入った命令書を受け取った私は、煮えたぎった油のような葛藤を内心で抱えつつも、結局はその命令に従い――そして目の前でザリナ隊長を失った。
こうなるかもしれないという予感は、あった。
なにしろ今回の敵は審問会派における武闘派の頂点に立つ、エリート中のエリートだ。教会は附属の騎士団などなど様々な暴力装置を有するが、少人数で動く部隊としては間違いなく教会最強の武と言っていい。
もちろんザリナ隊長もまた、驚異的な個人戦闘力を持つ。だからあっさりと負けることは、あるまい。けれど勝利するとなると、少なからぬ犠牲を出すことになるだろう。
そしてその犠牲として戦の女神に捧げられるであろう頂点にいるのは、個人的武勇としては抜きん出た存在であるザリナ隊長だ。味方はどうしたってザリナ隊長に依存するし、敵は隊長を殺すことを最優先課題とすることは疑いないのだから。
その予感は、的中した。
けれど今でも、思う。
重クロスボウによる狙撃部隊を指揮していた私には、ザリナ隊長の生存を最優先した支援を行うことだってできた。
実際、重傷を負った特別行動班の隊員がザリナ隊長を味方の屍ごと貫こうとしていたのは見えていた。また、カナリス審問官が隊長の頭蓋を叩き割ろうとしているところも、見えていた。
だから私は、隊長を――自分をあっさりと捨てた、あの人を――救うことだって、できた。
できたし、私はあの人を、救いたかった。
あの人を救えば、きっとあの人はまた、私のことを褒めてくれるだろう。
私を捨てたことをあっけらかんとした態度で謝って、それからまたかつてのように、私を愛してくれただろう。
そして私は、あの人が私に残した傷跡を隠しながら、あの強い腕の中で、かつてのような幸福感に浸っただろう。
それは、分かっていた。
でもナオキとザリナ隊長が私に発した命令に従うならば、あの局面においてザリナ隊長を助けるために狙撃を行うことなど、できなかった。
そんなことをすれば、審問官たちを全滅させるというミッションは確実に失敗する。ザリナ隊長に抗し得る武を磨き上げてきた審問会派特別行動班を皆殺しにするならば、彼らをして「気が抜ける」刹那を狙い撃つ――それ以外に選択肢はなかった。
でも。
――でも。
我ながら女々しい奴だな、と思う。
任務のために大切な誰かを失うだなんて、こんな仕事をしていれば日常茶飯事だ。
私だってザリナ隊長に拾われる前、あちこちで雇われ指揮官として戦ってきた戦場において、最も信頼する部下に向かって「我らの勝利のために死んでこい」と命令することは珍しくなかった。
そして案の定、部下は死んだが部隊は勝利し、雇い主以下大勢に「最高の指揮官だ」と賞賛されることも、何度もあった。
それどころか、「勝利のために死ね」と部下を死地に追いやりながら、勝てなかった戦いだってある。
昨日の戦いだって、そんなよくある展開の、ひとつに過ぎない。
だのに「ザリナ隊長を見捨てて、勝利を掴んだ」という選択は、いつまでもジクジクと痛む棘のように、心に突き刺さっている。
だから――いやこれは「だから」と言うべきなのだろうか?――私は気がつくと、ナオキ司令が臨時の私室としている部屋の前に立っていた。
もう何の意味もないのに扉をノックし、その行為のあまりの無意味さに呆れながら、ナオキ司令の返事を待たずに扉を開く。
部屋に入ると、ナオキ司令は手桶に汲んだ水で、手を洗っていた。
いつまでもいつまでも、取り憑かれたかのように、手を洗い続けていた。
そんな彼を見て、私はふと、古典演劇の一節を思い出す。
「大洋の水すべてを傾ければ、この手から血を洗い落とせるか?
いや、この手がむしろ、見渡す限り波また波の大海原を朱に染め、
緑を真紅に一変させるだろう」
この嘆きに対する応えは、確かこうだったか。
「ほんの少しの水があればきれいに消えてしまいます」
そんなことを思いながら部屋をぐるりと見渡すと、中途半端に空いた酒瓶が所狭しと並んでいた。おそらくナオキ司令は、新しい酒を抜栓しては少しだけラッパ飲みし、そして「これじゃない」と思い直して次の瓶に手を伸ばすことを繰り返したのだろう。
延々と手を洗うことといい、酒に逃げることといい、新兵には実にありがちな反応だ。
けれど、「追跡してきた審問会派の特別行動班を全滅させた」などという、引き返しようのない犯罪を完遂したばかりの我々の、最終的な意思決定者がいつまでもこんなていたらくでは、こちらとしては「ふざけんな」としか言いようがない。
中央の教会は、遠からず、カナリスたちが死んだことを知る。そういう奇跡があるのは、私ですら知っている。そうなれば彼らがどこで死んだかも、明らかになっていくだろう。それなりに時間はかかるだろうが、教会が第二第三の猟犬をけしかけてくるのは、疑問の余地もない。そしてその攻勢は、私達が吊るされるまで続く。
だがナオキ司令は命令書に「この戦いには勝算がある」と書いた。
そして私は、その言葉を信じた。
信じるしか、なかった。
だから彼には今すぐ、その薄暗い性根の奥底に秘めた卑劣な策をもとに、成すべきことを始めてもらわなくてはならない。
それがどんな策であろうとも、これから先の戦いにおいては時間こそが最も貴重な資源になるはずなのだから。
私は今なおしゃがみこんで手を洗い続けるナオキ司令の前に立ち、その胸ぐらをすくい上げるように掴んで、立ち上がらせる。
彼の身体はボロ布程度の重さしかなく、抵抗らしき抵抗はまるでなかった。
「ナオキ司令。
あなたは今すぐ、我々に新しい命令を下す必要があります。
こんな場所で、こんなことをしている暇は、ないはずです。
どうか、次の命令を」
ナオキの目は、まるで焦点を結ぼうとしなかった。
私は苛立ちを隠さず、彼を強く揺さぶる。
「ざっけんなよ!
たかが1人殺した程度で、いまさらウジウジすんな!
これまであんたの命令で、何十人もの人間が死んできた。
あんたが始めた商売に押し出されて死んだ人間の数まで含めりゃ、百人じゃ効かない。それはあんたも分かってるはずだ!
初めて自分の手で1人殺したからって、『もうお嫁に行けません』みたいな顔を晒してるんじゃねえぞ!」
つい言葉遣いが荒くなった自分に、私はちょっとだけ驚いていた。
言葉の乱れは、心の乱れ。それは我らスヴェンツ傭兵が徹底的に仕込まれる教えだ。「冷静沈着であれ」と願うなら、冷静沈着な言葉を使う。それこそが一番簡単かつ確実なメンタルコントロール技術だというのに。
してみると私はやはり、動揺しているのだろう。
おそらくはナオキ司令と負けず劣らず狼狽え、戸惑い、嘆き、絶望し、それでいて焦り、興奮している。
そう自己分析してみても、どうにかなるものでは、なかった。
私は自分の言葉に一層興奮し、さらに強くナオキを締め上げる。
「なるほど、あんたはカナリスを尊敬してたんだろう。愛してたって言ってもいいくらいに!
まったく、ご愁傷様なことだ。愛するザリナ隊長を使い潰して、愛するカナリス殿をぶっ殺したわけだからな! ああ、実にご愁傷様。これ以上の愁嘆場なんてこの世になかろうさ!
だからその話は、これで終わりだ。
正々堂々と戦って死んだザリナ隊長やカナリスを憐れむなんぞ私が絶対に許さないし、自分を憐れむのもここまでだ!
さもなきゃ――さもなきゃ、私がここであんたを殺す!」
我ながら、言っている言葉にまるで脈絡がない。
ここでナオキを殺したところで、何にもならない。
そして自分を憐れむなと叫びながら、私は私を憐れんでいる。
「――殺せ。
俺を、殺せ、シーニー。
いますぐ。俺を――殺してくれ」
私の腕にすがるかのようにして力なく立つナオキが、そんな戯けたことを口にする。
私は反射的に彼を突き飛ばし、何も考えられない頭で無意味な言葉を叫んだ。
「この、馬鹿野郎!
死にたいのは、私のほうだ!」
そのまましばらく、ふたりとも黙っていた。
ナオキは床に転がったまま、私を呆然と見上げ。
私は肩で息をしながら、ナオキの顔を見下ろした。
ナオキの顔は滂沱の涙でグシャグシャになっていて――認めたくはないけれど私もいつのまにか、喉の奥から止めようのない嗚咽を漏らしていた。
だから――今度こそだから――私は、震える腕でもう一度ナオキを立たせると、今度はベッドの上に彼を投げ捨てる。
それから素早く服を脱ぎ、下着も脱ぎ去ると、ナオキの上に馬乗りになった。
「何を――」
そんな無意味な問いが、ナオキの口から漏れる。
「……私たちはいま、理性的な判断ができなくなっている。
何も考えられないし、何も決められない。
考えても迷うばかりで、大局を見渡しても後悔しか目に映らない」
言いながら、ナオキの服を無理やり脱がせる。
途中で何かが引っかかったのか彼は痛みを訴えたけれど、そんなことはどうでもいい。
「ザリナ隊長は言った。
そういうときは酒でも飲んで、バカみたいにセックスするのが一番だ、と。
付き合え、ナオキ司令。
今から一晩だけ、私にとってのザリナ隊長の、代わりになってみせろ」
■
小さな物音がして、私はふと目を覚ました。
確認するまでもなく私は全裸のままベッドに横になっていて、ナオキは酒瓶を片手に上体を起こしていた。彼が床から酒瓶を取った音に反応して、目が醒めたのだろう。
下腹部に、鈍い痛みを感じる。
そういえば私は、男と寝るのは初めてだった。
なんとも言い難い不快感に眉をひそめつつ、私も上体を起こして、床に転がったままの酒瓶を手に取る。甘い匂いのする、女向けの酒。でもいまはアルコールなら、なんでもいい。
そうやって甘ったるい酒をラッパ飲みしていると、ナオキが空になった酒瓶を床に投げ捨て、ベッドにゴロリと横になる。ふと窓を見ると、まだ月は中天にあった。
「――誰かにルビコンを渡らせたいなら、お前もルビコンを渡れ、か。
ハハハ、師匠はまったく……あのクソジジイめ――」
ベッドに横になったナオキは、そんな意味不明なことを呟く。
「シーニー。
お前にだから言えることだが、俺はずっと、よう子の夢を見ていた。
……ああ、よう子ってのは、俺の初めての女だ。
勝手に俺を愛して、勝手に死んだ、どうしようもなく馬鹿な女」
思わず、胡乱な目でナオキを見てしまう。
女を抱いたその直後に、昔の女の話をするか、普通?
「ザリナを抱いていても、よう子のことは忘れられなかった。
ザリナと寝ていても、必ずよう子は夢に出た。
我ながらどうかしてると思ったが、どうにもならん」
昔の女の話をするだけじゃなく、私の女と寝ていたときの話まで持ち出すか?
しかもその行為の間ですら、私の女のことだけを見てはいなかったとか、いま、ここで、言うか?
「だが――もう、よう子の夢は、見ないだろう。
さっきよう子に、夢の中で言われたんだよ。
『もう眠りはない。あなたは眠りを殺した』ってな。
つまり、俺ももう、こっち側だってことなんだろうな」
殺そう。
そう、思った。
この男を、殺そう。
今なら何の躊躇も後悔もなく、このくだらない小悪党を殺せる。
「これから」なんて、知ったことか。
こんなにも不愉快極まる人間を生かしておく道理など、世界中探したって見つかるまい。
でも私が行動に移ろうとしたその刹那、ナオキは実に興味深い言葉を口にした。
「シーニー。お前を雇い直す。
今後、お前にはザリナと同じ立場と権限を与える。予算配分や人事の権利も含めて、何もかも同じだ。もちろん給料もザリナと同じ金額に上げる。
ああ、『同じ立場』と言っても、俺を愛人にしろなんて馬鹿なことは言わん。むしろこんなことは、今回限りにしてくれ。
お前は、お前の持つあらゆる力を使って、実用的な戦闘集団を再編成し、訓練しろ。『地上最強の部隊を作れ』なんて無茶ぶりは、しない。教会の暴力装置と正面きって戦える必要も、当面はない。
ただ実用的であれば、それでいい」
実用的な戦闘集団。
その言葉は、思ったよりずっと魅力的な言葉だった。
要は私に、私が思う理想の部隊を作ってみせろ、と言っているのだ。
でも、私が彼の提案に乗る――彼を殺すのではなく――ことにしたのは、まったく別の理由だった。
ナオキは続けて、こう言ったのだ。
「お前がどんな部隊を作ろうが、俺が口出しをすることはない。
だが1つだけ、スポンサーとして要求させてもらう。
戦闘集団の名前に、『赤牙団』を使うことだけは、俺が許さん。
その名を使うなら、俺はあらゆる手を使って、お前を殺す」
Macbeth, act2, scene2.
小田島雄志訳




