アルール歴2182年 9月21日(+11日)
——老マルタ特別顧問の場合——
久々に会った馬鹿弟子めは、これぞ壮健なる男子と言わんばかりの溌剌とした姿で儂の執務室にやってきた。無論、溌剌としているのは身体面だけであって、精神面にはまだまだ鬱屈したところが見受けられる。とはいえこの短期間でここまで戻してきたのは、儂の数少ない弟子ならではと言えるだろう。不屈の体力と、不屈の闘志。これなしには審問官は務まらない。
「緊急の招集と聞き、馳せ参じました。
いささか窮屈な立場ではありますが、師匠のご命令を拝領します」
若い頃と何も変わらぬ、しゃちほこばった問答。
今にして思えばこれは彼の強さであると同時に、弱さともなった。厳格で厳正、職務に忠実というカナリスの姿勢は、彼を一種の装甲馬車へと育てた。だがその一方で、分厚い鎧の背後には存外に未熟な精神が宿っていることには、師たる儂ですら気づかなかった。
だが、今更言っても仕方ないことだ。
弱さとは、弱さだ。それ以上でも以下でもない。人間は誰しもがいつか死ぬという弱さを抱えているのだから、弱さを完全に排除することなどできない。大事なのは己が持つ弱さが霞むほどの強さを持つことであって、カナリスはまさにその思想の完成形と言えるだろう。
そしてそれだけに、カナリスが振るう暴風のような暴力と敵愾心を掻い潜り、強靭極まりない鎧を貫通して彼に痛烈な一撃を与えた男のことは、注視しないわけにはいかぬ。
ましてやその男が大異端である疑いが濃厚な以上、我らが為すべきことは、ただひとつだ。
儂は親愛なる友がこっそりと差し入れてくれた一枚のスケッチ画を、カナリスに手渡す。スケッチ画には布を何重にも巻きつけたタイプの女物の服と、様々な箇所のサイズが描かれていた。
「ジャービトン派の内部にも、このたび教会上層部で交わされた合意に納得がいっていない者はいる。
それも、ジャービトン派が負けたから納得がいかぬというのではなく、例の〈同盟〉とやらを言葉巧みに操った人物を警戒するがゆえに、その捜査を一旦中止するという判断に納得できないという、我らに親しいタイプの者どもだ」
ジャービトン派はけして清廉でもなければ豪胆でもなく、どちらかといえば世俗と教会の中間地点でその双方の関係を調整することに特化した派閥だ。しかしながらその構成員の全員が、呼吸するように陰謀と妥協と取引を繰り返すような人間というわけではない。
なかにはボニサグス派的な学究の徒もいるし、我ら審問会派に負けず劣らずの武闘派もいる。クリアモン派やヴェルディティウス派のような職人肌もいれば、ミョルニル派のように奢侈を嫌う者すらいる。
審問会派がけして一枚板ではないように、ジャービトン派にも様々な側面があるというわけだ。
「彼らは彼らなりに、この一連の事件を再調査した。特に例の〈同盟〉は、ジャービトン派にとって深い傷となっただけでなく、なぜああなったのかという疑問を残した案件でもあるからな。
結果として、彼らはひとつの重要な手がかりを得た。それこそが、いま貴様が見ているスケッチ画よ。
そのスケッチ画は、とある大きな空き家の焼却炉に押し込まれていた衣服の写しだ。実物はジャービトン派の内部で保管されている」
儂の言葉をそっちのけで、カナリスはスケッチ画を凝視していた。おそらく彼はもう、ことの真相に到達しているのだろう。だが、今回ばかりはその推測に賭けるわけにはいかない。これは、そんなあやふやな根拠をもとに打って出てよい勝負ではないのだ。
「調査の結果、この衣服は〈同盟〉に出入りしていた、とある女占い師が着ていた衣装と同一のものであるという結論が得られた。
この占い師は、〈同盟〉が暴走していった過程において、核心的な働きをしていたと推測されている——だが、それだけではない」
小さく、咳払いする。冷静であれと強く意識しなくては、ここから先を落ち着いて語ることなどできない。
「この女占い師は、イッケルト大司祭とも接触していた。
〈同盟〉内部で一種の賢者として受け入れられたかの女占い師は、〈同盟〉の構成員であったアガノ・シャレットの紹介で故シャレット卿に接触。
そこでも故シャレット卿に気に入られた彼女は、当時シャレット卿と取り引きをしていたイッケルト大司祭という新たなコネクションを得た。イッケルトも、かなり頻繁に彼女と面会していたようだ。
つまりかの女占い師は、己の正体を隠蔽したまま〈同盟〉という教会の脆弱性に浸透し、そこから教会と帝国の中枢にまで食い込むことに成功したのだ」
もし。
もし儂がいま少し賢明で、注意力を保ち、人脈を維持し、情報を統合し、より広い協力体制を構築できていたならば。
この謎の占い師の情報は、儂のもとにも届き得たはずだ。
そうなれば儂は、このあからさまに怪しい人物に対し、カナリスが指揮する特別行動班の精鋭を差し向けただろう。〈同盟〉の堕落した内情が把握できていて、かつその汚染源であると思しき人物が特定できたのだから、そこで審問会派が為すべきことなど一つしかない。
だが、儂は失敗した。
儂はどこに重点を置くべきかを、最後まで定めきれなかった。そしてユーリーン司祭が優先順位を提案してくれたとき、それをほぼほぼ無批判に受け入れてしまった。
彼女であれば、自分の提案に異議が唱えられるというのは、純粋な喜びであったろう。だから儂は全員を招集して命令するのではなく、皆が納得できるまでとことん討議すべきだった。それこそあのカーマインの阿呆も呼びつけて、無い知恵を絞れと命じなくてはならなかったのだ。
そうしていれば、ユーリーン司祭自らが示した「ユーリーン司祭個人の安全確保にコストを支払いすぎないこと」という合理的な選択には、〈同盟〉を過小評価してしまうことになるというリスクがあるということを、その段階で確認できていただろう。そしてそこで討議を重ねた結果、「〈同盟〉まで調査してはいられない」という結論に至ったとしても、今のような後悔に心を喰われることはなかったに違いない。
そうだ——儂はただなんとなく、この隘路へと全員を導いてしまったのだ。
振り返ってみれば、「ハルナ3級審問官を審問会派から除籍するなどあり得ない」とライザンドラに見栄を切っておきながら、賢人会議のイェシカと交渉するなかで「ハルナ3級審問官を審問会派から除籍する」カードを切ってみたりと、儂は混迷する状況に対処する側から抜け出せなかった。このような戦いにおいては、状況に対処するのではなく、状況を作り出す側に立たねばならぬというのに。
これが、老いた、ということなのだろう。
まったく。人間、無駄に長生きするものではない。
ドス黒い後悔と絶望に、心の臓を食い破られそうになる。
だが、まだだ。まだ儂には、為すべき責務がある。
だから儂は、カナリスに核心を告げる。
「もう気づいているだろう。
その女物の衣装は、ただの女物にしては、サイズや様式がいろいろとおかしい。どちらかと言えば、痩せ型の男が、女に変装するときの衣装と構造が近似している。髪と喉元をきっちりと隠し、ウェストのくびれを過度に強調、ヒップを大きく見せる構造を持ち、大柄な女性向けのサイズ——まさに変装用具そのものだ。
当然だが、このことにはジャービトン派の跳ねっ返り連中も気がついた。それゆえ、彼らはある仮説を立て、その衣装が見つかった空き家の周辺を徹底的に聞き込み調査した。
その結果、彼らは複数の重要な証言を得た。
その大きな空き家には合計でだいたい7〜8人が住んでいて、そのうち1人はかなり大柄な女だったという。それから定期的に、この服を着た女が出入りしていたそうだ。
彼らが何者で、何を生業にしていたのかは、分からない。だが彼らがその家を引き払う当日、お別れの挨拶で近所をぐるりと巡って、ちょっとした菓子を配って回ったそうだ。大柄な女と、ひょろっとした男のペアで、だ。
そしてその過程で、大柄な女が、ひょろっとした男に名前を呼ばれている——ザリナ、とな」
そこまで話した儂は、改めてカナリスの顔を見た。おそらくは、そこに憤怒の顔があるだろうと予測して。
だが、カナリスはまったくの無表情だった。
怒りでもなく、絶望でもなく、ただただ、無表情だった。
無表情なまま、カナリスはゆっくりと、何かを確かめるかのように口を開いた。
「つまり、これは罠ですね」
その通り。そうとしか考えられない。この情報を私のところに持ってきた命知らずの若者たちも、「これは間違いなく罠だ」と断言した。
〈同盟〉を洗脳し、シャレット卿に取り入り、イッケルト大司祭にまで影響力を及ぼした女占い師——つまり変装したナオキが、この最後の最後になって、決定的な証拠とも言える衣装を燃やし忘れるなど、あり得るものか。ましてやそこで「俺は間違いなくここにいたぞ」と宣言するかのような記録を残すなど、常識的に考えてあり得ない。
つまり彼は、あえて我々を挑発し、誘い出して、そこで罠にかけて撃滅しようと企んでいる。教会に残る最後の対ナオキ強硬派である我々を、物理的に粉砕しようとしているのだ。
だが、だとすると新たな謎が生まれる。
その新たな謎を、カナリスは正確に指摘した。
「問題は、あのナオキが、なぜここまでミエミエの罠を張ったのか、です。我々を誘い出して撃滅するにしても、ここまで露骨なやり方は、これまでのナオキのやり方とまるで真逆です。
しかもこの罠は、ナオキにとってもリスクが高すぎます。結果的に2人も教皇が死に、ジャービトン派内部に異端教団が発生し、〈ボニサグスの図書館〉が炎上し、多数の殉教者と犠牲者を出した、この一連の帝都の混乱の背後にナオキがいたことが、この罠を形成する過程において、各種証拠とともに明らかになったのですから。
こうなってしまえば、今の教会上層部と言えど、ナオキを追討せよという命令を出す可能性は極めて高いのでは?」
儂はひとつ頷くと、自分にも回答できるほうの問いに対し、答えを返す。
「なぜ彼奴がこんな罠を張ったのかは、わからん。
だが彼奴には自信があったのだろう。今の教会上層部は、決して自分を追ってこない、という自信が。
実際、今回の合意を形成した教会首脳部は、すべての証拠を握りつぶした上で、ナオキが状況に関与した可能性を全面的に否定している。ジャービトン派の最高評議員の中には、ナオキと取引をしていた疑いを持たれている者がいるからな。
勿論、平常時なら、そんな大きな傷を脛に残した評議員は一瞬で更迭されるだろう。連中の『政治』は忌々しいものだが、弱肉強食ゆえの自浄作用も働いている」
儂の言葉をそこまで聞いたカナリスは、実に短く状況を要約してみせた。
「しかし、ナオキによって手ひどいダメージを受けた今の教会は、『体制を立て直す』ことを優先した、というわけですね」
そういうことだ。
教会は、覆い隠しようもないほど巨大な打撃を受けた。だが、そのダメージが覆い隠しようもないほど巨大であるからこそ、教会上層部としてはその打撃が「辺境から出てきたどこの馬の骨とも分からぬ男」によって成し遂げられたことを、認めるわけにはいかない――そんなことを認めれば、教会の権威は一瞬で吹き飛んでしまう。
では仮にナオキを大異端と認定し、「邪悪な悪魔の策謀によって教会が痛打されたのだ」というお話に持っていけばそれでいいかと言えば、これも極めて難しい。なぜなら2人の教皇の死の背後には「正義の戦い」があったことを、帝都市民は漠然と理解してしまっているからだ。ナオキを大異端とし、教皇の死は悪魔の策謀によるものだったと認定すれば、ハルナもオットーも異端者だったということになる。これでは最悪、「異端者の側にこそ正義があるではないか」という世論を招きかねない。
その上で、教皇が連続して2人も死に、賢人会議のメンバーも相当数が死ぬか引退、現代神学の根底を支えていた〈図書館〉が焼け落ちるに至った今、組織再編と復興作業だけでも目眩がするほどの仕事量となっている。長年の友たるフランスキ司祭ですら、「何をするにしても今だけは勘弁してくれ」と懇願してくるほどだ(そう言いながらあのスケッチを届けてくれたのだから、彼には何と礼を言えばいいのか見当もつかない)。遺憾ながら儂も、「巨大な敵を仕留めるには、足下がふらついた状態では太刀打ちできぬ」という主張には、一理あることを認めざるを得ない。
なんとも忌々しい思いを重ねながら、儂は漠然と、ライザンドラが——あるいはハルナが——残した言葉を思い出していた。「教会は自ら積極的に問題解決能力を損なっている」「帝国も、教会も、もう壊れてしまった」。
ああ、そうかもしれんし、おそらくはその通りだ。だから、もしかしたらライザンドラのように、教会の外からこの惨状を修正しようと試みるほうが、道筋としては正しいのかもしれない。
だがそこに打って出るには、儂は歳を取りすぎた。それに、この壊れた社会の恩恵をさんざん受け取ってきた人間として、せめて最後まで内側に踏みとどまるというのも、ひとつの誠意というものだろう。
「いずれにしても、我らの為すべきことは、ただひとつだ。
異端者ナオキを、討て。彼を手助けする者があれば、等しく撃滅せよ。
これは我ら有志の、総意である。
異端者にさんざん内部を撹乱された挙句、挑発までされてなおすっこんでいたとあっては、教会は決定的な死を迎えるであろう」
実に野蛮な話だが、これがいまの人類にとっての現実であり、審問会派にとっての理の本質だ。
死に対して死で報いれば、そこには陰惨なる死の連鎖があるばかり——そんなことは馬鹿でも分かっている。にも関わらず、殴りかかってきた相手に殴り返さないような人間を「頼りにしたい」と思うような者は、悲しいくらいに少数派なのだ。
そしてそのことは今の教会上層部も理解していればこそ、連中には我ら有志の動きを見逃すという選択肢が生まれ、我々はそこに(不完全ながらも)つけ込むことに成功した。
「我らのチャンスは、ただ一度のみと考えよ。次のチャンスは、ない。
いま、教会の政治を、ジャービトン派の有志たちが操作している。
ボニサグス派とヴェルディティウス派の有志は、貴重な蔵書を売り払って、活動資金を提供してくれた。
ミョルニル派とメリニタ派の有志は、ナオキの追跡に協力してくれる。
クリアモン派の有志は、一度ならず二度、貴様の命を救った。
繰り返しになるが、この協力体制に、次はない。次を行おうにも、その頃にはみな、政治的に死んでおる」
カナリスはあくまで無表情なまま、頷く。
「我ら有志のうち、貴様は最も優れた暴力だ。
ゆえに、我らは貴様にすべてを託す。
すべてを託し、異端者が仕組んだ罠の奥底へと、貴様を送り込む」
遠回しな「死んでこい」という命令にも、カナリスは無言で頷いた。
「ならば征け、カナリス。
特別行動班の有志たちが、外で貴様を待っておる。
彼らの命と、貴様の命を使って、必ずや異端を掃滅せよ」
儂の最後の命令に対し、カナリスは何の気負いも見せず、ただ、しっかりと頷いた。
「身命に賭けて、異端者ナオキを滅ぼしましょう。
では——これまで長らく、お世話になりました。最後まで師匠を師として仰げたことを、神に感謝します」
実にあっさりとした、別れの言葉。だが、いい年齢の男が二人揃って美辞麗句を重ね合っても仕方ない。これくらいが、老マルタ派の終焉として相応しいだろう。
そうやってカナリスが去り、儂は再び自分の執務室で、一人になった。
さて——では、為すべきことを、為すとするか。
儂は壁に懸けてあった愛剣を手に取ると、その切っ先を己の心臓にあてがう。
教会は、その構成員が勝手気ままに「己の正義」のために動くことを、断じて良しとしない。それはそれで、実にまっとうなルールだ。
それゆえに、このような狼藉を起こした有志一同の責任は、誰かが取らねばならない。そしてその責任を負うのが、過ちを糺したいと立ち上がったジャービトン派の若者らであってはならない——そもそも儂のような立場の人間は、責任を取るのが仕事ではないか。
しかしまあ、なんとも……波乱の人生であった。
振り返ってみれば最後まで後悔と恥しかない、そんな人生だった。
だが——
だがそれこそが、おそらくは、神の思し召しなのだろう。
迷い、嘆き、ときに他人を罵倒し、ときに天に唾する。
そんなすべてをひっくるめて、我々の生きる道は神とともにある。
それゆえに、儂は祈ろう。
天に栄光を。
地に繁栄を。
人の魂に、平穏あれ。
そうして儂は切っ先の向きを固定したまま、勢いをつけて床に倒れ込む。




