アルール歴2178年 10月22日(+30日)
――ニリアン子爵の場合――
ダーヴの街から来たという彼らと初めて会ったのは、そろそろ雪がちらつき始めようかという頃だった。骨の髄に染み込むような寒さが老いた体を容赦なく苛む、そんな季節のことだ。
アルール帝国の辺境に位置する我が領地は、4つの村からなる。
霊峰サンサを間近に望むこの地は、豊かな森と清流に恵まれてはいるものの、1年の約半分は雪に覆われる厳しい土地でもある。遅くとも11月になれば初雪が舞い落ちはじめ、5月が終わる頃まで雪は残り続けるのだ。
この地に村々が拓かれたのは、300年前の異端討伐がきっかけだ。
帝国首都アルール・ノヴァから落ちのびてきた異端者たちが霊峰サンサに隠れ潜み、その地で他の異端者たちと共同生活を営んでいるという情報を得たときの教皇アレシウス4世は、実態の調査のためこの地に砦と教会を築いた。
砦には神聖騎士が、教会には異端審問官たちが居留し、かくしてそこを中心として最初の村ができた。
サンサに籠もった異端者との戦いは、50年近く続いた。サンサは天険の地であり、歴戦の神聖騎士や異端審問官といえども、山に深入りすればほんのわずかな不運で命を落とす。
殉教者の数が10人を越えたところで、アレシウス4世が身罷られた。次の教皇ピウス8世は「サンサ問題」に対し持久戦を宣言。サンサに至る主要な山道をすべて封鎖し、異端者たちを兵糧攻めにすることになった。
この方針転換は成功し、サンサに巣食った異端者たちのコロニーはその規模を急激に縮小していった――が、異端を根絶できたという保証もまた、ない。
サンサ包囲にあたっては、当家が管理する4つの村以外に、合計で20の村(都合、4つの所領)がその任務を受け持っている。これら20の村々において異端者が最後に確認されたのは250年前のことだが、それでもサンサの異端者たちを包囲するこの戦いには終結宣言が出されていない。
もっとも、まかり間違っていま突然サンサ包囲を正式に終了するという教皇令が出されてしまったなら、我々はおしまいだ。
この過酷な土地にあって我々がかろうじて命脈を保ち続けられているのは、毎年中央教会から発給される、サンサ包囲への支援金があればこそだからだ。
……と、いったような情報は、一応は秘密ということになっている。なにしろここは、異端者と戦う最前線なのだから。厳密に言えば、この村がどのような経緯で成立したかも、軍事機密の一部だ。
もちろん、これは俗にいう公然の秘密というやつだから、ダーヴの街から来た奇妙な一行の座長だって、この程度のことは知っているだろう。
ナオキという名のその座長は、有り体に言えば、どこにでもいる商人のように見えた。これといって覇気があるわけでなし、特に感じ入る何かがあるわけでなし。
遠目で見た印象としては、霊峰サンサの自然の恵みをダーヴの街に運んで日銭を得ようとする、あまり賢からぬ食い詰め商人が商売の許可を求めにきたのだろう――その程度だった。
だが、彼と同じ馬車から降りてきた2人を見た途端、私はその第一印象を捨てねばならないと確信した。
1人は、筋骨隆々とした、長身の女だった。
褐色の肌に砂色の瞳、黒い髪という組み合わせは、おそらくは帝国西方の山岳地帯に住むバラディスタン人だろう。彼の地の人々は男も女も優れた戦士を目指して鍛錬を積むことで知られており、皇帝はもちろん教皇を守る兵士にもバラディスタン人は多い。
そしてバラディスタン人は、決して己の腕を安売りしない。そんな彼らを個人的な護衛として雇えるナオキは、まかり間違っても食い詰めた商人などではあり得ない。
そしてもう1人。こちらがさらに問題だ。
男のような短髪に、聖職者のような服装。だがアルール・ノヴァで開かれる大夜会に出ても、その場のすべての耳目を奪い取るであろうほどの、強烈な印象を与える美女。
彼女とナオキがどのような関係であるにしても、彼女にはカネがかかっている。目もくらむような金額の大金だ。もちろん持って生まれた素質もあろうが、時間をかけて丁寧に磨き上げねば、いかなる原石と言えどもこのような光り方はしない。
私は側仕えのアラン(村長の息子だ)に命じ、ナオキ一行を一番良い応接室に通すように命じた。良い、と言ったところでたかが知れてはいるが、少なくとも隙間風はあまり入らない。
それから、自分もせめて少しはマシな上着に着替えるかと思ったが、彼らの前に出るとなれば当家伝来の一張羅ごときボロ布に過ぎぬと思い直し、そのままの姿で応接室へと向かった。
やがて、3人が応接室に入ってきた。私は席に座ったまま、彼らに着席するよう促す。3人はうやうやしく礼をすると、ナオキだけが私の相向かいに着座した。
「で、ナオキ殿、であったか。
このような寒村に、貴殿のような人物が、いかなる御用かな?」
貴殿、という言葉にアクセントを乗せる。
ナオキはいささか大げさなくらいに首を横に振ると、深々と頭を下げた。
「畏れ多くも、自分はニリアン卿に敬意を表して頂くような人間ではありません。
自分はダーヴの街で小商いをしております、一介の商人でございますれば」
私は彼の言葉を鼻で笑ってみせる。
「バラディスタン人の護衛を従え、帝都の美姫にも劣らぬ女性を傍らに侍らせた貴殿が、小商いとは不思議なことを言う。
そのような美辞麗句は結構。たとえ形骸化して久しいとはいえ、ここはアレシウス4世の勅令による聖戦が続く地よ。単刀直入に、貴殿の要件を述べよ」
ナオキはいかにも感じ入ったと言わんばかりの表情を作って、何度も頷いた。まったく、この男の猿芝居には、どうにもイライラさせられる。
「では自分のお持ちしましたご提案につきまして、簡単に説明させて頂きます。
自分は、ダーヴの街におきまして多くの方々のご助力を得て、ご覧の通りの成功を収めました。
ですから次はその御恩を返すときだと考えたのです」
歯が浮くようなセリフだ。私はイラつきを隠しきれず、彼の言葉を途中で遮る。
「喜捨なら隣の教会に行け。
ユーリーン司祭がしかるべき儀式をしてくれる。
若い女性司祭だが、仕事は確かだ」
だが彼は、ゆるやかに首を横に降った。
「喜捨ではございません。商売のご提案です。
なぜならそれこそが、この地に最も必要なものですから」
額に皺が寄るのを感じた。そんなことはわかっている、と叫びそうになる。
喜捨は、所詮はあぶく銭だ。継続的な収入源がなくては、喜捨など穴の空いた桶に水を注ぎ込むようなもの。だがニリアン家がこの地を任されてから300年間、この地を経済的に自立させようという試みは尽く失敗してきたのだ。
と、言おうとした矢先に、ナオキが私の機先を制した。
「300年に渡って、なし得なかった。だからこれから先も、なし得ない。
なるほど、そう考えてしまうのも仕方ないかもしれません」
私は思わず、彼の顔をまじまじと見る。
いつのまにか、彼の表情からは、追従の色も、謙遜の色も、綺麗さっぱり消え去っていた。
「ですが、それでよろしいのですか?
ニリアン卿のご子息の、そのまたご子息の、そのまたご子息が、自分の所領の貧しさに気づき、父親に『なぜこんなにニリアン家は貧乏なのですか?』と聞き、『いろいろやってみたけど、無駄だったからだ。最近では無駄だとわかっているから、挑戦もしないことにしている』と教えられる。
そんな未来を選択してしまって、本当によろしいのですか?」
無礼な、手打ちにするぞ――という叫びは、喉につかえたまま出てこなかった。
ナオキの語るニリアン家の未来の姿は、あまりにも真に迫っていた。
いや、それは半ば事実でもあった。
私自身、父から所領を受け継ぐにあたって、「この地を守ることに専念せよ」と繰り返し命じられている。そして一度だけこの地をより富ませるための試みを行い、結果その年の支援金をほぼ丸々吹き飛ばすような損失を出した。
その年に生まれた赤子はみな冬を越せず、私は父の教えが正しかったことを忘れぬために、その年に死んだ子供たちの名前を執務室の壁に刻み――そして以後絶対に何もしないことにした。
「もうすぐ雪が降ります。
今年の冬は、何人が死ぬのか。
いや、本当に今年の冬は越せるのか。
それは、文字通り、恐怖だ。だが、真の恐怖ではない」
ナオキの目と言葉に力が篭もる。もはや彼は、しょぼくれた商人などではなかった。椅子に座った彼の姿が、途方もなく大きく見える。
「真の恐怖とは、今を失うことではない。未来を失うことだ。
ニリアン卿。あなたは、ニリアン家の未来を失うおつもりか。
ニリアン家の家人を筆頭に、ニリアン家が統べる領民たちもまた、ただただ今この瞬間を生きること以外に考えられないし、考えない――そんな煉獄への滑落を、運命としてお認めになられるのか。
そして神の御前に立ったとき、『そんな運命がこの世に蔓延するがゆえに、そこから救われることを祈ることすらできなかった』と報告するおつもりか」
ここまで言われたい放題に言われ、ようやく私も本物の怒りに火がついた。
激情が迸るまま、目の前の男を一喝する。
「黙れ小僧! 貴様に――貴様に何がわかる!
帝都でのうのうと生きる連中からはサンサの寄生虫と蔑まれ、それでも額を地面にすりつけて端金をありがたくも拝領し! そして領主として為すべき仕事と言えば、受け取った端金を使って領民の誰を生き残らせるか、品定めすることだけだ!
50年だ! わかるか小僧、50年だぞ! 俺はそんな腐り果てた日々を、50年耐えてきた! なぜならこの村々は、そうやってしか食いつなげんからだ!
俺が何もしなかったような、領民たちが何もしてこなかったかのような、そのような侮辱は断じて許さん!」
若かりし頃は、帝都の文弱どもを失禁させたこともある、大喝。
だがナオキは私のその激怒を、真正面から受け止めた。
「いいや、ニリアン卿。あなたは何もしてこなかった。それが事実だ。
何もしてこなかったからこそ、その怒りがある。
それは、ニリアン卿が並外れて強い人間だからこそ、持ち得た怒りだ。あなたはこの、村の形をした人間を飼う厩舎にあって、それでもなお、尊厳ある人間としての怒りを失っていない」
ナオキの言葉に、私は絶句する。彼の言葉は無礼の極みだが、私がそれを無礼と感じるのは、その言葉に偽りがないからだ。
実際、怒鳴りつけはしたものの、私や領民たちは「耐える」ことをしてきただけで、それ以外には何もしていない。彼の言うとおり、領民は家畜として、私はその管理人として、人間を飼う厩舎でひたすら時が過ぎ去ることだけを願って生きてきたのだ。
「だが、あなたは気づいていないだろう。
もう領民たちは、怒りを保ち続けてなどいない。
仕方のないことだ。彼らは、あなたほど強くないのだから」
ナオキの言葉が、鋭い短刀のように、私の心を抉る。
そうだ。今の今まで、私は領民たちと心を同じくしていると信じていた。
心の奥底に燻る消しようのない怒りを、彼らと共有していると信じていた。
そんなことが、あり得るものか。
「領民たちは、諦めたことを怒るのではなく、諦めたことを諦めている。
こうではなかったかもしれない人生など、彼らは考えることすらできない。考えると苦しいからではなく、考えることそのものを諦めたからだ。
なぜなら彼らは、弱いから。弱者にとっては、自分自身の命すらも、その背中に背負いきれないような重荷だ。そんな重荷を背負ってよろめくように歩くのがやっとだし、もし途中でへたり込もうものなら二度と立ち上がれない。それが、弱者ということだ。
あなたのような強い人間には、想像もできないかもしれない。だが俺にはわかる。なぜなら、俺も弱い人間だから。俺は少しばかり幸運だっただけの、弱くてちっぽけな男に過ぎない。あなたのような怒りは、俺のどこからも出てこない。
だからこそ、俺には彼らの思いがわかる。そして、どうにかしてこのクソッタレな運命を、変えたい。弱者であっても、自分が望むから自分は立っているのだと胸を張れるということを、証明したい」
奔流のようなナオキの言葉が途切れると、応接室はシンと静まり返った。
ゼイゼイと喉の奥から漏れる私の呼吸の音が、やけにうるさく感じる。
私は呼吸を整えようと努力しながら、いろいろなことを思い出していた。
厳格だった父の、頼もしい背中。
中央教会からの使者に対し、やたら腰の低い態度を取る父に失望し、口論した夜のこと。
「この地を守ることに専念せよ」と、死の床で何度も繰り返した父の声。
中央教会からの使者を出迎える自分が、父と同じような振る舞いをしていることに気づいた瞬間の、どうしようもない怒り。
怒りのまま、村で新しい名産品を作る試みに乗り出したときの、高揚感。
そして、執務室の壁に刻んだ、何人もの名前。
唐突に、少年時代に村祭りの無礼講の席で、焚き火を囲んで一緒に踊ったアイーシャの、手の暖かさを思い出した。その2年後に肺炎で死んだアイーシャの、氷のように冷たい手のことも。
そして、こうやって思い出してみれば、アイーシャは私のことをどう思っていたのか、私はまるで知らないし、知ろうともしなかった。
何もかもが、滑稽だ。どうしようもなく、滑稽だ。
「私は、どうすれば、良かったのだろうな?」
埒もない言葉が漏れる。
ナオキは沈黙したまま、ただ、私を見ていた。
「――貴殿がここで何をしたいのかは、知らん。
だが知っての通り、カネは出せん。
それから見ての通り、私自身が外を動き回ることも、もうおぼつかん。老い先短い身だ。今年の冬は越せても、来年は難しいだろう。
それでも貴殿は、ニリアン家とその領民に対し、何かを為そうというのか?」
ナオキは、「はい」と簡潔な応え。
「よかろう。ならば詳しい話を――と、言いたいところだが。
悪いが、久しぶりに大声を出したせいか、どうも肺が痛む。
貴殿の提案を聞くのは、明日にさせてもらえぬか?
この屋敷の客間を2部屋、用意させよう。何もないが、貴殿らも長旅の疲れを癒やしてほしい」
ナオキは「わかりました。お体にご負担をおかけしましたこと、平にお詫び申し上げます」だの何だの心にもないことを言った後、「実は1つだけお願いが」と言い出した。
私は軽く首をかしげ、彼の要求を聞くことにする。
「客間なのですが、2部屋ではなく、3部屋お願いできれば、と」




