アルール歴2182年 9月9日(+8秒)
――老マルタ特別顧問の場合――
パウルの執務室だった部屋に入ると、そこではライザンドラ君が一人で残務処理をしていた。
そんな仕事は見習いに任せればよいものを……と思ったが、よく考えてみれば彼女は見習いだった。特捜審問官の腕章を与えたあの短い時間の印象が強すぎて、実のところ彼女は今年の1月に見習いとなったばかりの、事実上の素人だということを失念してしまう。
だが書類からふと顔を上げた彼女の目が真っ赤になっているのを見て、やはりライザンドラ君はまだまだライザンドラ見習いでしかないのだな、と痛感させられる。
もっとも、儂が見習いだった頃に今の彼女が置かれているような状況に立たされたなら、ここまで気丈に振る舞えただろうかと考えると――非常に怪しい。結局のところ、儂がこうやって落ち着いた振る舞いができるのは、弟子や同僚たちの死と、その後に残された空虚な空間を見すぎてしまったからなのだろう。そしてそれはけして、誇るべき何かでは、ない。
ともあれ私は来客用のソファに腰を下ろすと、ライザンドラ見習いを手招きした。神妙な表情で、彼女は接待側の席に座る。
「良いニュースが1つと、悪いニュースが山ほどある。
まずは、良いニュースから始めるとしよう」
私がそうやって口火を切ると、ライザンドラ見習いは表情を引き締めた。
「良いニュースだが、カナリスが意識を取り戻した。
普通なら眠っている間に衰弱死しておったろうが、クリアモン修道会の腕利きに任せておいたのが功を奏した。明日には本調子にまで回復するだろう、ということだ」
いやはやまったくあの馬鹿弟子は、昔から元気だけは人一倍だ。だが無事これ名馬と言うとおり、審問官にとって尽きぬ体力と壮健な身体以上に重要な資質はない。
「さて、良いニュースはこれだけだ。
悪いニュースは、ひとつずつこなしていくとしようか」
言いながら猛然と茶が飲みたくなったが、現状においてそれは無駄な贅沢というものだ。儂は実に気乗りのしない情報を、ひとつずつ口にしていく。
「ひとつめ。審問会派は――いや、教会の総意として、帝都における、まったき信仰の回復を再優先課題とすることが決議された。
帝国からも、この短期間で2人も教皇が暗殺されたことについては、深い憂慮が示されておる。ゆえに帝国軍とも協力して、帝都の治安の改善と社会不安の沈静化を図るというのが、教会と帝国との間における合意となったというわけだ」
ここまでであれば、けして悪い話ではない。
だが話はここで留まらなかった。
「この合意に基づき、教会諸派首脳陣による合同会議において、今後の大方針が決定された。
最大の焦点となったのは、パウルとイッケルト大司祭が主導した、オルセン家復興計画だ。
そしてこの問題については、原則として『すべてなかったものとする』という決議がなされておる」
儂の言葉に、ライザンドラ君は強いショックを受けたようだった。当然だろう。つまりこの決議は、我々が成してきた努力をすべて白紙とするという決議なのだから。
「つまり、ケイラス司祭は帝都において活動していた頃から、既に異端に染まっていた。
そしてその大異端であるケイラスが、大昔からサンサ教区に潜伏していた異端教団を利用し、彼の地において独自の薬物カルトを形成した。
審問官の英雄であるカナリス特捜審問官とハルナ3級審問官、そしてパウル1級審問官は、300年以上に渡って隠れ異端として存続してきたサンサ教区の異端教団を、ケイラスごと暴くことに成功した。
またこの戦いにおいては、ニリアン領の司祭であった聖ユーリーンもまた、教会の勝利に対し大いなる貢献を成した。
そして、これをもってすべての物語は、終わりだ。ナオキなる登場人物は辺境で小銭を稼いでいた小悪党であり、名前すら物語に現れることはない」
言いながら怒りがこみ上げてくるが、これが今の教会上層部の現実だ。
彼らとしては、「教会は300年以上前から続いていた異端との戦いに勝利した」という伝説が欲しい。そしてそのためであれば、帝都に戻ってきてからのハルナが何に苦しみ、その果てで何を行ったかなど、平気で捻じ曲げる。
「儂も上の連中から、審問会派はこの合意をもって今後行動するから、お前は絶対に勝手に動くなと、何度も釘を差されたよ。『審問会派としては、老マルタに今すぐ完全に引退してもらっても構わないのだ』とな。
もっとも奴らの気持ちも、わからんでもない。
今回の合意は、審問会派の一人勝ちだ。
そも、あのジャービトン派が、かつては若手のホープとして期待を寄せていたケイラス司祭こそ啓示の示す大異端だったということを認めるなど、1000年に一度あるかないかという椿事だ。
ボニサグス派にしても、聖ユーリーンの叙事詩に『パウル1級審問官の献身』の一節を加えることに同意している。彼らもまた、賢者イェシカの策謀や、〈図書館〉の責任者であったアウグスト大司祭の無様な最期などを不問とするという合意があればこそ、聖ユーリーンの物語にパウルが登場することを認めざるを得なかった。
ここで老体がしゃしゃり出て、歴史的な大勝利を潰されてはかなわない――それが今の審問会派の、総意というわけだ」
そう説明しながら、審問会派上層部の弱腰っぷりに、思わずため息が出た。
と、そのため息にあわせるように、ライザンドラ見習いがそっと質問を挟んできた。
「なぜ、ジャービトン派はこのような妥協をしたのでしょうか?
この合意から彼らが得るものは、何もないように思えるのですが」
相変わらず、鋭い視点だ。
だがここは逆順で考えたほうが、ゴールが近い。
「ジャービトン派が、何も得られるものなく引き下がることなどあり得ない。
ゆえに彼らは、この合意から何かを得ているのだ。
では何を――という点だが、これについては儂も詳細は掴めておらん。
ただ、ジャービトン派のフランスキ司祭曰く――彼は儂と懇意なのだが――ジャービトン派の〈評議会〉内部で、なにやら深刻な責任問題が発生したらしい。あくまで噂の範囲だが、彼らが子飼いにしている暗殺者が複数回に渡って返り討ちにあい、その責任を問われて古株の〈評議員〉が1人、辞任する騒ぎになったとか。
最上層部が未だ不安定なジャービトン派としては、欲をかいてとんでもない譲歩をすることになるより、被害の上限が分かっている譲歩をすることを選んだ、ということだろう。
ついでに言えば、ジャービトン派で今回の件を仕切っていたのはイッケルト大司祭で、奴は元審問会派だ。つまりジャービトン派は『ケイラス問題で全面的譲歩をする』ことで、『そこより先に踏み込んで来るなら元審問会派であるイッケルト大司祭の責任問題や賄賂体質を詳細に追求するぞ』というメッセージを審問会派に送ってきておるのさ」
ライザンドラ見習いは何度も頷きながら私の説明を聞いていたが、それでもすべては納得できなかったようだ。彼女はさらに踏み込んだ質問を投げかけてくる。
「もうひとつ、気になることがあります。
ケイラス元司祭ですが、彼は何を説き、そしてなぜ失脚したのでしょうか?
この問題についてマルタ特別顧問は調査されており、その調査結果はパウル1級審問官に手渡されたと記録されています。ですが私にはその調査結果を閲覧する権限がありません。
可能であれば、ケイラス元司祭がなぜ追放されたのかを、教えてください。
ケイラス元司祭を大異端だと見做すということは、彼が帝都で語った言説はことごとく異端の言葉の疑いがあるということになります。場合によっては、それはジャービトン派どころか、教会の権威に関わりかねません――つまり、その一点からかの合意の見直しを迫れる可能性があります」
ほほう。「もう我々は負けたのだ」という言葉で始まった話であるのに、そこで彼女が気になったのは、我々にはまだ勝ち筋があるのではないかという点か。さすがはライザンドラ見習い、と言うほかあるまい。
まったく、これほどの逸材を発掘してきたのであれば、最後まできっちり育ててから死ね、パウルよ。それとも貴様は最初から儂に彼女を押し付けるつもりだったのか?
「残念だが規則により、貴様にかの書類の閲覧許可を与えることはできん。
だが儂がその内容をうっかり口に出してしまったのを、たまたま聞いてしまうのであれば問題はない。ゆえに、よく聞け。一度しか言わぬぞ?」
月並みな前フリをしてから、儂はケイラス元司祭の思想の概略を語る。
「ケイラス元司祭が帝都でなした説法のキーワードは、愛という概念だった。
理論的な面から言えば、さしたる新規性も、あるいは危険性もない概念であったと言えよう。そもそも彼は、そこまで理論派ではなかったからな。
だが彼はとにかく説法が上手かった。そして『汝の隣人を愛せよ』という言葉ひとつで、教会に詰めかけた何百人の市民たちの目に感動の涙を浮かばさせる、そんなカリスマ性があった。
言葉は悪いが実にジャービトン派らしい司祭であり、かつ未来の教皇という期待に相応しい才能を持った男であったと言えるだろう」
ライザンドラ見習いは儂の言葉を真剣に聞きながらも、なおも腑に落ちないところがあるのか、小首を傾げている。まあ、よい。まずは儂の話を終わらせよう。
「彼が失脚した理由は簡単だ。
地上に顕現した天使のごときカリスマを誇っていた彼には、当然ながら、貴族筋からも教会内部からも、『娘を嫁に』という声がかかった。
だが彼はよりによって、ガルシア家の前当主が紹介した縁談を断った。
前当主も当然怒ったが、それよりなにより紹介された娘のほうが『恥をかかされた』と大騒ぎして、結局彼はサンサ教区へと飛ばされた。
貴様も気づいておろうが、ケイラス元司祭は同性愛者だった。それが悪いかと言われれば、『帝国法も教会法も同性愛を認めている』以外に何も言うことはないが、ガルシア家の前当主とその娘にとっては、それは罪だったというわけだ。
つまり、彼の帝都における言説が異端であるか否かと問われれば、『彼はそんな難しい領域に足を踏み入れられるほど、ちゃんと中身のある言葉を喋ってはいなかった』としか言いようがない。
ゆえに、彼の帝都での言説は異端ではないと言う他ないが、異端であったことにしたとしても、誰も困らん。むしろケイラスが〈同盟〉における要職を引き受けていたという事実があればこそ、『彼が異端であったほうがより面倒がない』と言い出す有様よ。
ケイラスの説法が帝都市民の信仰を深め、導いたのは事実だ。だがそれは彼の説法が理論的に優れていたからではなく、彼個人に人気があったからだ。その強烈な属人性があればこそ、今となっては彼の説法を守ろうとする者もおらんし、守ろうとしたところで無意味だ」
儂の独り言を聞き終えたライザンドラ見習いは、わずかに沈黙してから、なおも疑念を口にした。
「私がニリアン領でケイラス司祭と直接面会したときは、彼は明朗快活なれど、いわゆるカリスマ的なものを感じさせる人物ではありませんでした。
サンサ教区に流された彼は、そのカリスマ性を失ってしまったということでしょうか?」
ふむ。それは難しい問題だ。だが、いくつか想像がつくことはある。
「さあてな。最初に言っておけば、儂はサンサに流されたケイラスと会ったことがない。ゆえに、確たることは言えぬ。もしかしたら彼は、己の邪悪な教団を作るにあたっては、そのカリスマ性を存分に発揮していたのかもしれん。今となっては、その点について語る口を持ったものは、ほとんど残っておらん。
だが儂の経験で語るなら、カリスマとはそのようなものだ。
我々がカリスマとして感じるオーラを構成する要素の半分以上は、勝ち馬に乗りたいと願う我ら自身の欲が輻射しているに過ぎん。ゆえに一度負け犬になったが最後、本人は『自分はまだまだやれる』と思っていても、周囲はそこにもはやカリスマを見い出さぬ。
そしてそこで生まれる己と周囲の温度差は、やがて当人を絶望させるか、さもなくば暴走させる。
絶望すればそこまでだが、暴走すれば、同様に切羽詰まった人間がそこにカリスマを見出すこともある――ケイラスの有為転変は、これで説明できる範囲にはなかったか?」
ライザンドラ見習いはかなり長く沈黙した後、「ほぼそれで説明可能なように思えます」と頷いた。もっとも彼女は、「しかしケイラス元司祭の場合、ナオキとの接触がひとつの転機になったようにも思えるのですが」と、一言付け加えたが。
いやはや。儂よりも頑固かつ負けず嫌いな人間に会ったのは、これが初めてかもしれん。
だがそれだけに、そろそろこの夢の時間は終わったということを、彼女にも納得させねばなるまい。
——ああ、もし。
もし10年前に、彼女を儂が見出していたならば。
10年かけて彼女を鍛え上げられていれば、彼女はきっと、この状況をひっくり返すだけの豪腕と狡猾さを身に着けていただろう。
パウルとハルナは喜々として、そしてカナリスは苦笑いしながら、彼女の指揮のもと不可能を可能にしていっただろう。
だが、そうではなかった。
そうは、ならなかった。
実に信じがたいが、彼女が帝都に戻り、審問会派としてまともな訓練を(つまり基礎体力トレーニング以外を)受けはじめてから、まだ2ヶ月しか経過していない。彼女がどれほどの逸材であるにしても、この短期間では、教え得ることにも学び得ることにも、限界がある。
だから我々は、現実に戻らねばならない。
「さて。儂が告げるべき『悪いニュース』は、まだある。
それを伝えに、儂はここまで来たのだからな」
その一言で、ライザンドラ見習いはすべてを悟ったようだった。
私は虚しい気持ちを押さえ込みつつ、彼女に終わりを告げる。
「オルセン家の復興計画は、最終的に皇帝陛下の勅令によって凍結された。
旧オルセン家の家人たちは、そのほぼ全員が、シャレット家に転籍扱いとなる。シャレット家の家人のほとんどはハルナ・シャレットを巡る陰謀の件で有罪となり、最低でも幽閉、最高で死罪が申し渡された。ゆえにシャレット家という家名こそ残れど、その内実はオルセン家の家人が占めるという形で現状維持が行われる。
また、シャレット家の移行期間を後見するのは、デリク家と決まった。デリク家はエミルの件もあって、審問会派の上層部に全面協力する姿勢を貫いてきたからな。これはその褒美というわけだ。
もっともガルシア家としても、この敗北は望むところであろうから、誰からも反対の声は出なかったそうだが」
そこで儂は一呼吸おいて、最も醜悪な一言を切り出す覚悟を、決める。
「ただし。
旧オルセン家の家人のうち、ライザンドラ・オルセン――つまり貴様だけは、シャレット家への転籍は認められていない。
また今月末をもって、オルセン家の名は帝国貴族の名簿から永久に抹消される。つまり貴様はまもなく、ライザンドラ・オルセンを名乗ることを禁じられる。
最後に、審問会派は今週末――つまり2日後の正午をもって、ライザンドラ・オルセンを審問会派から除名する。
儂から貴様に伝えるべきことは、以上だ。短い間だったが、貴様の神と審問会派への奉仕と献身に、心からの敬意と謝意を表す」
吐き気を覚えるような言葉に、半ば目眩すら感じる。
結局、我ら凡俗たちはまたしてもライザンドラ・オルセンという異能を畏れることしかできなかった。そしてその畏れは茫漠たる恐怖となって、「彼女を我々の一員として認めない」という合意を固めるに至ったのだ。
だが儂は元審問官としてこれを彼女に言い渡す義務があるし、彼女もまたこの腐り果てた決済を最後まで黙って聞き届けた。
それから、随分と長く、沈黙が続いた。
いや――もしかしたらその沈黙は、ほんの一呼吸程度だったのかもしれない。
いずれにしても、人間が何かを決断するには十分すぎるほど長い時間だ。
「貴様を社会的に抹殺する」という宣言を聞かされたライザンドラ・オルセンは、やがてその怜悧な双眸を私に向けると、静かに口を開いた。
「師匠。
最後にひとつ、伺いたいことがあります」




