アルール歴2182年 9月9日(+7日)
――ライザンドラ審問会派見習いの場合――
新教皇インノセンス16世、教皇として初めての説法を成す前に薨去する。
この衝撃的なニュースは、帝都にどこまでも重たい暗雲をもたらした。
そうして市民たちが隠しようもない不安と、かの事件に巻き込まれて死んだ親族たちへの悲しみを胸に抱いている中、貴族たちはシャレット家崩壊後の政局を占い、教会は次の教皇を巡る政治闘争で染まっていた。
インノセンス16世の死はもはや包み隠しようもなく、暗殺として発表せざるを得なかった。なにせ目撃者が多すぎる。
新教皇を暗殺した主犯は、驚くべきことに、たった一人。長年に渡って帝都の治安を守る衛兵として精勤してきた、オットー上級兵長単独による犯行だった。
ことの発端は、前教皇ヘルメティウス10世の死――より正確に言えば、ハルナ・シャレットの死だ。
ハルナ・シャレットがヘルメティウス10世を殺し、まるで自ら命を絶つかのごとく戦って死んだという情報は、完全に隠蔽できるものではなかった。
そしてその情報は、最もそれを知るべきではない人物の耳に届いた。オットー上級兵長の一人娘であり、シャレット家にハルナ・シャレットが監禁されていた時期にその主治医を務めたクリアモン派の修道士だ。
彼女はハルナ・シャレットが死んだ2日後の朝、帝都を流れる運河で溺死体として発見された。調査の結果、泥酔して橋から転落し溺れ死んだことが判明したが、彼女の死が事故なのか自殺なのか、それとも謀殺なのか、確たることは分かっていない。
だが彼女の父親であるオットー上級兵長にとって、真実は一つだった。
それは彼の生きがいである娘が、永遠に喪われたということだ。
かくしてオットー上級兵長は復讐の計画を練った。どういう経路からかは不明だが、この教皇交代劇を仕組んだのが賢人会議のメンバーであり、特に賢者イェシカを中心としていたということを知った彼は、己の命を賭して賢者イェシカを殺すための準備を整えたのだ。
最終的に彼が仕立てた暗殺計画は、実にシンプルなものだった。そしてシンプルなだけに、失敗のしようもなかった。
彼の計画の実行において障害と成り得るのは、2つだけだ。
1つは、資金。馬を極度に興奮させる興奮剤は、帝都の外れにある競馬場で、こっそりと使われていることでも知られている(当然ながら違法だ)。それを樽一杯となると、上級兵長の給料ではとても手が届かない。
しかし彼は娘の結婚資金としてちょっと信じがたい金額を貯金しており、目的を失ったそのカネは、復讐のためにすべて注ぎ込まれることとなった。
もう1つの困難は、場所の確保。旧市街のメインストリートに面したアパルトメントは、なんであれパレードが開かれるとなれば、観光客目当てに突如異様な金額で一時貸しが横行する。この状況で最上階の部屋を確保するとなると、カネだけでどうにかなる問題ではない。
しかるにここにおいても、オットー上級兵長は障害を克服する手段を持っていた。誠実で献身的、そして愛される衛兵であった彼は、これまで幾人もの不良たちを更正させてきた。
観光客相手に詐欺まがいの商売をする若者や、立ちんぼとして日銭を稼ごうとする少女たちと、親身になって話し合い、まっとうな仕事を紹介し、ときには彼らのために技術学校の費用まで肩代わりしてきたのだ。
そんなオットー上級兵長であればこそ、旧市街で働く若者たちからはひどくウザがられると同時に、深く慕われてもいた。旧市街にはびこる若きギャング団のボスは、深刻そうな顔したオットーのおやっさんから「パレードの日にこれこれこういう部屋を抑えたい」という相談を受けると、何も聞かずにタダで最高級の部屋を貸した。
かくしてオットー上級兵長は、人生の最期に、娘の仇を討つという宿願を果たした。教皇が死んだのは、そのついででしかなかった
オットー上級兵長に対する裁判は本人不在のまま(当然だ)即決で行われ、彼は死罪となった。つまり彼の亡骸は墓を作られることもなく、野に捨てられることになった。生前の地位と名誉はすべて剥ぎ取られ、重罪人として路傍に転がる骨の一つとなったのだ。彼が異端者認定されなかったのは、かろうじて示された情けと言えるかもしれない。
そしてこの仕打ちもまた、帝都市民を暗澹とした気分にさせる原因となった。
オットー上級兵長は、酒に目がないという弱点こそあったが、彼が担当していた地域の市民にとってみると「頼れる衛兵ナンバーワン」的な存在だった。老人が「財布を盗まれた!」(真相は公衆浴場に忘れてきただけ)と叫べば一緒になって探してやり、熟年の妻が「旦那が浮気した!」と叫べば一緒になって愚痴と惚気を聞いてやり、若者が「今の社会はクソだ!」と叫べば一緒になって職業訓練学校の門を叩いた。それが、オットー上級兵長だったのだ。
しかも彼の妻もまた衛兵であり、公園で遊んでいる子供たちを凶悪犯から庇って死んだ、英雄だった。そして彼らの間に生まれた一人娘もまた、努力に努力を重ねてクリアモン修道士として大成し、地域の誰からも尊敬され、慕われる人物として成長していた。
だがその何もかもは、重罪人の三文字と一緒に、野に打ち捨てられた。
聞くところによると、オットー上級兵長の遺骸が捨てられた街道沿いの原野には、こっそりと質素な墓が作られているという。
また彼の遺骨の一部を灰にして、粘土に混ぜて陶器として焼き上げた花瓶が、彼の妻の墓に備えられているとも聞く。
つまり帝都市民としては、少なくともこの件について正義がどちらにあるかと問われれば、「オットー上級兵長が正しかった」と考える人のほうが圧倒的多数を占めているということだ(無論、あの事件の巻き添えで親族を失った市民にとってみれば、オットー上級兵長は紛れもないクソ野郎だが)。
そしてこのある意味で一種の判官贔屓的な感情は、ハルナ・シャレットに対する同情の念を強めさせるという、あまり望ましくない連鎖反応を産んでいる。
ハルナ・シャレットの死は、公式発表としては「正気を失って暴れたので、衛兵たちによって殺された」(大意)ということになっている。
けれどカンのいい市民は、あの結婚式で何が起こったのかを漠然と(オットー上級兵長の娘さんほどではなくとも)理解している。
それになにより、シャレット家に対する捜査の進展によって、ハルナ・シャレットはむしろ、シャレット家の企てた非人道的な陰謀により正気を失うしかなかったという物語が、市民の間には流布している。そしてそれは、すべてが嘘というわけでもない――地獄の底から辛うじて生還したと思ったら、自分の家で親兄弟に犯されて孕まされるなど、人間が正気を保っていられる状況ではない。
かくしていまや多くの市民にとって、ハルナ・シャレットは腐敗貴族の犠牲者として認識されている。そしてハルナ・シャレットの狂気と死がオットー上級兵長の娘さんの死を招き、連鎖的にオットー上級兵長による命がけの復讐劇に繋がった――この構図は、帝都市民にとってのコンセンサスになりつつある。
私にしてみれば「そう思うあなたがたは、ハルナさんの結婚披露パレードのとき、彼女のことを嘲笑したではないか」と問い詰めたくなるが、それを言っても詮無きことだ。
既に彼らの中で殴ってよい悪役は定まり、その理解の下、彼らは義憤を晴らすことに熱中しているのだから。
とはいえ、市民たちだけを責めることはできない。
以上からも明白なように、今の社会情勢は極めて不安定だ。帝国貴族たちも教会も、今は各々の利権を巡って戦うのではなく、いかに市民を慰撫し、社会を安定させるかに注力すべきタイミングなのだ。
なのに貴族たちはシャレット家の遺産を狙って虎視眈々と腹の探り合いを繰り返しており、教会は次期教皇を巡る政治闘争を加熱させている。帝都市民に絶望されたとしても、文句は言えない。
もっともこの件については、私も人のことを批判できる立場ではない。
一度、今後のオルセン家の処遇を巡ってガルシア卿と面談したことがあるが、彼が思わず漏らした「ところで君はオルセンの名を継ぎたいと思うか? 俺はもうガルシアの名を投げ出したい」という呟きに、私もうっかり頷いてしまったのは記憶に新しい。本来なら私はそこで「無論オルセンの名を継ぎます」と答え、帝都に蔓延する今の悪しき空気を払拭すべく全力を尽くすことを誓うべきだったというのに。
主を失ったパウル1級審問官の執務室で一人ぽつねんと最後の残務処理をしながら、私はそんなどうにもならない思いを転がしていた。
残り3枚を数えるのみとなった書類の1枚に代理でサインを入れ、決済ずみの箱に放り込む。
そしてそのとき、なんとなく誰かが部屋に入ってきたような気がして、私は視線を上げて。
でもその視線の先にあったのは、穏やかな笑みを浮かべるパウル1級審問官の姿ではなく、ただ、冷たく閉じた扉だけで。
それから、そういえばそろそろお昼の時間も過ぎると思って、私は書架近くに置かれた応接セットのほうを見て。
でもその視線の先には、読書に夢中になっているユーリーン司祭の姿はなく、ただ、すべての蔵書が運び出された後の空漠とした本棚だけで。
そうして自分の手に目を落とすと、私の右手はまだハルナさんの血に染まっているような気がして。
私は、どうしようもなく、泣きそうになって。
……どうして、こうなったんだろう。
何を、どこで、間違ったんだろう。
脳裏を幾多の風景が駆け抜ける。
お父様とお母様に、積み木のセットをプレゼントされた日のこと。興奮した私は夢中になって大きな塔を作ろうとして、その途中で寝てしまった。起きたときにはプロの建築家としても活躍していたお祖父様が不可思議な塔を完成させていて、その造形の素晴らしさに嫉妬した私は、大泣きしてお祖父様を困らせた。
それから、お父様の強い手が私をしっかり抱きしめ、お母様の柔らかな手が何度も何度も私の頬を撫で。そして名も無き下女として、意味もなく殴られたり蹴られたりしながら日々の重労働に耐え。それから、ご主人様に首を絞められながら、陵辱され。そして、冷たい瞳をした人々に囲まれて「お前は魔女だ」と何度も何度も何度も何度も繰り返され。
それから、いつしか最果てのダーヴの街に売られ、そこでマダムと会い、ドロシーと会い、最初は明日こそ死のうと思いながら毎日を生き延び、それからだんだん馴染みのお客がついて、そういえば大工の棟梁のマルスさんには何度も愚痴を聞いてもらったことすらあった。老境に差し掛かっていたマルスさんは私の身体を求めることなく、ただ曖昧に酒を飲みながら、私が語る帝都の建築について聞くのが何よりも好きな人だった。
それから小さな傭兵団の団長、メネラウスさんも、変わった常連さんだった。あの人は傭兵隊長らしく豪放磊落な人で、手柄を立てた部下を連れて「今夜は好きな女を買え」と〈緋色の煉獄亭〉にやってくるのが常だった。でも彼の部下にしてみると私は団長の女に見えたらしくて、メネラウスさんの部下に抱かれることは一度もなかった。かわりに私は、メネラウスさんが好きな音楽に関する話を聞かされ続けた。音楽といえば、私はほぼほぼ教会音楽しか知らず、彼はそんな私をダーヴの街で開かれたコンサートに同伴してくれたことすらあった。あのときは普段着で外出しようとしてマダムに怒られて、急遽マダムが見繕ったドレスを着せられたのだったか。もっとも、まさかメネラウスさんが不能だなんてことは、そのコンサートの夜まで知らなかったけど。
それから街一番の金貸し、ハンバーさんも、面白い人だった……
そこまで思い出して、私は愕然とする。
……なんて、ことだ。
私は〈緋色の煉獄〉亭でのことは、何もかもが最悪の日々だと思っていた。
いつか死が自分を迎えにくる、その日を待つだけの日々だった、と。
でもあの日々もまた、かけがえのない日々だったのだ。
長い旅の末に帝都に戻ってきて、八名家のトップと渡り合い、一時的ではあれ特捜審問官の腕章を帯びるところまでたどり着いた私は、こうやって何もかもが行き詰まってみれば、〈緋色の煉獄〉亭の日々のことを、懐かしく思い出している。
ああ。
ああ――
なぜ私は、こんなにも弱いのだろう。
なぜ私は、こんなにも無力なんだろう。
私はどこから来て、何者で、どこに行くんだろう。
気がつくと、書類の上にポツリと、涙が落ちていた。
私は慌てて、僧衣の袖で涙を吸い取る。
涙が落ちた付近のインクが少し滲んだが、それ以上の被害はなかった。そんなどうでもいいことに、いまさらちょっとだけ安堵する。
そしてそのとき、何の前触れもなく執務室の扉が開いた。




