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お前が神を殺したいなら、とあなたは言った  作者: ふじやま
悲しみをわかちあおう。苦しみをわかちあおう。
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アルール歴2182年 8月26日(+1分)

「書物そのものは、君に幸福をもたらすわけではない。

 ただ書物は、君が君自身の中へ帰るのを助けてくれる」(ヘルマン・ヘッセ「書物」)

1009:〈ボニサグスの図書館〉

――ユーリーン司祭の場合――


 私は目の前で起きたことを、呆然と見ていた。


 その風景には、まるで現実味がなかった。

 「これは物語の一部であり、夢のようなものに過ぎない」と言われたほうが、ずっと納得できる。


 けれど、起きていることは、起きていること。

 否定も肯定もなく、ただの事実だ。


 12頭立てで暴走する牛車は、パウル1級審問官が設置しておいた逆茂木を吹き飛ばし、通用門から外に出ようとしていた初期消火班の数名を跳ね飛ばしながら、猛然とした速度で通用門付近に激突した。

 激突する寸前、誰かが「天誅」と叫んだのが聞こえる。


 そして次の瞬間、大型の牛車周辺は爆発的な炎に包まれた。

 おそらくあの牛車は、大量の油を積んでいたのだろう。

 そしてなんらかのメカニズムを用いることで、衝突と同時に炎上するように仕掛けられていたのだ。


 悪いことに初期消火班は、暴走する牛車から避難しようとする人と、あくまで外に出ようとする人の、二手に分かれていた。結果、狭い通用門では初期消火班の人たちが一時的に押し合いへし合いを起こしていた。


 そこに向かって、大量の燃える油が降り注いだ。


 たくさんの人が炎に巻かれ、この世のものとは思えない悲鳴を上げながらあちこちを転げ回る。初期消火班の不幸な隊員も、牛車に乗っていた襲撃者たちも。

 燃える油は正門上部に作られた木製の射手台にまで飛び散り、吊り下げられていた旗や木の台そのものにも引火する。射手たちは慌てて火を消そうとしているが、隊長の「退避」という声が響いたところを見るに、消火は間に合わないという判断なのだろう。

 さすがに正門そのものが(巨大な木製の門だ)燃えるには時間がかかるだろうが、このぶんではその可能性も考えねばなるまい。実際、通用門は既に、傲然とした炎に包まれているのだから。


 私は隣に立って厳しい目で炎を見ているパウル1級審問官の顔を、ちらりと見た。


「――これが、貴方が想定されていた『自分は死ぬが、砦は落とせる』手段ですか?」


 私の言葉に、パウル1級審問官は苦い表情のまま小さく頷いた。


「ディテールには差異がありますが、大筋ではこんなところです。

 牛車は僕も想定していませんでした。ですが冷静に考えてみれば馬より効果的だし、帝都に入れても不審がられません。軍馬の群れを連れて帝都の門を通るのは難しいですが、帝都近郊の農場から肉牛を納品に来たと言えば、通さない門番はいないでしょう。

 ともあれ、僕の次の予想としては、いよいよ連中の本隊(・・)が来ます。最初の攻撃は、火矢による一斉射撃になるでしょう。〈図書館〉に火がつけば儲けもの、たとえうまく引火しなくても、守り手は消火活動を優先せざるを得ません」


 ――この〈図書館〉を焼いてまで、私を殺したいだなんて。

 でも、だとすれば私が己の命を使って成すべきことは、ただひとつだ。


「パウル1級審問官。お願いがあります。

 〈同盟〉の人々に対し、降伏してください。

 彼らの狙いは、私の命です。私を引き渡せば、彼らの攻撃は止まります。

 そうではありませんか?」


 私の提案に、パウル1級審問官はゆっくりと首を横に振ってから、諦めたように、うなだれた。

 でも彼が何を諦めた(・・・)かを、私は勘違いしていた。

 彼は疲れ果てた老人のような声で、彼の読み(・・)を語る。


「無念の極みですが、降伏を宣言してみます。

 ですが僕の考えが正しければ、降伏しても攻撃は終わりませんよ」




1012:〈ボニサグスの図書館〉

――ローランド司祭の場合――


 同志ガルドリスによる犠牲攻撃は、完全に成功した。あの見掛け倒しの砦は、もはやまっとうな防御力を失いつつある。まだ数名の射手が胸壁に残っているが、俺たちが総攻撃すれば、最低限の犠牲で突破できるだろう。


 だがそのとき、胸壁に白旗が上がった。

 おそらくは正規の白旗など用意がなかったのだろう。粗末なシーツを棒に巻きつけただけの、格式も威厳も感じないシロモノだ。


「〈ボニサグスの図書館〉は貴君らに降伏する用意がある!

 貴君らの条件を聞きたい!

 当方は〈図書館〉の安全と蔵書の保全が保証されれば、それ以外の条件は求めぬ!」


 胸壁から聞こえる声は、アウグストか。

 実家のカネとコネを駆使して、陰険極まりない政治工作の末に同志ガルドリスを研究者の座から追い落とした男。


 だから俺は隠れていた場所(昨晩のうちに住民を殺して安全を確保した、粗末な家)から外に出ると、大声で返答した。


「降伏? そのようなものを我らは求めていない!

 貴様ら〈ボニサグスの図書館〉は、大異端ユーリーンによって汚染された!

 それゆえ、そのすべては炎によって浄化されねばならない!

 さあ、立て同志! 大異端とその眷属に、天の裁きを下すときだ!」


 俺の叫びに呼応するように、周囲の家々から同志たちが姿を見せた。

 彼らの手には既に、燃え盛る火矢が構えられている。


 俺は腰の剣を抜き放つと、天にかざした。

 どうか、神も照覧あれ。

 我ら〈同盟〉の戦士たちは、これより聖なる浄化の戦いに挑まん!


 俺は右手の剣を、さっと前方に向ける。


「天誅!」

「天誅!」


 俺の雄叫びに合わせて、同志たちも一斉にときの声をあげる。

 かくして俺達は勝利に向かって全力で走り始めた。




1018:〈ボニサグスの図書館〉

――ユーリーン司祭の場合――


 落ち着いて。冷静に。


 何度も何度も自分にそう呼びかける。

 でも相変わらず私は、目の前で起きていることに現実味を感じられずにいた。


 〈同盟〉の襲撃者による火矢の一斉射撃は、ほとんどは胸壁を越えることすらなかったけれど、何発かが〈図書館〉の中庭に着弾している。そしておそらくは胸壁を越えて火矢を撃てる襲撃者は、火矢による攻撃を行い続けている。〈図書館〉のあちこちで小さな火の手があがり、消火班が完全なパニック状態に陥りながらも、右往左往しながら火を消し止めようとしていた。


 正門は、炎と死が渦巻く修羅場となっていた。


 〈同盟〉の襲撃者たちは鎧下にたっぷりと水を吸わせていたようで、今なお燃え続ける通用門を踏み越えるようにして〈図書館〉内部に侵入してくる。

 これに対しスヴェンツ傭兵たちがうまく防御陣形を組んで攻撃を捌いているが、襲撃者たちは死を畏れていないかのようだった。今も一人、スヴェンツ傭兵が構えた槍に自ら突き進み、その身を貫かれることで、槍を封じることに成功する。死体に槍を奪われたスヴェンツ傭兵は間髪入れずに腰の剣を抜いたが、そこに槍を腰だめにした3人の襲撃者が襲いかかり、勇敢な兵士は無念の表情を浮かべながら己の血溜まりに沈んだ。


 私の隣でパウル1級審問官は矢継ぎ早に指示を叫び、そうでないときは自ら弓矢を持って襲撃者へと撃ち込んでいく。風を切って飛んでいく矢の音が、本能的な恐怖を煽る。そしてその矢が放たれた先で、おそらくはまた1人の命が果てたという事実が、どうしても咀嚼できない。冬のニリアン領では老人や子供が1人死ぬたびに心が引き裂かれるような痛みに悶えたものだが、今は近くで風切り音がするたびに1人が死んでいるのだ。


 ちらりと、思った。

 つまり私は、戦いに向かない人間なのだ。

 なんとも馬鹿馬鹿しいくらいに、当たり前の再認識。

 殺し合いの現場は、私の想像力が及ぶような場所ではなかった。


 やがて正門での戦いは〈同盟〉が勝利し、スヴェンツ傭兵たちは組織的な後退をしていく。けれどまたしてもそこに〈同盟〉の襲撃者たちが襲いかかり、後退する途中で一人、スヴェンツ傭兵が倒れた。地面に引き倒された傭兵の上には大量の襲撃者たちがのしかかり、大量の血しぶきと断末魔の声が上がった後も、彼らは自分たちが倒した兵士を執拗に刺し貫き続けた。

 そうする間も、火矢による攻撃は続いている。バカバカしいことに、〈同盟〉が占領した正門前の中庭に数本の火矢が飛び込み、そのうちの1本は〈同盟〉の兵士を直撃した。不幸な兵士はばったりと地面に倒れ、そのマントを炎が包んでいく。


 血と、絶叫。

 炎と、死。


 切り開かれた臓物が発する生臭い匂い。

 肉や髪が燃える、鼻の曲がるような悪臭。


 灰。泥。汚物。


 いつの間にか、スヴェンツ傭兵の一人がバリスタに取り付いていた。

 よく見ると彼は左手を失っていて、大量出血で顔色は霊峰サンサに積もった雪のように白い。

 なのに彼は渾身の力を振り絞ってバリスタを砦の中(・・・)に180度向き直させると、奇妙なくらいに落ち着いて照準を定め、引き金を引いた。


 機械仕掛けの巨大な弩から放たれた槍のごとく長大な矢は、私達がいる〈図書館〉の本館を攻め落とさんとして戦う〈同盟〉の襲撃者たちを、背後から貫く。本来は城壁や戦車(チャリオット)といった物体(・・)を撃つためのその武器は、3人の襲撃者をまとめて串刺しにし、本館の壁に昆虫の標本のように縫い止めた。


 その壮絶な威力に目を奪われる間もなく、バリスタを撃ったスヴェンツ傭兵は、胸壁の上で息絶えていた。それとも彼はもうずっと前に死んでいて、()に対する執念だけが彼を動かしていたのだろうか。


 血と、絶叫。

 炎と、死。

 灰。泥。汚物。

 饐えた屎尿の匂いと、噴出する便の悪臭。


 これが戦場というものであるのなら、こんな場所のどこに栄光(・・)名誉(・・)があり得るのだろう。

 ここは間違いなく、栄光からも名誉からも最も遠い、無限に続く緋と灰色の場所だ。


 そして私は、この極限の状況下で、死ぬ。

 それを思うと、心の底から嫌悪感がせり上がってきた。


 これまで私は何度も、自分の死を思ってきた。

 サンサの地で病に倒れて、ひっそりと死ぬ。そんな、死。

 ダーヴの街で異端者に刺されて、もがき苦しんで死ぬ。そんな、死。

 帝都において〈同盟〉に辱められながら、苦痛の末に死ぬ。そんな、死。


 けれどこんなこと(・・・・・)は、予想していなかった。

 敵と味方が無秩序に死を積み重ねていくなか、大量の他者の死(・・・・)に紛れてなにげなく(・・・・・)死んでいく、そんな死があるなんてことを、私はほんの僅かなりとも考えなかった。

 冷静に考えれば、それこそが人にとって死の本質であるにも関わらず。


 ああ――そうか。

 これが本当の死であり、そしてそれはこんなにも恐ろしいものなのだ。

 こんなにも、忌まわしいものなのだ。

 こんなにも、嫌悪すべきものなのだ。


 そしてそのとき、遠くで悲痛な叫びが聞こえた。




1032:〈ボニサグスの図書館〉

――パウル1級審問官の場合――


「火矢が! 火矢が、図書館に!」


 そんな悲鳴が、僕らのいる指揮所にまで届いた。その声を聞いたユーリーン司祭は、窓から身を乗り出すようにして本館の図書館を振り仰ぐ。まったく、危険だから窓には近づくなと言っておいたのに。

 でも仕方ない。僕も同じように窓から身を乗り出して、外の様子を確認する。


 〈ボニサグスの図書館〉の中核は、3つの塔から出来ている。それぞれの塔は独立していて、塔によって蔵書の種類が違う。

 そのうちの1本――メルキオールの塔から、小さな黒煙が上がっていた。


 それを見たユーリーン司祭は、反射的に走り始めようとした。

 僕はその手を必死で掴む。


「ユーリーン司祭、どちらに!?」


 なんとも、愚かな問い。答えはわかりきっている。


「メルキオールの塔に。本を救わねばなりません」


 やはり、か。最悪の事態というものは、いつだって最悪のタイミングで起こる。僕は真剣な表情で、彼女を説得しようと試みる。


「ユーリーン司祭。戦況は悪いですが、我々は遅滞戦術に成功しています。

 このままここで粘っていれば、救援が来るまで耐えられるかもしれない。

 どうか――本ではなく、あなたの命を優先してもらえませんか?」


 この言葉は、半分ほど――いや7割がた嘘だが、3割は本当だ。

 このまま上手くこの指揮所を守っていれば、少なくとも帝都の衛兵が駆けつけてくる可能性は高い。既に外では「図書館が火事だ」という叫びが飛び交っているし、「衛兵を呼べ」「火を消せ」という住人たちの怒号も聞こえる。最初に突入してきた最も勇敢な衛兵ないし有志たちはまず間違いなく名誉の死を遂げるだろうが、それでもその死はけして無駄にはならない。


 でもユーリーン司祭が図書館の消火、ないし蔵書の救出に向かうとなれば、彼女はほぼ疑いなく、死ぬ。3割の生存の目すら、残らない。


 なのに案の定、ユーリーン司祭は断固として首を横に振った。


「人間の社会は、既に3000年を越える年月に耐えています。

 この年月の中で磨かれ、鍛えられ、ときに淘汰されてきたもの――すなわち()と、せいぜい50年程度しか活動できない人間個人の才能と、どちらを優先すべきかなど考えるまでもないでしょう?

 人間社会が懸命に維持してきた知を守るのが、我らボニサグス派の務め。あらゆる犠牲を払ってでもこの至宝を守り抜くと、私たちは神に誓っています。私達のような社会不適合者が人間社会の幸福に対して寄与できるのは、それだけなのですから」


 ああ、まったく。

 どうしてこの人は、こうもまた骨の髄までボニサグス派なのか。

 さっきチラリと見えたけれど、〈図書館〉の最高責任者たるアウグスト大司祭は、襲撃者たちの目を盗んでこの場から脱出しようとして、切り刻まれていたというのに。


 けれど、こうなっては仕方ない。

 それにこの場にいたって、7割くらいで死ぬのは事実なのだ。

 ならば成すべきことを成して死ぬことを選ぶのが、まったくの間違いだとは批判できない――どうせ人はいつか死ぬのだから。


「わかりました。では、僕もお供しましょう。

 なあに、防御の指揮はエルジェント君がやってくれます。

 それより襲撃者は本館のあちこちに浸透を始めていますから、僕が護衛しなくてはそもそもメルキオールの塔までたどり着けないかもしれない」


 僕の提案を聞いて、ユーリーン司祭は驚いたような表情を浮かべた。


「それは大変に有り難いご提案ですが――しかし、良いのですか?

 私についてくれば、貴方もほぼ疑いなく死にます。

 女一人を守って死ぬのなら、貴方としてはライザンドラ見習いを守って死ぬべきなのでは?」


 おっと、これは痛い。めっちゃ痛い指摘だ。

 だから僕はいつものように、軽い冗談で返す。


「ご安心ください。僕は博愛主義者なんです。

 それに今の貴女は大変に魅力的ですよ、レディ・ユーリーン」




1035:〈メルキオールの塔〉

――ユーリーン司祭の場合――


 メルキオールの塔を目指して本館内部を走った私たちは、途中で何人かの襲撃者に出くわしたが、そのすべてをパウル1級審問官が一瞬で切り伏せた。ここまで鮮やかな技を見ると、死がどうこう思う以前に、「強い」以外の感想が出ない。


 けれどメルキオールの塔にたどり着いたとき、塔の内部には既に火が回り始めていた。図書館職員たちは消火と蔵書の避難にあたっていたようだが、そこを〈同盟〉の連中が襲ったようで、全員が死体になって床に伏している。


 でも、だからこそ躊躇している暇はない。

 それに、遠くから「大異端ユーリーンがいたぞ!」という叫びと、大勢の足音が聞こえる。私はちらりとパウル1級審問官に視線を送り、彼は最高の微笑みを浮かべると私の頬に軽い接吻をよこした。この浮気性の、伊達男め! と思ったけれど、私だって人間だ。パウル1級審問官のような人物に褒められて、嬉しくないといえば嘘になる。


 とはいえ、ままごと(・・・・)じみた遊びはここまで。


 私はメルキオールの塔へと向かう階段を駆け上がり、私の背後でパウル1級審問官は狭い階段に陣取るようにして仁王立ちになった。


 さようなら、パウル1級審問官。

 願わくば私が動き続けられるその間だけ、どうかそこを守ってください。


 メルキオールの塔の2階に上がると、天井にはうっすらと白煙が漂っていた。危険な兆候だ。

 〈図書館〉の塔は3階以上がいずれも完全に吹き抜け構造になっていて(昔は5階建てくらいで各フロアに床があったらしいのだが、蔵書の重みで床が抜け塔が崩壊するという大惨事が起こった後、再建された塔は今のような吹き抜け構造となったという)、火の手が回ると巨大な煙突になってしまう。


 このままでは、3階以上に置かれた禁帯出の稀覯本が全滅する。


 私は近くに貯めてあった防火用水を、頭からかぶる。防火用水からは吐き気がするほど苔の匂いがしたが、今はそんなことを言っていられない。私は3階に続く階段を這いずるようにして上がった。


 3階に上がると、巨大な吹き抜けの空間には煙が充満していた。壁面にしつらえられた螺旋階段を使って5階に上がろうものなら、煙で窒息して死ぬだろう。だが上のフロアに行けば行くほど、貴重な本が収蔵されている。

 ああもう、どうか次の司書長は今回の惨事を教訓として、稀覯本ほど下の階に置くようにシステムを改めてほしい。もっとも、そうなると盗難のリスクが高まるというのも理解はできるのだが……。


 ともあれ、少しでも本を救わねばならない。


 私はまずは3階にある中でも重要度が高い本を本棚からかき集め、窓からどんどん外に投げ捨てていった。この落下によって本は激しく痛むだろうし、こうしたところで外にいる〈同盟〉の馬鹿どもが本を焼くかもしれないし、消火活動が上手くいかずに〈図書館〉全体が燃えればこうやって避難させた本も全部燃えるだろう――でも、たとえ1冊の、そのうち1ページであったとしても、生き残る可能性は高まる。


 3階に収蔵されている重要な本を避難させ終わったところで、私は4階へと登る螺旋階段に向かう。階段は既に熱くなりはじめていて、じきに崩落すると考えていい。


 つまり、これを登れば、私はまず間違いなく、死ぬ。


 私はちょっとだけ笑うと、階段を登り始めた。

 確かに、この先にあるのは、死だけかもしれない。

 でも私にとってみれば、この先にあるのは()なのだ。


 4階相当のフロアは、どうやら火元になっているようだ。あちこちで本棚が燃えていて、次々に本が灰になっている。美しい装飾がなされた表紙が焼け落ち、何百年もかけて議論し続けられてきた知の断片が灰になっていく。

 心が千切れそうになる痛みに耐えながら、火元に近い本から救出作業を続行する。表紙が燃えているだけなら、表紙を引きちぎって、本文だけを窓から投げる。熱で装丁用の糊がやられた本が、落下する途中でバラバラになって飛び散っていくのが見えたけれど、嘆いてはいられない。表紙に金属製のフレームがついた本を取ったときは手のひらに酷い火傷をしたけれど、それも今更の話だ。もう既に呼吸はひどく苦しくなっていて、なぜ自分が動いていられるのか、自分でもわからない。逆に言えば、もう自分がどうなるかなんて、問題ではない。本を守る。人が積み重ねてきた、知を守る。それが、神に誓った私の使命。


 一歩、また一歩と、よろめくようにして回廊を進む。僧衣の端に何度か火がついて、そのたびに叩いて消しているけれど、じきにこれも追いつかなくなる。頭から水をかぶったというのに、僧衣はもうカラカラに乾燥している。髪の毛が焦げ、煙と熱で視界が歪む。でもこの2つ先の本棚には、〈エーミールの書〉がある。貴重な貴重な、原本からの直接の写本だ。その次の本棚には〈アベルの戯曲集〉があって、その隣には〈ヘイン方程式の構造解析〉が置いてある。だから前に。もう一歩。本を掴んで。抱いて。もう一歩。窓は3歩先。外に。本を。本を、外に。まだまだ、救うべき本はある。階下から「大異端ユーリーン、貴様に天誅を下す!」という雄叫びが聞こえた。ああ、パウル1級審問官は、突破されたのか。馬鹿な人。私みたいな女に拘るんじゃなくて、ライザンドラさんを守って、彼女と添い遂げる道をもっと真面目に探せばよかったのに。でも、きっともう、大丈夫。ちらりと下を見たけれど、3階部分にも火が回っている。ローランド司祭のような根性なしが、この炎の階段を上がってこれるはずがない。私を辱めるために、わざわざ人を犯すよう調教した猟犬を連れてくるような、そんな卑怯者には無理だ。だからもう一歩。その次の棚には、〈グレイス8世の統治における人頭税改革の推移について〉がある、はず。批判も多い研究だし、私もこれはちょっとどうかなと思う記述が多い本だけど、先行研究が存在しない、まさに獣道のような分野を研究して、曲がりなりにも一冊の本にした、そういう意味では名著だ。それからその先にあるのは、確か、ええと……そう、確か、ええと、そうだ、〈ヘンルーインにおける奇病とその伝播〉。あれは奇病でもなんでもなくて、一種の集団ヒステリーだったんだけど、当時は伝染病と考えられていた挙句、こんな間違いだらけの本まで書かれた。だからこそ、その記録は、残さなきゃいけない。そう。それから、その、次、その次は、そう、ああ、これは大問題の一冊、〈時間の変容〉。何度も何度も異端指定と解除を繰り返した、審問会派とボニサグス派にとっては、因縁の、一冊。結局、たしか、ヴェルディティウス派の、ええと、そう、アーマン司祭の研究によって、これがただの戯曲だってことがわかって、それで、誰も、注目しなく、なった。まさか、本を分解、したら、劇場のオーナーからの、発注書が、裏表紙に、挟まっていた、とか、ひどい、オチだ。それから、それか、ら、ああ、そうか、4階はこれで、終わり――あとは、5階。5階には、よりに、よって、〈アリア書〉の、偽典の、写しが、ある……ヴェルディティウス派に、紛れ込んだ、異端者、が、巧妙に間違った(・・・・)写本を、作って、〈アリア書〉研究を、根っこから、ひっくり返しかけた、とても、重要な、本。あれだけは、なんとしても、救出、しない、と、また、同じことを、されかね、ない。ああ、でも、なのに、もう、足が、動か、ない。息が、でき、ない。たった、20段ほどの、階段、が、登れ、ない。動け、ユーリーン、這って、でも、進め、ユーリーン、さあ、あと、8段、あと、5段、あと、2段。ああ、なのに、なのにもう、手も、動か、ない。もう、少し。もう、少し、なのに。床が、焼け、てる。身体が、熱い。


 ここが、限界、なのか。


 ここで、私は、死ぬん、だな。


 でも、あと――あと、ちょっと、だけ。

 ちょっと、だけ――先に。


 そうして私は、最後の足掻きを、しようとして。

 なぜか、そこに落ちていた手鏡を、見つけた。


 そういえば……塔の中で、男女が、不適切な行為に励む事案が、会議で、話されていた、ような。

 だとすれば、これは、まさに、証拠品、か。


 私は、その手鏡を、抱き寄せるように、手に取る。

 焼けただれた、指。皮膚が剥がれ落ちた、手の甲。

 でも、鏡に映った女の顔は、自分でも驚くくらい、綺麗に笑っていた。




 ああ。




 ああ――神様。感謝、します。

 私は、最期に、ちゃんと、笑えた、みたいです。




 だから。


 だから――




 天に、栄光を、



 地に、繁栄を。




 人の魂に、平穏、あれ



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