アルール歴2178年 9月22日(+38日)
――マダム・ローズの場合――
「はい、ではこれで契約は成立ということで。
なにとぞ、よろしくお願いします」
テーブルの向こうから差し出された賭博王ナオキの手を、わたくしはやんわりと握る。
わたくしたちは今の今まで、このダーヴの街の、夜の行方を決める会議を続けていた。そしてこの握手が交わされた瞬間、その結論は落ち着くべきところに落ち着いた。
ここは、わたくしが持つ娼館の中でも最高の格とセキュリティを誇る〈虹の蝶〉亭の、貴賓室。王族の接待にすら使われたことがあるこの部屋に集まった面々もさすがに緊張の色を隠せない様子だったけれど、〈賭博王〉と〈マダム・ローズ〉の握手が成立した途端、誰からともなく深い安堵の溜め息を漏らした。
今の握手に至る話が始まったのは、3ヶ月ほど前だ。
ナオキから届いた一枚の招待状。そして彼が主催するパーティの席で、彼からこっそり打ち明けられた“計画”。それが、すべての始まりだった。
パーティの席で、ナオキはわたくしに、自分が持つ賭博事業をすべて譲りたい、と申し出た。
もちろん、無償ではない。賭博関係の売上は、ナオキとわたくしで折半という条件だ。店舗の権利(賭場開帳の権利書を含む)はすべてわたくしに譲るということだったので、これはつまりナオキが――あの賭博王が――夜の世界から足を洗う決意を固めたのだと、その提案を聞いたわたくしは判断した。
そこからの交渉は、難航した。
主にわたくしの誤解と、ナオキの秘密主義のせいで。
わたくしとしては、若隠居を決意した夜の顔役の一人から、奪える限りのものを奪うつもりでいた。
彼がライザンドラを身請けしてからこのかた、ライザンドラは日に日に見違えるように美しくなっているという話は、ドロシーから伝え聞いている。ナオキはよほどライザンドラをお気に召し、ライザンドラもまたこの底が知れぬ〈賭博王〉に惚れ込んだのだろう――そう、私は判断したのだ。
だから彼には、ライザンドラと必要十分に贅沢な毎日を送れる程度の資産さえ残れば、それで十分なはずだ。
それに、そもそも売上を5:5というのは論外な条件でもあった。
この街におけるナオキの賭博王国(そう呼ぶべきだろう)は、規模も収益も影響力も大きいが、それにふさわしいランニングコストがかかる。純益の5割ならともかく、売上の5割では、わたくしが得るのは全体の2割程度でしかない。
加えて、わたくしは賭博に疎い。彼から引き継いた事業を安定して維持発展させるには、信頼できる顧問を雇い、特別の経営および運営チームを作る必要がある。そのイニシャルコストを考えただけで、ちょっと気が遠くなるくらいにお金がかかる。
結果、最初の一ヶ月は、交渉は何度も決裂しかけた。
今もわたくしの背後には〈剣豪〉ガラムが立ち、ナオキの背後には〈赤砂の〉ザリナが立っているのは、その頃の名残だ。
次の一ヶ月は、互いに相手のどこに歩み寄れるかを探る一ヶ月だった。
わたくしはナオキが新しい事業を始めようとしている形跡をキャッチし、それならば要求額を引き下げる必要があるということを理解した。
一方でナオキはわたくしが彼の事業をただ右から左に引き継ぐのではなく、むしろ発展させたいという野心を持っていることに気づくようになった。
最後の一ヶ月は、落とし所の探り合いだった。
わたくしはナオキに、わたくしが世話する娘たちに体を売らせるのではなく、技芸を売らせることでより長続きする(彼はサステイナブルという言葉を使った)商売をしたいと思っていることを打ち明けた。
ナオキの賭場におけるディーラーは、従来の賭博と異なり、単純作業を繰り返すだけで成り立つようになっている。わたくしはそのディーラーの席に、娘たちをあてがいたかった。これが実現すれば、誰も見たことがない、華やかで上品、かつ最高の高揚感が得られる娯楽が作れるはずなのだ。
ナオキは私の描く事業計画に感銘を受けたようで、ようやく「自分も新しい事業を始めようと思っている」と打ち明けてくれた。「非常に困難な事業なので、そちらに完全に専念したいのだ」、と。
かくしてようやく対等のビジネスパートナーとして互いを認めあったわたくしたちは、それでも1%単位でのしのぎを削り合いながらも、なんとか今日のこの日にこぎつけたというわけだ。
握手が終わったところで、わたくしはちらりと背後に視線をやった。わたくしが最も信頼する妓女であるアラミアが、私の視線を受け、おっとりと頷く。
ほとんど間をおかず、彼女の差配で部屋には最高の料理と酒が運び込まれた。私の背後でガラムは露骨に喉を鳴らし、ザリナは低く口笛を吹く――なにもそれは、彼らが下品な用心棒だからではない。彼らをして驚く程度には、贅を尽くしたしつらえだ、というだけのこと。
運び込まれたものを見て、さすがのナオキも笑顔になった。
「よく調べていらっしゃる」というのは、彼としては最高の賛辞だろう。この日のためにわたくしは、ナオキの食と酒の好みを調べ尽くさせたのだから。
なのでわたくしは、「とどめの一撃」とでも言うべきワゴンを運び込ませる。それを見たナオキは、目を丸くした。
「まいったな――降参ですよ、マダム。
まさか俺は、自分がこんなに食い物に執着する人間だとは思わなかった」
彼はそう言うと、両手をちょっぴり上げてみせた。「降参」のポーズだ。
わたくしが用意したのは、この街では下の下とされる料理。川魚を串にさして、直火で炙った料理だ。
普通なら泥臭くて吐き気を催すこの料理だが、街から望む霊峰サンサの中腹あたりまで登り、そこで釣った魚をその場で頭を落として内臓を抜き、近くの雪と一緒に持ち帰って、高級品である塩を強めにまぶして串焼きにすると、教会関係者すら貪り食ってしまうような極上のごちそうになる。
焼き加減や串の打ち方が難しいらしいが、そこは虹の蝶亭が誇るこの街でも最高クラスの料理人が腕を振るう。
「やられたな……イワナの塩焼きとはね。
これでニホンシュかビールがあったら、俺は死ぬかもな」
ナオキがなにやらよくわからないことを呟き、ククッと小さく笑った。ニホンシュは謎だが、ビールはわかる。なるほど、ビールは虹の蝶亭では絶対にふるまえない下卑た酒だが、その最上の部分だけを掬い取ることができれば、この串焼きと完璧なマリアージュをするかもしれない。
……それにしても、最上のビール、とは。
水より価値の低い酒であるビールを磨き上げたならば、もしかしたら語るに値する酒が生まれる? それはいくらなんでも馬鹿げた発想だ。でもナオキがここでビールの名を出すということは、彼はそういうビールを知っているのだろうか――いや、彼は知っている。知っていなくては、今の言葉は出ない。
思わず沈思黙考していたわたくしに、ナオキは「おっと失礼」と声をかけてきた。そのおどけた声につられて、私も迂闊な物思いを手放す。いまは、この場を最高の宴席にすることに集中しなくては。
けれどそんな思いを、ナオキは一撃で粉砕してみせた。
「ここまでされては仕方ない。
俺も、改めて手の内をマダムに見せますよ。
いや、もともとこの場でご紹介するつもりだったんですがね。ま、これが俺の切り札だって理解をしてもらっていいですよ」
ナオキの、切り札? それはいったい?
「ザリナ。手間かけてすまんが、ライザンドラを呼んできてくれ」
ライザンドラ? まさか、あのリジーが――わたくしがそう言っては何だが、「消耗が最も激しい」「それに見合った収入がある」ことを受け入れた夜の娘だけが所属している〈緋色の煉獄〉亭にいた娘が、この、得体のしれぬ怪物じみた男の、切り札?
そんな戸惑いは、ザリナにエスコートされてライザンドラが部屋に入ってきた途端、吹き飛んだ。
まるで男のような短い髪。下女か、さもなくば修道女を思わせる色合いの服。破廉恥にも、足首を見せるような短さでカットされたスカート。
なのにライザンドラは、太陽のように光り輝いていた。
この街における最高の妓女であるアラミアが一瞬で霞むほど、彼女は場の全員の視線を奪っていた。口惜しいことに、当のアラミア本人ですら、ライザンドラにうっとりとした視線を向けている。
それでもわたくしは、ここで負けを認めるわけにはいかない。
それでは、彼と対等のビジネスパートナーではいられなくなる。
だからわたくしは、そっと、ナオキに聞いた。
「あなたは――何を始めるおつもりなのです?」
ナオキは不敵な笑みを浮かべると、こう言った。
その言葉に、私はもう、絶句するしかなかった。
「慈善事業です。
これって、馬鹿みたいに儲かるんですよ?」




