何もなかったみたい
錯覚、嘘、勘違い。
間違い、なにもない、意味が無い。
私でも分からない感情を、セレスタイトさまはそう言った。
アンディさんのそれを指して、独占欲だとも。
私のそれは、もしかすると彼の言うとおりだったのかもしれない。だって自分でもわからない感情なんてそんなもの、不確かすぎて笑ってしまう。勘違いと言われたら否定もできない。
でもアンディさんの感情は、本当に独占欲なのかしら。
人は、確かに何事にもそういう感情があるものだと思う。私にだって、独占欲のようなものがあるのかもしれない。本人も気づかないところに、それがにじみ出ているかもしれない。
しかし『それだけ』ということはないと、そう思いたい。
思いたいのに、セレスタイトさまの強い声が、頭の中でそれを否定していった。
結局あまり眠れないまま、朝を迎える。
お姉さまのことを案じていた、あの時と同じくらい最低な気分だった。
以前だったら、そのままベッドで数日寝込んでいたかもしれないくらいに心が沈んで、何もしたくないという欲求が怠惰を囁いてくる。でも私は、ゆっくりと身を起こした。
心配させたくないのでもう少し目が覚めるまで部屋で待ち、軽く身支度してから一階へと降りていく。後で顔も洗っておこう。それと濃い目のお茶を飲んで、頭も起こさないと。
そんなことを考えながらリビングに入り、そのままダイニングへ。
キッチンの奥に、見慣れてしまった青い人がいた。
「おはよう、ヴィオレッタ」
食事の準備をしているセレスタイトさまが、ちらりと私を見て笑う。
彼は私の返事は待たず、そのまま作業に戻ってしまった。
腕がせわしなく動いている様子から、卵を焼いているのだろうか。野菜を炒めたもの、という可能性は、朝ということもあって低いように思う。火を通した野菜を使ったらサラダもあるけれど、あれはどちらかというと茹でたり蒸したりしていたはず。
考えていると、ふわり、と卵の焼けるいい匂いがしてくる。
やっぱり卵を焼いているで正解だったようだ。
そこだけ見れば本当にもう、昨日や一昨日と変わらない、いつも通りの朝。
「……おはよう、ございます」
聞こえないほど小さい声で、挨拶を返す。でもそれは昨日のことを引きずっていたせいではなくて、昨日のあれがなかったみたいに『いつも通り』な様子に驚いていただけ。
セレスタイトさまは今日も、いつもと変わらない。
昨日、あんな会話をしたとは思えないくらい。
……私は、こんなに悩んでいるのに。
全部夢だったのではないか、とすら思えてしまう。
あのことは、私が見た悪夢だったんじゃないかって。
だけど一瞬の、あの『いつも通りの顔』に重なった昨日の嘲笑が、ぞくりと背筋を撫で上げてくる。あれは夢ではないし、気のせいでも錯覚でも、幻でも何でもないことだと。
人にはいろんな色や形をした『顔』がある。
私から見えるお姉さまの『顔』と、アンディさんから見える『顔』で違うように、それは現実を欺くように、時として別人の如く様変わりするものであると。
だから、セレスタイトさまの『あの顔』も、また彼の一部であるはず。
なのに私は、どうしてこんなに恐ろしく思うのだろう。
……恐ろしい、のだろうか。
これは、本当に『恐ろしい』と『怯える』感情なのだろうか。
「ヴィオレッタ、ちょっといいかい? 手伝ってほしいことがあるんだけど」
「っ、はい!」
不意に声をかけられ、身体が跳ねるようにこわばる。いけない、ぼーっとしていたら、心配をかけてしまう。そして昨日みたいに、私にもわからない私の感情を、目の前に並べて理路整然と語られてしまう。あれは――あれはもう、いい。あんなのは、もういらない。
私も、いつも通りにならなきゃ。
戻らなきゃ。
エプロンを引っ張りだして、身に付ける。
少し指先が、いつもより動きにくいような気がした。
うまく紐を結べなくて、結局ぐちゃっとしたままキッチンへ向かうことになる。セレスタイトさまは、それを見てしょうがないなと笑うように、紐を結び直してくれた。
「えっと、何をすればよいのですか?」
「いつも通りサラダの準備と、スープを任せたいんだけど、いいかい?」
「わかりました」
いつも通り。
本当に、いつも通り。
私はセレスタイトさまのいうことをしっかり聞いて、言いつけ通りに作業をする。不慣れな手付きも少しは見えるものになってきて、いずれ一食分は一人で作れるようになれるだろう。
そんな日を夢見ながら、指を切らないように、やけどをしないように、気をつけて美味しい朝食づくりに勤しむ。それが、『いつも』の私――昨日ここにいたヴィオレッタ。
笑顔を浮かべる。
時々、わたわたと周囲を見回して慌てる。
少しだけ、難しい作業を手伝わせてもらう。
だんだんいつもの私が戻ってきた。昨日からの延長線にいる、いつも通りのヴィオレッタが戻ってきた。顔は少し痛い、表情を少し作りすぎたかもしれない。
でもこれくらいは平気、だって私は貴族だったのだから。
お姉さまの方がよっぽど、こういうことを繰り返していたと思えば……。
脳裏に、お姉さまの姿を思い浮かべる。段々と薄れてきた記憶を、必死に元通りにする。そういうことをしなくなったと思っていたのに、また戻ってきてしまった。
凛々しくも美しい、お姉さまの姿を真似るように。
私は、微笑んだ。
お姉さま、あなたはどこにいるのでしょう。お姉さま、私はあなたが、ある意味で道連れにしたこの人を、どう思えばいいのかわからなくなってしまいました。
セレスタイトさまが教えてくれるお姉さまは、私が知っているままのお姉さま。あなたがそばに置いた人なら、と私は無条件に安堵し、信用し、甘えていたのかもしれません。
だけどお姉さま、私はわからなくなってきました。
自分の感情、自分の気持ち。
この人の考えている、いろんなこと。
わかりません、セレスタイトさまのこと。
あんなことがあったのに、今の彼は何もなかったみたい。
私にはそれにあわせることしかできないのです。もしこれがお姉さまなら、ここでどういう風に立ち振る舞ったのでしょう。……愚問、かもしれませんね。
本当は私、わかっているのかもしれません。認めたくないだけなのかもしれません。この戸惑いのような感情の名前を、きっと私はもうわかっているのです。
これはきっと、独占欲。
それによく似た、とても醜い感情なのです。




