秘密の感情
「おま、お前、お前……」
振り返った先にいたアンディさんは、愛読書らしき本を床にごとりと落とした。
それを拾うこともせず、私を見ている――睨みつけている。
だがハっとしたような顔をしたかと思うと、距離を一気に詰めて腕を掴み、乱暴に私の身体を前後に揺さぶってきた。あ、頭が、頭ががくんがくんして気持ちが、気分が……。
「だっ、誰にも言っていないな!」
「い、いいえ今ふと言ってしまっただけで、まだ誰にも」
「ならいい! 特にあいつだ、あの鬼――魔術師セレスタイト! あいつだけは絶対に、ぜーったいに言うなよ! いいか、あいつにだけは知られてはいけないことだ、わかるな!」
「は、はい」
そこまでセレスタイトさまは恐れる存在だろうか、と考えてしまうくらい、アンディさんの様子は鬼気迫るものがあった。知られたらその場で自害するか、セレスタイトさまをどうこうしてしまうのでは、と思ってしまうくらい。
ただ、セレスタイトさまがアンディさんに見せる普段の様子から思うと、彼のこの反応と考え方も当然かもしれない。こればっかりはセレスタイトさまの自業自得かしら。
でも鬼と言われるほど、あの方は非道ではないと思うけれど……。
どうセレスタイトさまについてフォローするか、そもそもどうやって落ち着いてもらうか考えている私を他所に、アンディさんは一人で延々としゃべり続けている。
私に、あるいは他者に気づかれることが想定外だったらしい。
「どこだ、どこで気づかれた……? ルナへの贈り物か? でも全部つっかえされたし、いくつか受け取ってもらったものは、たぶん身につけてすらもらえていない。ここにも持ち込んでいなかったはずだし、ルナの態度も変わっていない。僕はいつも通りだった、どうしてだ」
アンディさんは私の腕を掴んだまま、うわ言のようなことを口走り続ける。
もしも『いつも通り』というのが私が見てきたあの調子なら、たぶんアンディさんが考える以上に察している人は多いように思う。当然、セレスタイトさまも感づいているはず。
だけどそれを言ったら余計こじれるので、そっと口を閉ざした。
しばらくブツブツ言っていると落ち着いてきたのか、アンディさんが距離を取る。
ほとんど無意識に詰め寄っていたらしく、どこか気まずそうな顔をした。
「すまない、我を忘れた」
「い、いえ……私も考えたことをそのまま口に出してしまって、申し訳ありませんでした」
この口は本当に軽い。
ついつい考えがそのまま声になってしまう。
自分のことならいいけれど、今のように人に関することは口走らないよう、気をつけていたつもりだったのに。以前からセレスタイトさまが私を見て時々にやにやしていたのは、もしかして気づかないところでいろいろ言ってしまっていたのかしら。
だとしたら、恥ずかしくて顔から火が出そう。
アンディさんもこんな気持ちになったのかしら。
だったらあの我を忘れた言動も当然だと、今は我がことのように感じられる。
「……いつ、気づいた」
「え?」
「僕の、その……彼女への、えっと」
好き、とか、恋愛感情、とかは直接口にできないのか、もごもごとしている。
いつと言われても、ついさっき、としか言えない。妙に大事にしているだとか、そういう違和感のようなものなら以前から少なからずあった、かもしれないけれど、些細なものだ。
だから本当についさっき、まるでパズルをぱちりとはめたように。
彼は彼女のことが好きなのかもしれない。
と、これという証拠も根拠も脈略なく、そう思った。
しいていうなら、アンディさんの普段の様子が、私にその答えを与えたというべきか。でも私だからこんなに時間がかかっただけで、たぶん普通の人ならもっと早く気づいたと思う。
……もちろん、それを本人には言えないけれど。
「そう、か」
私の答えに納得できたかどうかはわからないけれど、アンディさんは小さくつぶやき。
「このことは秘密にしていた、つもりだった」
「秘密?」
「姉の庇護の中でゆるゆる育った貴様にはピンと来ないだろうが、本来、貴族として生まれたものには地位や特権と釣り合うほどの自由すらない。……特に、結婚に関しては家の意向が再優先されて、当事者の感情などはもっとも無視される事柄だろう」
言いながら、アンディさんは床を睨みつける。
それは床というよりもどこかの誰か、おそらく私にはわからない、名前を見たことも聞いたこともない特定の誰かに向けるかのような、生々しく強い視線のように見えた。
息を吸い込み、吐き出し。
再び、アンディさんの視線が私の方に向かう。
「だからルナを慕う感情も、本来は許されざることだ」
「許されざる、こと……」
「もし貴様の姉が何事もなく今も王子の婚約者であり続けていたら、その身が背負う『未来の王妃の妹』身分に釣り合う相手――貴族と結婚することを要求されただろうな」
「それ、って」
「セレスタイトとの接点程度ならありえただろうが、結婚など不可能だっただろう」
ノア家は魔術師の名家であり、そういう意味では別格。
だけど貴族ではない。
なので、普通なら私とセレスタイトさまには、縁談すら立たないのだと彼は言う。
私やお姉さまが特別な血などない一介の貴族で、更にはノア家の当主などからの厚い援助があれば可能性こそあるけれど、基本的には身分の違いから話すらないだろう、と。
こんなことにならないかぎり、というところになぜか苦しくなる。
こうなりたかったわけではない、でもこうなったから私は彼と出逢うことができた。
矛盾のような状況は、私の理解を超えている。
ただ、私が思っていた以上に貴族という身分は難しいもので、私の考えは彼らの世界では通用しないのだろうことが、この少しの会話でもよくわかった。
お姉さまは、そんな理論しか通じない世界にいらっしゃった。いずれは、私もそこに飛び込むことになっていたはず。なのに私はどうして、そこから離されていたのだろう。
お姉さまの考えることが、やっぱり私にはわからない。
「だけどそれをひっくり返すことが、できる……だから」
「……アンディさん?」
息を吐くように何かをつぶやいたアンディさんは、何かを決したように顔を上げる。
それを見た瞬間、私の域は止まった。
「さて、こうなったからには協力してもらおうか、妹どの」
にやりと笑う、アンディさんの顔。
それは、今すぐここから逃げたくなるくらい、凶悪なものだった。




