エルテの嫡男
「エルテの嫡男? ……あぁ、泣き虫アンディ坊やか」
壁をはさみ、窓の向こう側とこちら側。
二人の男女が、ひそり、と人目を避けるように言葉をかわす。男は赤毛、女はほとんど白に近い灰色――この場合は銀と呼称していいだろう色の頭髪をしていた。
もっとも、女の側はそれよりも、左右で色の違う瞳の方が目立つだろうが。
女はついさっき、赤毛の男に『エルテ家の嫡男を知っているか』と問いかけられた。男にとって幸いにも、女はエルテ家という大貴族も、そこの跡取り息子もよく知っていた。
流石に知ってたか、という言葉に、女は当然のように答える。
「当たり前だろう、クゥリ。私は『エメレ・エルテ』だぞ。分家の末端、親不孝にも縁談相手の急所を蹴り上げ勘当寸前といえど、本家の跡取りの名前くらい知っている」
そうでなくとも大貴族の当主、その嫡男くらいは知っておけ。
と、女――エメレは続け。
「妹が縁談相手の筆頭候補だったな。あれは聖人や聖女の多くが持つ、癒しの類に向いた性質の魔力を多量に保有する。しかもおとなしく、余計なことを知らないように育てた一品だ」
「お前、自分の妹を家畜みたいに言うなよ」
「そうは言うが、流石に『結婚した男女の元には神の使いが現れて、二人によく似た子どもを届けてくれる』なんていう子供だましを、十五にもなって信じているお花畑は擁護できない」
「おいおいおい……」
「私だって師の奥様の妊娠出産をきっかけに、子どもを授かるという『行為』にまつわる本当のことを知って死ぬかと思った。……安心しろ、そんな教育方針はうちくらいだろうさ」
「お前もそうだったのかよ」
赤毛の男、クゥリは軽く頭を抱えた。
城仕えであるからには、それなりに貴族というものと接点がある。壁を挟んだ向こう側にいる同僚にして同期だって貴族だし、クゥリの師も貴族だ。
城の中を仕事で移動しているその最中にも、着飾った令嬢や令息とすれ違う。
彼らにとってクゥリのような存在はいないに等しいのである意味気楽ではあるが、こちらとしては失礼がないように気を使わなければならない。にも関わらず、その相手に関してあらぬ情報を手にしてしまったら、今までのように流れるような躱し方ができないかもしれない。
つまり、よくも悪くも、あらゆる意味で『特別』にしたくないのだ。
クゥリにとって、貴族とは基本高嶺の向こう側。
よほどのことがない限りは、深入りしたくないというのが本音だった。今まさに、その『よほどのこと』が起きて、ズブズブと深入りの沼へ沈んでいる我が身のことは考えたくない。
「分家は純粋培養の苗床――間違えた、花嫁を出荷して、違う、嫁がせて信用を得なければある意味で庶民なんぞよりよほど容易く潰されてしまう。一族内のことだからな、恐ろしい」
「うわぁ……」
「ははは、存分に引け。そのくせ男どもには『作り方』を仕込むのだから、本当にクソみたいなものだよ上流階級なんぞ。……あぁ、重ねて言うが私の周りだけだからな、これは」
「そうしてくれ」
元が普通の家系、貴族ではなかった家系だとそういうものだとエメレは言う。
彼らには他の貴族のような歴史が乏しい場合が多く、爵位が高くとも立ち位置が悪い場合も少なくない。エルテ家は近年ようやく、爵位に釣り合う立ち位置を手に入れ、キープしつづけているのだが、例えばヴェルテリス家などは追放された姉一人で成り立っていた貴族だ。
その姉がいなくなり、病弱で引きこもっていた妹は貴族の地位を失う。
これはなにも、かの一族に限ったことではない。エルテ家でさえ、身の振り方を間違えれば同じようなことになりうる。血の重要さでは更に上にいたヴェルテリス家さえ、あれなのだ。
だからこそ、エルテ家は今回の一件では、あくまでの中立を保っている。
いや、中立を保つ、ということを先日の一族会議で決定した――はずだったが。
「それで、あの泣き虫坊やがどうしたんだ?」
「いや、セレスタイトのとこにこっそり行ってたら、どうも『監視役』がそいつだったみたいで見つかってな。これからひとまず『出頭』する予定になってる……んだけど」
「骨は拾ってやろう。海に撒けばよいか?」
「いやいやいや、勝手に殺すな」
「大丈夫だ。魔術師の中には拷問好きのクソもいるが、エルテ家はそうじゃない。死ぬ時は比較的穏やかな眠りをくださるだろう。まぁ、なんといっても十六のガキだ、グロはないさ」
「だから殺すなって!」
もう行く、と立ち上がったクゥリは去っていく。
残されたエメレは、ふむ、と軽くうなり、視線をゆらゆらとさせた。
考え事をする時、彼女の視線は見えない何かを追いかけるように揺れる。その癖に最初に気づいたのはさっきまでそこにいた友人だった。その背中はもう、この位置からは見えない。
さて、問題になったな、とエメレは唸る。
クゥリと違って表立ってセレスタイトの側につかないことで、逆に向こうサイドでは手に入らないだろう類の情報を手に入れる。さらに、エルテの分家という地位も少し利用する。
それが一族から『中立厳守』を命ぜられたエメレの、唯一許された作戦だった。
だが向こう側に本家の嫡男――ああは言ったが嫡男と認められる程度には優秀で、なおかつジジババ勢にかわいがられているアンディがいる、となると話は別だ。
流石に嫡男がこちらの敵に回ったとなると、厄介であると言わざるをえない。
厄介、というより圧倒的不利である。
流石に貴族であるがゆえ、親戚づきあいというものが脳裏を過るのだ。
お花畑だなんだと言いつつ、城で働くエメレを慕う妹はかわいいし、妹がアンディのことを悪く思っていないことも知っている。……まぁ、悪く思う概念が乏しいだけともいうが。
しかし困った。
魔術の名門一族は、それぞれに伝わる独特な魔術の組み方をする。組み方が違えば、使った後に残される痕跡、残滓もまた変化する。そこから術者がどの家の者か探すこともできた。
つまり、エメレの行動にはさらなる慎重さが求められるわけだ。
ある程度は師事した相手で差異や変化が起きるとはいえ、エメレの魔術が残すであろう残滓を見れば、宮廷魔術師であれば誰もがエルテ家の関係者であると看破するだろう。
意識すれば偽装はできるが、とエメレは唸る。
「そういうのは、基本的にセレスタイトの得意分野だしな……」
できるできない以前に、小細工の類はどうにも苦手だった。
ああいうのにも、やはりセンスや才能が必要である。
仮にうまくやれたとしても、エメレと同じエルテ家の人間なら気づいてしまえる程度の隠蔽しかできないだろう。何より今までやったことがないため、ぶっつけ本番になってしまう。
嫡男が出てきている段階で、それはあまりに危険な賭けと言える。
彼女と違いほぼ独学のセレスタイトは『真似』が容易で、だからこそこういう時こそ必要な人材だ。しかしこれは彼のために必要な隠蔽工作なのだから、まさに頭が痛い話である。
かくなる上は、ただひとつ。
「よし、跡取りが中立厳守できていないぞって本家にチクるか」
持つべきものは本家で発言力のある、ルール違反に厳しいご老体である。更にそのご老体が揃いも揃って一族の繁栄を第一目標ととし、不要な行為を禁じているならまさに最高。
エメレは気合を入れるように大きく伸びをして、その場を去った。




