天狗の剣
念阿弥慈恩は室町時代の人で、その秘剣を蔵馬山の天狗に習い剣法『念流』の祖となった。時の足利将軍義満は、この慈音をして「日本一の兵法者」と評したというが、これは後の吉岡憲法の逸話と混同されたものであろうか。一部学者の説によれば、「虚仮の一念岩をも通す」という諺は、修行時代の慈恩が木剣で岩を貫いたという故事を伝えたものであるという。
中津川大観『武芸秘史』時源出版(一九八七年)
「ほう、天狗の剣法ですか?」
じわじわと蝉が鳴いている。
風は涼しく、濡れ縁に寝そべっている男の頬をなぜていた。その彫りの深い浅黒い顔には、うっすら髭が生えているが、野蛮な風もなく、なんともいい男ぶりであった。
直垂の襟元をはたはたとくつろげながら、男はあくびをしてみせた。
「兵庫様、そうのんびり構えておられては……」と、むしろ額に汗しているのは『試合』のことを告げに来た使者の方である。将軍からの命を告げに来た使者への応対としては、信じられぬほど鷹揚な態度である。
「検分役は私めが努めますれば、兵庫殿、何卒お受けくだされい」
男、即ち中条兵庫頭長秀は、むくりと体を起こした。
「御上意とあらば、否も応もございませぬ」と、その時だけ神妙な顔をして告げた。
「ただ、一つだけお願いがございます」
「なにか?」
「月の明るい夜に」と言うと兵庫は髭面に子供っぽい笑みを浮かべた。
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念阿弥慈恩という男が、将軍足利義満の前で剣法を披露したのは、ひと月ほど前のことである。
兵庫の聞いた所では、猿楽者の世阿弥が引き合わせたとも、叡山の坊主の仲介とも言うが、定かなことは分からない。慈恩は親の敵を討つため剣法を身につけたというのだが、何とその師は鞍馬山の天狗であるという。
「まるで、九郎判官だなあ」と呟いた。
京の都の北、鞍馬山には天狗が住んでおり、その昔源平の戦があった頃には、鬼一法眼という行者が天狗の兵法秘伝を伝えていたという。その鬼一法眼を師とし、平家を打ち破ったのが九郎判官、即ち源義経であり、つまり義経の八面六臂の活躍というのは、天狗の兵法によるものだ。
――全ては伝説である。
兵法者の嘯く秘技の由来とは、得てしてその様なものだが、念阿弥慈恩の技量は、その怪しい経歴に相応しいものだった。
見聞した者の話によれば、慈恩の剣法は一見軽業さながらの太刀使いだったが、相手の太刀は掠りもせず、必ず三合で勝った。
それは正しく天狗の魔法の様で、およそ人の剣法ではなかった。その為か、将軍はその技量をして思わず『扶桑第一』との評を与えてしまったのだという。
この評をして面白くなかったのは、兵庫よりもその弟子たちであった。将軍へ不満を漏らし、我こそはその男を討ち果たして見せん、と息巻いた。
この中条兵庫もまた剣法・兵法で知られた男であった。
その身につけた剣槍の技は、中条家が鎌倉幕府の御家人であった頃から累々編んできたもので、五代兵庫の天才を持って遂に一流をなしたのである。諸芸に『流』というものが現れ、天才が見出した技を、世人へと伝えるということが始まりつつある時代である。この中条兵庫頭長秀の開いた刀槍の術は、『中条流』と称し、後世大いに栄えることとなる。
だが、弟子たちの憤慨など、本当は兵庫にとっては詮のない話であった。
戦場において見出した父祖の技を、己は乞われたから教えているまでである。まるで猿楽か何かのように、芸者として名が高まることを殆ど構っていなかった。
いざその技を生かせるか否かは、心平らかであるか否かに過ぎぬのだから。
しかし風聞は将軍義満の耳にも入り、なにしおう中条兵庫と、その兵法者、どちらの技が優れていようか。そういう話になった。
無論将軍家とて、野の兵法者の為に名家中条の顔を潰すつもりもない。ない、が一旦第一と評したその言を翻すわけにもいかなかった。
そこで検分役を遣わして、両名を秘密裏に立ち会わせようということになったのである。
真剣まかりならず、木剣を用いるべし、命奪わぬこと、勝敗に意見なきこと……などが取り決められた。
兵庫が勝てばそれで良し、万一負けるようなことがあれば、慈恩はその場で死なねばならぬだろう。
非情なれど、それだけのことである。
そんな気の進まぬ試合を命じられたとき「月の明るい夜に」と兵庫は言ったのである。
百年以上も前の伝説を携えて、この花の御所の時代にころりと現れた大天狗。
念阿弥慈音とは、そういう男ではないかと、兵庫は思った。
「さて、己は天狗怪鳥を斬れるかな?」
そう呟くと、蝉しぐれがやかましくなったようだった。
/
その夜は、蒼茫として澄んでいた。
兵庫は、月明かりに濡れた蓮台野の草むらに立った。
炯々と月は冴え、神代を照らした蒼古の色味を帯びていた。
月の下に立つ相手は、総髪を後ろに束ねた男である。
相手は、白装束に手甲脚絆の行者姿。歳の頃は兵庫と同じ位であろうか。黒く日に焼けた顔に、鳶を思わせる異相があった。眼が炯々と輝いており、薄い唇に笑みを浮かべていた。
「中条兵庫殿とお手合わせ頂けるとは……」ほんの微かに頭を下げた。
身分からすれば、本来とてもあり得ぬ試合である。
慈恩の手には一尺余の木の小太刀が下げられていた。
数間離れ検分役が一名。またぐるりの草むらに数名の侍たちが控えていた。
――る、る、るる。
樫の枝が夜風に踊っている。その朽葉がつるりと夜に融けてゆく。
おう、夜が吠えておる。
兵庫はそんなことを思っている。
異様な風が北から吹き寄せる。
兵庫と慈恩とは、腰を深く落とし互いに円を描くように、わずかずつ草むらの中を動いていた。
兵庫が、下段にとった三尺五寸の木剣を、風の教えるままに八相に取り上げた。
半歩だけ、相手との間合いが縮む。
ひぅ、とか細く悲鳴をあげて、その夜風が断ち切れた。
小太刀の間合いは自然身を摺り合わすような近間になる。慈恩の一尺余の木剣の間合いは、刹那一丈にも伸びていた。
神速の腕の伸びが成せる業である。
乾――木剣が合わさった。
こめかみを狙った木剣を、兵庫は弾いた。そのままに下段から逆袈裟に切り上げたとき、既に相手は間合いの外へと逃れていた。
兵庫の木剣は、慈恩の装束の裾一寸ばかりを切っていた。
「中条兵庫の神妙剣は、木剣にも刃を忍ばせますか」
対手の男は、口の端を引いて笑みを浮かべた。
触れれば斬られそうな笑みであった。
一筋、その額から流れる汗を認めることができたのは、炯々たる月のためであった。
さりとて男の眼は光り刃の色を帯びている。身の軽やかなることは、鳶のごとく、まるで――。
「本当に鞍馬の天狗かよ」
そう呟いた。
兵庫の顔にカラリとした笑みが零れた。月光がさっとその頬を撫ぜた。
兵庫は思案している。
鳥でも追うような心持ちなのである。
足利将軍家に仕えたこの天才剣士は、既にその技円熟の極みに達している。
兵庫の技は、神や仏の助けを借りぬ。
戦場の中で生まれた技から、選び取られた術であり、兵庫はその使い方を、実に戦場の風に聴くべしと思っていた。
慮するは“風”である。
人の心も、地の勢も、天の運行も、また風が教えてくれるものであり、それを聞く心を平らかにせんとすることが神妙といえば神妙の奥義である。
だから兵庫は己の兵法を『平法』だと言った。
だが、この相手の動きは、まるで地上の理の外にあるかのごとくである。これも風だ。
自然に吹く風ではない。
野沸き立つ、そう、風の神の起こす風なのだ。
星辰の間を吹き流れる外なる風なのだ。
そして、いま兵庫が相手にしている男は、そういう剣風を持っていた。
慈恩は、笑みを消すと小太刀の切っ先を天に向けた。
己の体ごと一刀と成すかのように見えた。
その切っ先の真上に青々とした月が浮いている。
なるほど、戦場の剣法ではなかった。
兵庫の足下にその切っ先の影が差している。
月影によって相手は間合いを測っているのであった。
自然兵庫は腰を落とし、土の硬さを確かめるようにゆっくりと歩を進めてゆく。
直垂の裾から夜露の滴が、ほろほろと零れていた。
草の臭いを嗅ぎ、雲の動きを感じる。
兵庫は、だらりと両腕を下げた。右手に下げた木剣の先に、露が走ってゆく。
その白玉は月の光であった。
その精髄が、そろり、と切っ先を離れた。
風を切る音さえなく、魔影月下に飛翔して慈恩の小太刀が振り下ろされていた。
紫電の片手打ちである。
体を開きつつ兵庫の下段の太刀は、弧月の軌跡を描いた。
夢想の一閃は、伸び来る相手の腕を砕き、燕返しに頭蓋を割るだろう。
剣閃交差の一刹那、兵庫は異様な気配を感じた。切っ先を返したとき、慈恩の姿はそこになかった。
月影が射した。
怪鳥のごとく、慈恩は跳んでいた。兵庫の太刀が薙いだのは、その虚像であった。
慈恩は身の丈の三倍を悠々と跳ね、空を切った兵庫の太刀を踏みつけた。
検分役は、その時目を剥いた。
人外の技であった。
しかし、慈恩の小太刀が揮われることはなかった。
だらりと、その腕が下がる。
それでも小太刀を離さない。
「い、いかに?」
思わず声を上げたのは検分役である。
兵庫は踏み落とされた木剣から既に手を離しており、腰の刺刀に軽く手をかけていた。
「平らかならざるか。この中条兵庫がよ……」
また呟いた。
そしてふぅと息を吐いた。
慈恩の腕は、下段からの一閃で既に砕かれていたのである。
しかし兵庫は、その恐るべきを知った。
男の跳躍がではない。兵庫の恐れたのは、男の影であった。
怪鳥の影。
あれは天狗の影ではないか。判官義経の八艘跳びは世に知られたが、この兵法者のそれは果たして……。
「参り申した」
カラリ、と慈恩は小太刀を放した。
――ひゅる、るル、るルるるるるるル。
また妖風が吹いた。
兵庫は、検分役に顔を向けると、静かに言った。
「いや、お伝えくだされ。念阿弥慈恩は、確かに将軍家お見立て通りの兵法者でございました、と」
顔を上げ、兵庫は、密かにその胸元を探った。
最後に振るわれた小太刀の切っ先の線上、その部分が鳶の爪に裂かれたごとく、うっすら血を流していたのである。
風は北から吹いてくる。
暗魔の山から吹いてくるのである。
北の空に、一羽大きな怪鳥の姿を見た気がした。
慈恩は、やはり笑っていた。
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この念阿弥慈音と中条兵庫頭長秀の立ち会いは、今日、史実であったとは確定し難い。
後世の伝書の中に、慈恩の弟子として中条兵庫頭の名が見えるが、実の所はどうだったのであろう。
この立ち会いの後、人成らざる天狗の剣を兵庫も学んだのであろうか。
今日となってはそれはわからない。
少なくとも、兵庫はそれと争うことをしようとはしなかった。
兵庫は、己の道を飽くまでも平法たらんとした為であろうか。