人ト非なるもの
誰かの呼ぶ声がして、それが悦子の声だと気付き、すぐに駆け付けたセルゼルノだったが、悦子は道路の上に横たわっていた。
「悦子!」
すぐに駆け寄り抱き寄せる。悦子の呼吸が止まっていない事を確認し、セルゼルノは安堵の溜め息をついた。
「悦子に何をした!」
「そんなにこの子が大事なの?」
「いいから答えろ!!」
セルゼルノが声を張り上げると人ト非は身をすくめ、あからさまに怯む。
「……僕はただ、この子の心をもらおうとしてただけさ」
「何言ってんだ。そんなもんねぇよ! あったとしても、お前ら何かに渡さねぇ!!」
「怒ってるのかい? 自分以外のために」
「それが何だ」
「酷い、酷いよ酷過ぎる。今まで他人のことなんて、気にも留めなかった癖に。誰かを守ろうとしたことなんて、今まで無い癖に。その子のことは守るんだね?
そんなの差別だよ、ひいきだよ。僕とその子で何が違うっていうんだよ。
僕だって、僕だって……心さえ手に入れれば、人間になれるのに。
そうでなくても、僕らにだって、感情くらいあるのに……なのに、いつだってお前は――――」
人ト非は、名前も知らない少女の顔を悲痛に歪めるが、その瞳から、涙が零れることはない。
「黙れ!! お前は俺の言う通りにしてりゃいいんだよ!!」
セルゼルノは、人ト非の、誰かの右腕を掴もうとする。
しかし人ト非は素早く身を翻してかわし、路地裏の向こうへと駆け出す。
セルゼルノは悦子をそっと壁にもたれさせ、路地裏のゴミやガラクタを踏んだり蹴り飛ばしながらも追いかける。
路地裏を抜け、尚も追い駆け続けるが、人ト非の足は速く、距離は遠ざかるばかりだ。
そんな時、人ト非が唐突に進路を変え、公園に入って行ったのを見計らい、セルゼルノは速度を無にして立ち止り、素早くしゃがみ込み、地面に手をついた。
すると公園の周りの地面が消失し、一瞬にして即席の堀が出来上がる。その穴には底がなく、落ちれば永久にそのままとなる。セルゼルノはそれをなんなく飛び越え出入りすることができるが、人間の体を手にし、力をほとんど失った人ト非には難しいだろう。
人ト非はそれを悟ったのか、公園の真ん中で、呆然と立ち尽くす。
セルゼルノは堀を飛び越えて、その背中に問い掛ける。
「何でお前は、お前らは、人間になりたがる? それも人の体を奪ってまでして……」
人ト非はゆっくりと振り向いて、瞬きを忘れた目で、俯きながらぼそぼそと呟く。
「……僕らには、愛の籠った名前がない。居ていいと思える場所もない。
僕らが愛する人も、僕らを愛する人も、きっといない。僕らには何も無い」
かと思えば、唐突に顔を上げる。
「でも人間は違う。あいつらは、皆持ってる!同じ奴だっていない! 代わりなんかいない!」
強く、はっきりと放たれたその言葉には、人ト非の、全てが詰まっていた。
「僕は、……それが欲しいんだ。だから、だから――――人間になる!!」
「なれるわけねぇだろ!!」
誰かの声で喚き立てる人ト非に、負けず劣らぬ声を張り上げる。しかし、物哀しさが滲んでいた。
「俺だって人間じゃない!! 俺だって人間になりたい!! でもダメなんだよ、成れやしないんだよ。人から何かを奪っても、体をいくつ奪っても!! 人間には、……成れやしないんだよ」
分身には自らの意志が反映される。知っていたはずだった。わかっていたはずだった。
年月を経て、形すら保てなくなった今ですら揺るがない、〝人間になりたい〟という願い。それは他ならぬ、セルゼルノの自信の、なによりも強い想いだった。
セルゼルノは息を荒げ、それを人ト非に容赦なくぶつける。
「僕は人間だ!! ……だって僕には、人間の感情がある。
腕だってちゃんとある。足だってちゃんと付いてるし、その足で歩いてる!
だから僕は、人間だ!!」
「違う!!」
セルゼルノは悲しみに顔を歪ませながらも、再び人ト非を睨みつける。
「その腕も脚も腹も首も頭も全部!! お前の物じゃない!! 人から奪った物だ!!」
「じゃあ僕は何なんだよ!!」
人ト非は、怒りにまかせて持っていた鉄パイプでセルゼルノの顔面に横ナギに殴りつける。
「人の部品を繋げただけの、ただの塊だよ」
しかしセルゼルノは顔色一つ変えず、右手でそっと触れただけで、鉄パイプを消してしまう。
そして左手で殴りつけるような勢いで、人ト非の顔面を鷲掴みにする。
骨が砕けるような嫌な音がして、奇妙な感触が左手に広がる。
しばしの沈黙の後、閉じていた、人ト非の黒く血走った目が見開き、指と指の隙間から、セルゼルノを睨みつける。
「どうしたんだよ。僕を回収するんだろ? 前みたいなことが、起こらないように」
手のひらに違和感を覚えたセルゼルノは、人ト非を突き放す。
人ト非の鼻からぼたぼたと墨汁のような血が流れ出る。
セルゼルノの手のひらは真っ黒に染まっていた。
「何のことだ?」
先程、あの黒い血が一瞬だけ熱を帯びた気がしたが、気のせいだろうか。
「忘れたとは言わせないよ。僕は今でも覚えてる。あの時のことを❘
あの日もお前は、神王に銀河を作るように命じられて、分身を作って楽をしようとしたよね。お前が適当な形だけ作って、後は全部、僕らにやらせてさ。
そしてお前は、僕らを回収するのを面倒臭がって、ほったらかしにした。
だからあの銀河は消えた。
当然神王にバレて怒られて、それで、やけになったお前は全部僕らのせいにして、僕らに八つ当たりして、結局、回収したのは数体だけだったよね。残りは全部、ブラックホールにぶち込んだんだから。お前のせいで、あの時の分身たちはきっと、今でも苦しんでる。
確かに銀河を消したのは僕らだ、でも、僕らを作ったのも、ほったらかしたのも、全部、お前なのに……」
その声は悲しげで、哀愁が漂っていた。
「だから何だって言うんだよ?」
「さぁはやく!! 僕を回収しろよ!! そんでまた、必要な時だけ利用して、いつまでもこき使えばいいだろ? 僕らは死なないんだからさぁ、どうせ僕らに、終わりなんて無いんだから!!」
その叫びは、まるで生きているかのように強い熱を帯びていた。
セルゼルノは目を瞑ると、人ト非に手をかざし、覇気のない、冷たい声で呟く。
「消えろ」
――――セルゼルノが静かに目を開くと、人ト非はもう、どこにもいなくなっていた。
セルゼルノは、人ト非の、確かな質量をその身に受ける。
少女にしては、やけに重すぎる気がした。