つきまとわれる
――パタパタパタ
――パタパタパタ
どこかで奇妙な音がしている。
目を開けると、室内に薄明かりが差し込んでいた。
――パタパタパタ
――パタパタパタ
何のことはない。
風にはためくカーテンが音の正体だった。
高原の夜は寒いから、睡眠中は窓を閉めておくべきなのだけど、みんな疲れていたせいか忘れて寝てしまったのだろう。まぁ、気づいてしまった以上、このままにしておくわけにもいかないな。
仕方なく布団から身を起こす。ぐうぐうと、高いびきを立てる連中にイラッとしつつも、踏まないよう慎重に窓へと忍び寄る。
「せえのっ――」
ぐっと力を込めて引っ張ったけれど、窓はまるでビクともしなかった。もともと立て付けが悪かったけど、寒さで窓枠が歪んだのかもしれない。
「……!?」
ふと、視線を感じた。
窓の向こう――闇の中で、誰かがこちらを覗き込んでいる気がしたのだ。もっともここは三階なので、そんなことはありえないのだけど。
急速に血の気が引き、全身に鳥肌が立つ。
窓を閉めるのは諦めよう。どうせ自分の力じゃ無理だし、次に起きた誰かが何とかするだろう。
カーテンを手早くタッセルで括ると、寒さ対策に全員の布団をかけ直し、僕は再び自分の寝床へと潜り込んだ。
そして再び目を瞑る――
――キィィィィ
不意に、蝶番の軋む不快な音がした。
誰かトイレにでも行っていたのだろうか? いや、ついさっきみんな布団にいるのを確認していたんだったな。
――ギッ、ギッ、ギッ
続いて板の軋む音。
部屋の上がり口付近を歩く際、こんな音がしたはずだ。
スッと襖が動く気配。
どうやら、誰かは室内に入ってきたらしい。
――みしみし、みしみし
明らかに室内、畳の上を歩いている。
十中八九、見回りの指導員だろう。なら、窓を閉めていってくれると助かるんだけど……。
声をかけてみようか?
いや……でも、なぁ……。
万が一、ということもある。ここは一つ慎重に様子を伺うべきだろう。
まずは侵入者が何者かを見極めるのだ。
何者かが窓の方に近付いた。薄光にシルエットが浮き上がる。
小柄な人物のようだけど……まさか。
丁度その時、開いた窓から強い風が吹き込んだ。
ぶわりと長い髪が巻き上がる。
ああ、なんてことだ。
こんな髪の持ち主なんて、合宿中に一人しか見ていない。
――そう。
そこには、あの彼女が立っていたのだ。
ここまで僕を追って来たってのか?
僕はやっぱり憑りつかれてしまったのか?
迫る恐怖に心臓がバクバクと音を立てる。全身が冷や汗でびっしょりだ。
落ち着け、落ち着け。
痛いくらいに跳ねる心臓を、両手でぎゅっと抑えつける。
とにかく、今はこの場を乗り切ろう。
幸い室内は暗く、誰が誰だか分かりやしない。
下手に行動するよりも、寝入ったふりをして、ひたすらじっと耐えるべきだろう。まさか明かりを点けはしないだろうし、その時は大声で叫べばいいのだ。なにしろ不幸中の幸いで、今は周りにみんながいる。大声を上げるだけで、再び退散させることができるのだ。
そうして、僕はじっと待った。
五分、十分、三十分――あるいは一時間かもしれない。
いつの間にか、彼女の気配はすっかり消えていた。そっと目を開けるが部屋は真っ暗で、シルエットなんてどこにも見当たらない。
助かった。
ふうっと溜息をつき、冷静さを取り戻す。
ひょっとして、自分は今までずっと寝ていたのではないか。
班長よろしく合理的に説明をつけると、あれは悪夢だったんだろう。その証拠に部屋が真っ暗なのは、窓がちゃんと閉まっていてカーテンがかかっているからだ。
ほっとすると同時に、急にトイレに行きたくなる。
起き上がり、手探りで襖を開ける。たちまち非常灯の無機質な明かりが差し込んできた。板の間を軋ませつつ、トイレへと向かう。
けれど、トイレ脇の洗面所で僕の足は止まった。
今……鏡に何かが写りこんだような……。
「――――むぐっ!?」
突然、背後から手が伸びてきて、僕に猿ぐつわを噛ませた。
くそっ、声が出せない!
鏡に写っているのは、長い髪を振り乱す少女の姿――
彼女だ!
「急ぐのよ。抵抗しないで」
耳元で彼女が囁く。
慌てて振りほどこうとするものの、どうしたわけかまるで力が入らない。
結局、僕はろくな抵抗もできぬまま、羽交い締めにされドアの外へと連れ出されてしまう。
ああ、なんてことだ。
これじゃもう、大声で助けを呼ぶこともできないじゃないか。自分の判断ミスがなんとも恨めしい。
それにしても……彼女は一体何者なんだ。頭のおかしな人間なのか、それとも幽霊や幻覚の類なのか。案外、僕がまだ夢の中にいるという可能性も――
ジリリリリリリリリリリリリリ
リリリリリリリリリリリリリリ
ベルが大音量で鳴り響く。
ひょっとして、目覚まし時計が鳴り出したのか。
なら、さっさと夢から覚めてくれ!
けれど、そんな都合のいいことは起こらなかった。
僕は羽交い絞めにされたまま、無理矢理廊下を歩かされる。ありがたいことに、猿ぐつわは布で縛っただけのものだったせいか、動いているうちにだんだんと解けてきた。もっとも、こんなやかましい状況で、今更大声を上げる意味はないけれど。
と、急に彼女が立ち止まって、
「思った以上に早いのね。いよいよ始まるわ」
「始まるって……一体何が?」
だが、それはすぐに明らかになる。
階段の方から何かが焦げるような臭いが漂ってきたのだ。次いで建物のどこかから、悲鳴や物音が聞こえてきた。
「火事だぁ!」
「起きろ!」
そう。さっきから鳴っていたのは火災報知器のベルだったのだ。
次々と部屋の扉が開き、少年少女達が廊下に姿を現す。部屋と廊下を行ったり来たりしているのは、みんなまだ半信半疑なのだろうか。
そこへ、ばたばたと廊下を走って指導員のおじさんが駆けつける。
「みんな今すぐ屋上へ移動しなさい!」
なんでも一階は既に火の海で、二階も煙が充満しているらしい。すぐに、ここ三階にも煙が回ってくるだろう。いくつか非常階段はあるが、多くが煙突のような有様で、一階まで辿り着けるかが疑わしい。今のところ中央階段は大丈夫なので、ひとまずここから屋上へ避難し、はしご車なりの到着を待とうというわけだ。
みんな事態の深刻さを悟るや大急ぎで室内へ戻り、すぐにぞろぞろと連れ立って中央階段へと向かった。押さない、走らない、喋らない。落ち着いて行動できているようだ。
一方、彼女ときたらいまだに僕を羽交い絞めにしたままなのだが。
「早く僕らも逃げようよ!」
だが彼女は耳を貸さず、むしろ中央階段から離れていこうとする。
「どこへ行くんだよ! このままじゃ、二人とも死んじゃうぞ!」
「心配しなくても大丈夫。ちゃんと、安全な所へ向かっているわ」
「嘘だ!」
「本当よ。ここから一番遠くの非常階段だけは安全に使えるの。ちゃんと確認してあるから、心配しないで」
「だったら、みんなにも教えないと――」
「必要ないわ」
怒りで頭がカッとして、僕は彼女を振り払う。
「そんなのおかしいだろ!」
そうだ。彼女が言っていることは何もかもおかしい。
「安全な非常階段があるって? いつ確認したんだ? それに、非常ベルが鳴る前から急いでいると言ってたけど、それってこうなることを事前に知っていたからじゃないのか?」
「……時間が無いの。あとで説明するから」
「嫌だ!」
大声を出して、震えを誤魔化す。
僕はこの時、彼女が放火犯である可能性を疑っていたのだ。
「納得がいかない限り、僕はここから一歩も動かないぞ!」
すると、彼女は眉間にしわを寄せ大きく溜息をついた。
「なら、仕方ないわね――」
そして、ナップザックの中から何かを取り出し、僕の眼前へと突き付ける。