ESPエンジン(5)
茉莉香達母娘は、『保健衛生センター』の廊下を、脳神経科へと向かっていた。
二人は目的の脳神経科に着くと、窓口で入口の外来受付けで渡された書類を差し出した。
「えーと、橘茉莉香さんと、お母様の橘由梨香さんですね。お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
窓口の看護師に誘われるままに、茉莉香と母は、廊下から中に入った。
「まずは血圧の測定と、採血をしますね。お母様も、お願いします」
そう言われて、母は驚いた。
「わ、私も、採血するんですか?」
「遺伝に関わるものかも知れませんので。ちょっと痛いですけど、お願いします」
看護師の女性は、さも申し訳なさそうに、そう言った。
「あたしは、採血なんて平気だもーん。針で刺されるのなんて、ちょっとのことでしょ」
娘に言われて、母の方も、
「お母さんだって平気よ。大人なんですから、当然」
と、売り言葉に買い言葉となってしまった。
「じゃぁ、親指中にして握って下さい。挿しますよ。大丈夫ですか? ……はい、終わりました。テープ、貼りますね。しばらく、指で強く押さえておいて下さい」
茉莉香は、サンプル瓶に吹き出す自分の血液を見ると、少し気持ち悪くなった。しかし、母親にああ言った手前、平気なふりをしていた。
それは、母の方も同じだったようである。彼女も、少し蒼い顔をしていた。
「お疲れ様でした。次は、身体の断層撮影をしますので、こちらの部屋へお越しください」
看護師に付き添われて、茉莉香は奥の部屋へ通された。
「ここで、着替えて下さい」
と言って差し出されたのは、青い手術着のような着物だった。
「MRIは、強い磁力線が出ますので、金属類や精密機械類は外して下さい。下着もブラは外して下さい。えーっと、パンツは履いていていいですよ」
「わ、分かりました」
茉莉香は、薄い布を受け取ると、部屋の隅でワンピースを脱ぎ始めた。
「あ、これはどうしましょう?」
と茉莉香は、自分の首に巻いてある『メタルバンド』を指さすと、そう訊いた。
すると、看護師は、
「ああ。それは、そのまま付けておいて下さい。お母様は、こちらにお座り下さいね」
そう言われて、由梨香は部屋の隅の長椅子に腰掛けた。採血が良くなかったのか、未だ蒼ざめた顔をしている。
しばらくすると、茉莉香の着替えが終わった。
「では、こちらの台に仰向けに横になって下さい」
と言われたのは、大きな機械の入口に設置されているベッドだった。
「この機械で、身体の断層写真を撮ります。怖くないですよ」
と、看護師に言われて、茉莉香は、
「分かりました」
と、一言だけ応えると、ベッドに横になった。
「はい、じゃぁ、始めますね。気持ちが悪くなったりしたら、教えて下さい」
すると、ベッドは、大きな機械の中に吸い込まれるように移動していった。機械の中は薄暗く、かすかに<ブン>という、何かが震えるような音が鳴っていた。
「大丈夫ですか? 気持ち悪くありませんか?」
内部のスピーカーを通して、そんな問いかけがあった。
「大丈夫です」
と茉莉香は答えた。
しばらく機械の中で横になっていると、<ブン>という音が大きくなってきた。
特に気持ち悪くはなかったが、彼女は何かしら不気味なものを感じていた。
「はい、終わりました」
という声がスピーカーから聞こえると、ベッドがスライドして機械の外に吐き出された。
「何か、変なところとか、気持ち悪さとかは、ありませんか?」
看護師に訊かれて、茉莉香は、
「大丈夫です」
と返事をした。
(さっきから、「大丈夫ですか」ばかり聞かれているなぁ。いったい何回聞かれたんだろう。ちょっと、うんざり)
茉莉香は、心中でそう思った。
「茉莉香、大丈夫? どこも、何ともない?」
由梨香が駆け寄って来ると、同じことを訊いてきた。
「大丈夫だよ。お母さんは、心配症なんだから」
「だって……、あんな大きな機械の中に入れられたのよ。怖くはなかった?」
「ただの医療用の機械だよ。変な物じゃないんだから」
と、娘は、ちょっと鬱陶しそうに、母親に答えた。
「お疲れ様でした。では、次の検査に入る前に、この薬を飲んで下さい」
そう言われて、看護師から渡されたのは、紙コップに入った液体だった。見かけは無色透明だが、少しだけレモンのような香りがする。
茉莉香は、「何だろう」と思いながらも、紙コップの液体を飲み込んだ。味の方は、レモンとは程遠く、変な薬っぽい味だった。
「では、こちらにどうぞ」
女性の看護師は、更に別の部屋に彼女達を連れて行った。さっきよりも、明るい部屋だった。壁際には、ベッドと、それを囲むようによく分からない機械やディスプレイが設置されていた。それらからは、様々に色分けされたコードが、四方八方に生え出ている。
その様子を観て、茉莉香は更にうんざりしていた。だが、検査なのだから仕方がない。
彼女は、そのベッドの一角に座ると、身体を横にしようとした。
「あ、ちょっと待ってて下さいね。端子を繋ぎますから」
と言った看護師は、細いケーブルの束のようなものを機械の影から引っ張りだすと、茉莉香の後ろに回って、首のメタルバンドに端子を接続した。
(あ、『これ』って、そんな風に使うのか。全然知らなかった。何かの測定装置なのかな?)
普段、茉莉香は、ネックバンドの価値など全く気にしていなかった。だが、こうやって医療機器と繋がれると、不思議なことに、何だか意識をしてしまう。
「はい、もういいですよ。ベッドに横になって、楽にしてください」
看護師に言われて茉莉香が横になると、ベッドの脇で、女性は色々と機械を操作し始めた。
しばらく待っていると、茉莉香の頭のところへ、円筒形の機械が移動してきた。さっきのよりも小さな機械だったが、視界を塞がれた為か、彼女は、少し不安になった。
「大丈夫ですよ。脳神経に少し刺激などを加えるだけです。もし、気持ちが悪くなったりしたら、教えて下さいね」
看護師は、茉莉香にそう一言言い残すと、再び機械の操作に戻った。
もう少し時間が経つと、看護師は茉莉香の方に、こう語りかけてきた。
「大丈夫ですか?」
「は、はい」
そうは言われたものの、茉莉香には何にも感じない。
「では、少し機械の強度を上げますね。変な感じがしたら、教えて下さいね」
そう言われた途端、茉莉香の眼の奥に、<チカチカ>とした感覚があった。あの『ジャンプ酔い』の時のような感じだ。でも、気持ち悪くはない。
「えっと、何か、目の奥が<チカチカ>します。でも、気持ち悪くはないです」
少女の返事を聞いて、看護師は機器のボタンを操作した。
「では、ちょっと刺激を変えてみますね。何か変な事があったら、教えて下さいね」
すると、彼女の目の奥の<チカチカ>が、激しくなった。
「あのう……、<チカチカ>が激しくなったような感じです」
気分は悪くはならなかったが、普段は感じられない感覚に、茉莉香はそう訴えた。
「気持ち悪くはありませんか?」
看護師が重ねて訊いた。
「気持ち悪いほどじゃぁありませんけど……」
茉莉香がそう応えると、看護師はタブレット型の端末に何かを記録したようだった。そして、記録が終わったのだろう、また別の操作に取り掛かったようだった。
「では、これは、どう感じます?」
看護師は、もう「大丈夫」とは訊いてこなかった。
「あ、えーっと。……何にも感じなくなりました」
「そうですか」
茉莉香の返事を聞いて、看護師は大きく頷くと、またコンソールを操作していた。
「これはどうでしょう?」
再び、質問があった。
「何にも感じません」
「分かりました。もうしばらく、そうしていて下さいね」
返事を聞いた看護師は、端末に何かしらを記録すると、機械の操作に戻った。
五分ほどの間、そうしていると、
「はい、終わりましたよ。お疲れ様でした」
と、声がかかった。それと同時に、頭の周りの機械がスライドして、茉莉香の視界が開けた。目の前には、照明器具の付いた白い天井が見えている。検査をされる前と寸分違わない天井を見て、彼女は何故かホッとしていた。
茉莉香は、上半身を起こして、一旦ベッドに腰掛けた。すぐに看護師がやってきて、首の後ろに接続されていたケーブルを取り外しにかかる。
「大丈夫でしたか。気持ち悪いところはありませんか?」
作業をしながらも、看護師は茉莉香に、そう問いかけていた。
「えーと……、一旦、眼の奥が<チカチカ>した感じがしましたが、今は何ともありません」
少女がそう応えると、看護師は、
「そうですか……。お疲れ様でした。もう、お洋服に着替えて下さって、よろしいですよ」
と、丁寧に検査が終わったらしい事を告げた。
その様子を脇で見ていた母の由梨香は、
「これで、もう終わりなのですか?」
と、不安げに尋ねた。すると、
「あ、あーと……、すいません。あと一つだけ、眼底内の検査が残っているんです。申し訳有りませんが、こちらへおいで下さい」
と、応えが返ってきた。
茉莉香の着替えを待って通された部屋は、こじんまりとして殺風景であった。中には、医師と思しき男性が二人。彼らは、彼女達母娘には分からない、何かの機械を操作しているところだった。
そんな彼らは、茉莉香達に気がつくと、
「あ、ああ、橘さんですね。お待ちしてました。こちらにどうぞ」
と手招きをして、部屋の奥に設えてあるテーブルへ、茉莉香達を招いた。
そこには、ゴーグルのような物が置いてあって、やはり幾本ものケーブルでテーブル中央の装置に繋がっていた。
医師と思われる年配の男性は、少女をテーブルの椅子に座らせると、ゴーグルを手渡した。そして、それをかけるように言った。
彼女は、言われるままにゴーグルをかけた。それはゴーグルの形はしていたものの、目の前のレンズらしき部分は真っ黒で、何も見えない。
「それでは、このネックバンドにもケーブルを繋ぎますね。ちょっとの間、じっとしてて下さい」
さっきと同じようなことを言われると、彼女のうなじに、押さえつけるような感触があった。だが、それも一時のことで、すぐに線の接続は終わったようだ。
「準備が出来ましたよ。茉莉香さん、……でしたよね。これから、ゴーグルに幾つかの画像が映ります。それが何かを教えて下さい。準備は、よろしいですか?」
今更逆らっても仕方がないので、茉莉香は「はい」とだけ短く答えた。
検査と言われた事をしている間、ゴーグルには星形とか三角形とかの絵が、とっかえひっかえ映っていた。彼女は、それを見て、「どんな絵が映っているか」を答えさせられていた。
さすがにうんざりするほど絵を見せられていると、いいかげん疲れてきた。
そんな頃に、検査は終了した。
「はい、終わりましたよぉ。もう、ゴーグルを外しても構いませんから」
年配の医師にそう言われて、茉莉香は重たくゴテゴテしたゴーグルを頭から外した。室内の光が眼に飛び込んできて眩しい。
「ありがとうございました。これで、検査は終了です。午後には結果が出ますんで、それまでは、ここでゆっくり休んでいてくれて構いませんよ。センターの待合いには、食堂やコンビニのコーナーもありますので、お昼は、そこで済まして下さい」
看護師からそう言われたので、母の由梨香は、
「はい、分かりました」
とだけ、返事をした。
茉莉香の方はそうでもなかったのだが、母は何かしらの不安のようなものを感じていた。