虚無の中域(3)
「ふわ~っ、遅いっすねぇ、航海長。何してるんでしょう」
「知らねぇよ。サボるな」
「それよりも、腹減ったよなぁ。夜食、未だかなぁ」
中央航法室では、出て行ったきりで、さっぱり帰ってこない航海長を待ちわびていた。それ以上に、腹が減っている。そろそろ、夜食が届いても良さそうなものなのだが。
そんなところに、出入り口のスライドドアが開く音がした。
航海士達の視線が一点に集まる。
「何だぁ、航海長っすか。てっきり……」
思わず漏らしたそんな言葉に、航海長はいつものキメ顔で答えた。
「てっきり、何だって? 心配はいらない。待ちわびていたモノも、届いたぞ」
そう言う彼は、肩から大きな保温バッグをぶら下げていた。
「さあ、どうぞ。ここが航法室ですよ」
彼の丁寧な言葉で招き入れられたのは、二十代後半とも見える、女性だった。
(航海長、ナンパに行ってたのかよ)
(相変わらず好きだねぇ、年上の女性)
(とは言うものの、きれいな女性だなぁ。落ち着いているし、物腰も柔らかくて)
(この船に、こんな女性、いたっけ? 誰なのかなぁ)
航海長の素行は航海部全員の知るところなので、今更であった。だが、連れの女性には、誰しもが興味を惹かれていた。
「航海長さん、申し訳ありません。こんな重い荷物を運ばせてしまって」
「いえいえ。あなたのような女性が困っている時に、私が何もしなかったとしたら、航海部の全員に笑われてしまいますからね。ほら、皆、夜食が届いたぞ。テーブルの上を片付けるんだ」
最後の命令口調の言葉は、スタッフ達へのものだ。
何名かの航海士が立ち上がると、紙束の散らかっている中央テーブルの上を片付け始めた。
「お待たせして申し訳ありません。ご注文のお弁当をお届けに参りました」
その見かけ以上に、柔らかく丁寧な言葉に、航海部員達は空きっ腹を忘れて、由梨香に見入っていた。
彼女の雰囲気を端的に表現すると、
──お母さんとお姉さんと、憧れの先輩が入り混じったような
そんな雰囲気だった。
航海長は、テーブルに乗せた保温ボックスの蓋を開けて注文の品を並べようとしている由梨香を制して、彼は室内にこう呼びかけた。
「ほらほら、じっとしていないで自分の分を取りに来い。橘さんが困っているぞ」
「あ、別に困っているなんて……」
航海長の言葉に照れながらも、彼女は、
「お弁当もお食事も、未だまだ暖かいんですよ。冷めないうちに召し上がって下さいね」
そう言って、慈母のような笑顔を見せた。
その結果、堰を切ったように、男達がテーブルに押し寄せてきた。
次から次へと繰り出される手に、伝票とにらめっこをしながらも、由梨香は手早く食事を配っていった。
最後のパッケージが消えた時、
「お手元にお食事が届いていない方はいらっしゃいませんか。お料理がご注文と違っている方も、仰って下さいね」
声のした方を、全員が振り返った。そして、ニンマリと顔をほころばせると、軽く頷いた。
「大丈夫……、のようですね。ここに、当店特製の烏龍茶を置いておきますね。冷たいものと、熱いものと両方ありますので、お間違えなく」
彼女の傍らに立っていた航海長は、全ての品が行き渡り、トラブルも無いことを確認すると、
「では、お言葉に甘えて、いただきます」
と言って、早速、自分のコップに冷たい烏龍茶を注ぐと、一口分を喉に流し込んだ。
「うん。美味しいね」
と、爽やかなキメ顔も忘れない。すると、それが合図ででもあったかのように、
『いただきます』
と野太い声が室内に響いた。それぞれに、蓋やラップを剥がすと、待ち望んだ料理に舌鼓を打つ。
「ウメェー」
「店主のヤツ、腕を上げたな」
口々に称賛を挙げながら、彼らは夜食を消費していた。
「ありがとうございます。お昼の時間帯も、平日通り営業しておりますので、よろしければご来店ください。勿論、お昼のお弁当も承っております。今後も当店をご贔屓にしていただけたら幸いです。では、失礼します。お仕事、頑張って下さいね」
そう言い残して、由梨香は、空になったボックスを手に、出入り口へ向かった。
「今晩は、わざわざありがとうございました。そのうちに、お店にも寄らせていただきます」
航海長は、彼女を見送りながら、そう声を掛けた。
「いえいえ。こちらこそ、娘がお世話になりっぱなしで。でも、航海長さんのような、聡明で紳士的な方にお願いできて、母親としては安心しました。これからも、茉莉香のことを、よろしくお願いします」
室内に向けて、深々と頭を下げる由梨香の背中で、<シュン>と音がして、スライドドアが開いた。
「こちらこそ、茉莉香くんの働きには、いつもお世話になっています」
「ありがとうございます。それでは、失礼します」
部屋の中を向いたまま、後退りで部屋を出る由梨香に、
「お気をつけてお帰り下さい」
と、いたわりの言葉をかけた航海長のキメ顔は、いつもの三割増しほどに思えた。そして、再び閉じられた出入り口から部屋の方へ振り返った途端、
「さぁ、さっさと食事を済ませて、仕事の続きをするぞ。急げ!」
と、檄を飛ばしたのである。
なんという変わり身の早さであろうか。
(今回は、あの女性かぁ)
(橘って言ってたよなぁ。どっかで聞いたような……)
(茉莉香ちゃんだよ。茉莉香ちゃんのお母さん)
(橘……茉莉香って、パイロットの?)
(なるほどね。母一人、娘一人って聞いてたけど)
(シングルマザーかぁ。航海長らしいな)
と、食事をしながらも、ヒソヒソと噂をしあっていた。
「そこ、何か?」
それを耳にして、訝しむ彼に、
「いやぁ、今夜の夜食は、えらく美味いなぁって」
「そうそう、あのオヤジも腕を上げたもんだって」
「なぁ」
と、即席の言い訳をしていた。
「そ、そうか……。食事が済んだら、各自、きちんと片付けをしておくこと。食器もピカピカに洗うんだぞ」
「りょ、了解っす」
(食器を取りに来られた時に、快く持って帰っていただかなくては。……いや、むしろ、私が食器を届けに行くべきか。だが、やりすぎて重たくなっては、元も子もない。ここは、器をキレイにして返すとしよう。うん、それが最善策だな)
航海長は、当人不在にも関わらず、キメ顔でそんな妄想をしていた。
「ESPエンジン、アイドリング正常。機関室、パイロット。未だ、機関に異音とかありますか? 確認願います」
ここは、茉莉香の詰めている操船室。銀河の腕と腕の隙間の空間に出てからの『ジャンプ』に備えるため、少女も、機関部と頻繁に連絡を取り合っていた。
<パイロット、機関室。オレだ。機関、良好にアイドリング中。いつでもフルで回せるぜ>
機関長からの返事を確認して、
「了解しました。では、一旦、待機状態に戻しますね。何かありましたら、ご連絡下さい」
<分かった。未だ、サブの方が本調子じゃねぇ。お陰で、こっちは泊まり込みになりそうだ。そんな具合だから、もし、妙な感じがしたら、夜中でも明け方でも構いやしねぇから、すぐに連絡をよこすんだぞ>
「分かってますよ、機関長さん。それよりも、機関長さんも無理をしすぎないで下さいね」
<任せとけ。こちとら、無限の体力の機関長様々、だからな>
「ホントに無理しないで下さいね。頼りにしてるんですから」
<おう! 任しときな>
その言葉の後、機関室との通話に高笑いが加わると、唐突に切れた。
「ふぅ、相変わらずなんだから」
通話機をコンソールに置いて、茉莉香は溜息を吐いた。
航海部が作成した航路によると、5〜6回ほど『大遠距離ジャンプ』をこなせば、再び星の渦巻く銀河の内側に戻れる。そうすれば、この宙域の言い知れないほどの不気味な感じからも開放されるに違いない。
茉莉香には、最初にここに飛び込んだ時に感じた嫌な感覚が、今も続いていた。それは、ESPエンジンも同様に違いない。
全くの何もない空間──のはず。しかし、少女もESPエンジンも、何かしらの違和感を感じていた。
その結果が、先の鼻血や、今の気持ち悪さなのだろう。
(大丈夫だよ、皆。あたしが、必ず、第七十七太陽系まで無事に連れてってあげるからね)
彼女は、母やコーン、スタッフの人達や、学校の友達の顔を思い浮かべながら、決意を固めていた。




