至るべき星へ向かって(9)
──お早うございます。ただいま、グリニッジ標準時、午前七時をお知らせします。
ここは、慣性航行中のギャラクシー77の船内。見渡す限り、灰色の樹脂と金属で作られた閉鎖空間の中に、明るい女性の声が響いた。
──船内気温は二十二度、湿度は五十五パーセントです。本船は、本日午前十時をもって、現宙域を離脱し、第七十七太陽系へ向けて進路をとります。一般乗組員の皆様は、自宅や職場、もしくは所定の区域にて、『ジャンプ』に向け待機するようお願いします。繰り返します。本船は、本日午前十時をもって、現宙域を離脱し、第七十七太陽系へ向けて進路をとります。一般乗組員の皆様は、自宅や職場、もしくは所定の区域にて、『ジャンプ』に向け待機するようお願いします。
合成された音声ではあったが、人々の不安や心配を打ち消すような朗らかさが感じ取れる声だった。
今、船は、長かった宇宙海賊との争いを終え、傷ついた船体も一応の修復を果たした。
目的地の第七十七太陽系では、ギャラクシー77の到着を今や遅しと待ち望んでいる筈だ。予定の航路への復帰は、何よりも優先させなければならない事項である。
「七時だって? もう、そんな時間かい。夏っちゃん、店を開けとくれ」
「はぁーい」
厨房からの言葉に、元気な声が応えた。
「橘さん。フロアはいいから、こっちの仕込みを手伝ってくれんかなぁ」
オーナーシェフは、店内でテーブルを拭いていた女性に声をかけた。
「はい。今すぐに」
ここは、茉莉香の母──橘由梨香の働くレストランだった。
昨夜のニュースを視て、船の発進に向けてメインスタッフ達が忙しくなることを知った店長は、これを恰好の稼ぎ時と考えた。自宅に帰ることも出来ずに働き詰めのスタッフ達には、朝食や昼食、弁当の出前が必要になるに違いない。
船の運行は『人』が支える。その人を支えるのは『食』である。ただし、単なる栄養補給では、人は働けない。身体だけではなく精神にも滋養を与えなければならない。その為に、食事は美味しく、見栄え良く、香り高くある必要がある。人々は胃袋でのみ食を摂るのではない。舌も鼻も目も、全ての感覚を満足させる食事を提供するのが、自分達──料理人の使命である。シェフは、そう考えているのだそうだ。
由梨香が厨房へと入った時、彼は大きな寸胴と格闘していた。
(いつものスープね。でも、少し違う……。この香り……、昨夜の『まかない』の味を応用しているのね)
立ち上る湯気からの香りで、彼女はそこまでを見抜いていた。
「ただいま参りました。何をお手伝いしましょう」
由梨香が店長に声をかけると、
「おう、済まねぇな。ちぃっと、コイツを見といてもらえんかな。なぁーに、難しくないさ。焦げないように、とろ火で煮詰めてくれてればいいから。その間に、アタシはパンの焼き上がりを見てくるから」
この店の売りの一つが、手作りのバケットである。これがまた絶妙な味をしていて、特性のスープによく合うのだ。出前やテイクアウトでも、スープとのセットを頼む者がほとんどだ。
「分かりました。お任せ下さい」
彼女はそう言って店長に近付くと、大きなヘラを受け取った。
由梨香が任された寸胴の中身こそ、件のスープなのである。朝食のメインの片方を任される程に、彼女の信頼は厚かった。これも、前に務めていた店での実績が買われたためだろう。もしかしたら、昨夜の味見も、試験の一貫だったのかも知れない。
「さぁて、これからが本番さぁ。いつものセット以外に、サンドイッチとかも売れ線かもね。どんどん作るよぉ」
店長は上機嫌でパンを焼く窯の内部を、前面パネルのディスプレイで確認していた。数種のサーミスタとスペクトロメータを組み込んだこの店の独自設計の窯は、一センチ単位の立方体セル内の温度を精密に測定し、一ケルビン以内の温度制御が出来る。そして、組み込まれた超大容量の記憶素子には、創業から百年近くに渡ってパンを焼き続けてきた経験が格納されていた。ことパンを焼くことにかけては、ギャラクシー77の中央電算室の巨大AIにも匹敵する性能を持っているのだ。しかも、それは日々経験を重ね、進化を続けている。他の店では真似の出来ない理由は、そこにこそあった。
「フフフ、今日も良い出来だ」
各パラメータを確認し、店長は満足の笑みを浮かべていた。
それを横目でチラチラと気にしながら、由梨香は娘の事を考えていた。
(茉莉香は大丈夫なのかしら。ちゃんと、ご飯を食べてるといいのだけれど)
そんな時、入り口が開く音と、入店者を示すチャイムが鳴った。
「はぁーい、ただいま」
元気な声は、若いバイトである夏子の声だ。
店長の予想通り、今日はいつもより忙しくなりそうな気配がした。
──グリニッジ標準時、午前八時半、ブリッジ
「当宙域離脱まで、九十分を切りました」
キャプテンシートの船長は、それを聞いて頷いた。シートの左脇に組み込まれたコンソールを操作してからマイクを手に取ると、口元に運んだ。
「ギャラクシー77の運行スタッフに達する。船長の権田だ。本船は予定通りグリニッジ標準時午前十時丁度をもって『遠距離ジャンプ』を行い、現宙域を離脱する。各部、航海部から配布の手順書に則り、発進のための最終作業に入れ。これをもって、本船は第七十七太陽系へ向けての定期航路に復帰する。各員、『ジャンプ』の完全終了まで、割り当てられた任務を遂行して欲しい。以上だ」
船長の声は、いつにも増して重々しかったが、運行スタッフの面々には心強かった。これまでも、数々の困難を突破してきたのだ。今回も、きっと上手くいく。絶対と言えるほどの信頼感を、スタッフの皆は持っていたのである。
「発進までカウントダウン。八十五分前。各スキーム最終段階へ移行」
<補助機関、出力良好。定格まで五分四十秒>
「銀河星間マップ、アップデート完了。見張員は所定の持ち場で待機」
「船外作業員の収容が、未だ終わっていないぞ。十五分で終わらせろ。そしたら、点呼を取って、欠員がないかを確認してくれ」
<分かってるよ。もう少し時間をくれないか。フリゲート艦の固定が、未だ終わっていないんだ>
「軍にやらせろよ。兎に角、十五分を過ぎたら、最外殻甲板のエアロックは全てクローズするからな。外からは開けられなくなるんだ。時間には気をつけるんだぞ」
<そうかい、そうかい。了解した。手短に作業を切り上げる。これで満足か>
不満を隠せない作業員は、ワザと横柄な態度をとっていた。
「発進まで間がないんだ。吹きっ晒しの宇宙で『ジャンプ』の瞬間を迎えたいのか」
<……分かってるよ。兎に角、十五分だけ待ってくれ。作業員も、軍人も、誰ひとりとして、宇宙の迷子にはさせねぇ>
「了解した。頼んだぞ」
一般の乗組員への発表とは異なり、実際には船の補修は未だ不完全なようだった。しかし、いつまでもこの宙域に留まることも出来ない。最外装の修理さえ終えれば、残りの作業は運行しながらでも可能だ。
<ブリッジ、パイロット。こちら橘です。『ESPエンジン』、スタートアップ、順調。出力、上昇中。最新の星間マップ情報を送って下さい>
操船室の茉莉香からも報告が入った。
『ESPエンジン』は、この船の要である。これが動かないことには、超光速航法『ジャンプ』を行う事が出来ない。
「パイロット、ブリッジ。航海長だ。茉莉香くん、今しがた最新の星間マップが手に入った。既に船内ネットワークで共有できるようになっている。銀河中心方向から仰角二十二度ほどの方向に、小規模だが、高エネルギージェットが観測されている。可能ならば、銀河平面からの逸脱は、最小限に留めて欲しい」
レシーバーを取って左耳にあてがっている航海長の顔は真剣だった。彼もまた、経験のない航路を辿ることに、緊張を隠しきれないでいるのだ。
<航海長さん、誰に物を言っているつもりですか? あたしは、先代も認めたパイロットですよ。大丈夫ですから、大船に乗った気でいて下さい>
たかが、十六の小娘にこんな事を言われて、さすがの航海長も苦笑をしていた。
「おいおい、茉莉香くん。ギャラクシー77ほどに大きな船は、この銀河を探しても滅多にお目にかかれないぞ。大船に乗った気どころか、既に乗っているんだがね」
こんな冗談めいた言葉が、この男の口から出てくるのも珍しい。
<えへ。そうでしたね。了解しました。星間マップ照合。『ジャンプ』到達先座標の再確認をします>
少し戯けたような茉莉香の声が、スピーカーから聞こえた。
「よろしく頼む。以上」
彼は、通話を終えると、マイクをコンソールに戻した。
<第千八百九十番台のエアロックが密閉しない。AIが言うことを聞かないんだ。確認してくれ>
<船首センサー群の感度、前より低いぞ。部品交換したのか?>
<ブリッジ、こちら、街宣担当。演算リソースが不足している。もう少し、まわしてもらえんか>
<こちら、保安部警備科。移民街の治安に人手が足りない。どうしたら良い?>
<第九十三生産プラント。水圧が下がっている。どこかで水漏れしてないか? これじゃぁ、Kブロックまでの給水が出来ない>
<左舷三十二番区画の酸素濃度が、急上昇中、なのじゃ。混合弁の問題かのう。アジャスタを担当したヤツを、そのう、呼び出してもらえんかのぅ>
<あのぅ……、お弁当の配達先は、こちらで良かったのでしょうか?>
<誰だよ、便所の水を流しっぱなしにした奴は>
<Eキャストネットです。取材のアポをお願いしたいのですが……>
<シーケンス番号の七千五百三十を飛ばしてるぞ。五つ戻ってやり直しさせろ>
「……ここは、うどん屋じゃありません。番号を確認して、掛け直して下さい」
<すいません。船内の通信回線が混線してて。……すぐに直しますから>
「……ぶっかけ? だから、うどん屋じゃないって、さっきから言ってるだろう」
<Cブロックの電圧、どうした! 定格に戻せないか>
「……だから、『ざる』ならうどん屋で注文してくれ」
<第十七番格納庫で、軍人が何か騒いでいる。分かる奴をよこしてくれないか>
「……海老天なんか無いよ。何度も言ってるが、ここはうどん屋じゃない」
<右舷四十一号スラスターモジュール、反応ないぞ。配線を見直してくれ>
「……だから、出前なんてやってないよ。うどん屋に掛け直せ」
<ESP波形、抽出。亜空間共振場、観測開始。空間座標、入力値チェック。重力偏差、±3。『ESPエンジン』、『ジャンプ』モードでアイドリング始めました>
<非常用コンデンサー、充電終了>
「移民街の管理AIのリソースを半分にしろ。その分を航法支援に充てる」
「航法支援AI、フォロー始めました」
<ブリッジ、第百十三移民街区。照明がダウンしたぞ。移民街のユーティリティーが機能しない。どうなってんだ>
「こちら、ブリッジ。機密隔壁を閉鎖して隔離しろ。今は、移民に割けるリソースは無い」
「誰だ、メディア担当は! このクソ忙しい時に、カメラなんぞを入れさせるな。つまみ出せ!」
<あのぅ……、お弁当の配達なんですが……>
「手の空いてるヤツ、弁当を受け取りに行ってくれ。領収書を忘れるなよ」
<こちら、コロンブス−1。妙な振動が伝わって来るが……。問題は無いんだろうな>
「護衛艦から何か言ってきてるぞ。誰か、返事してやれ」
「あっちは軍人の筈だろう。そのくらいで怯えてて、宇宙に出られるかよ」
「いいから、返事してやれよ。これ以上、外交問題でややこしくなるのはゴメンだ」
「……はい、こちらブリッジ。担当の吉田です。現在、主機関・副機関共にフル稼働状態に入りつつあります。きっと、エンジンの脈動でしょう。軍艦を、ギャラクシー77の甲板に直接縛り付けましたからね。きっと、その所為で振動が伝わってるんですね。特に心配する必要はありません。『ジャンプ』終了まで、その場で待機するようお願いしますネ」
<そ、ソデスカ……>
「ええ、そうです。大丈夫ですから、安心して持ち場で待機しておくようお願いします……。通信終了」
「おっし、よくやったぞ中田。お前が時間を稼いでくれたお陰で、軍艦のコンピュータと通信系を押え込む事ができた。もう、文句なんて言わせんぞ」
「お役に立てて、何よりです」
ブリッジ内のアチラコチラで交わされる情報は雑多で、「これらを統合して理解し管理できているものなのか?」と疑ってしまいそうだ。
しかし、ここに居る者達は、船の中でも最上位クラスのエリートばかりだった。これまでの長きに渡って、ギャラクシー77の運行を管理し、無事に航海を達成してきた強者揃いなのだ。
──これしきのことは、日常茶飯事だ
──何も問題はない、いつもの通りにやれば
──この『ジャンプ』さえ無事に終われば、後はなんとかなるさ
そんな思考が、頭蓋をすり抜けて漏れ伝わって来そうな空間だった。
(ううう……うぅぅぅ……、うるさい)
茉莉香は、操船室のパイロットシートの上で頭を抱えていた。
『ESPエンジン』と強固に繋がった彼女の精神感応力は、飛躍的に上昇する。茉莉香には、船内の多くの思考が聞こえてしまうのだ。だが、それを雑音として無視したり、思考の壁を作って遮ることは、未熟な能力者である茉莉香には、未だ出来ない。それが尚更、少女の心を揺さぶっていた。
(うるさい、うるさい、うるさいよ! あたしは、船を、あ、安全に『ジャンプ』させないとならないんだから……)
乗組員の思考の津波と、『ESPエンジン』の制御のための情報処理との間で、彼女は何とか自分を保とうとしていた。
<……ん。……ぶか。まり……ん……>
(あ、通信だ。……で、出なきゃ)
少女は、重要なこの時に、船長や航海長達に心配をかけたくなかった。
震える指先で、目の前にボンヤリと見えているコンソールを操作する。サウンドオンリーでブリッジとの交信を確立すると、出来るだけ明るい声で返答した。
「はい、こちらパイロット。橘茉莉香です。『ESPエンジン』、出力定格内。『ジャンプ』先座標、固定。フルスキャン、終了しています。全プロセス、問題無し。……ブリッジの方でもモニタリング出来ていますよね?」
彼女は、状況を手短に報告してから、最後の文言を付け加えた。こう言っておけば、ブリッジからの問い合わせは、少なくなるだろう。
<パイロット、ブリッジ。確認した。……あれ? 画面が出ないなぁ……。茉莉香くん、通信状況が芳しく無いようなんだが>
サウンドオンリーで返事をしたのが仇になったか。船内通信で画像が出ないのを心配しているらしい。
「えーっとぉ。……今は、あっちこっちで情報処理用のリソースを使いまくってますから。こちらも、出来る限り、本業に使えるリソースを確保しておきたいんです。サポートAIがやったんでしょう。必要でしたら、リソースを割きますよ」
茉莉香は、なるだけ尤もらしい言葉を選んでいた。心の中で『これで納得してくれ』と願いながら。
<なるほど、そうなのか。……了解した。引き続き、スキームに従って処理を続けてくれ>
これを聞いた茉莉香は、ホッと胸を撫で下ろした。どうやら納得してくれたらしい。
「パイロット、了解しました」
<頼んだよ、茉莉香くん。以上>
これを最後に、ブリッジからの通信は、一旦終了した。
「ふう……」
少女は思わず深い溜息を吐くと、額を袖で拭った。気がつくと、全身が汗ばんでいる。
「後少し。後、もう少しなんだから。大人しく言うことを聞いて……」
──彼女は、いったい誰に頼んでいるのだろうか?
無意識に漏れ出た言葉にも気づかず、茉莉香はボンヤリとした視界の中に流れる数字や記号を目で追いながら、コンソールに指先を走らせていた。
──船内の皆様にご連絡します。『ジャンプ』までの残り時間は三十分を切りました。一般乗組員の皆様は、所定の場所で待機するようお願いします。繰り返します。『ジャンプ』までの残り時間は三十分を切りました。一般乗組員の皆様は、所定の場所で待機するようお願いします。
船内アナウンスの声が、静まり返った街路に響いていた。
さすがにこの時間では、通りを行き交う人は、ただの一人も見えなかった。所々に、警備の保安部員らしき人影が立っているだけである。
「『ジャンプ』十五分前。各部、安全確認終了」
「ミストチャンバー開きます。対デプリ用コロイドミスト、放出開始」
「本船の周囲、四光秒以内に不審物無し」
「隔壁ロック閉鎖確認、異常なし。各ブロック、エア,電力,給水,通信システム,環境維持システムに問題無し」
「船外作業員、総員退避完了。点呼、確認済み」
ブリッジでは、尚も緊張が続く中、発進に向けての最終チェックが進んでいた。
「『ジャンプ』五分前」
「各部、点呼終わっています。欠員無し」
「欠員無し、了解。……船長」
船務長からの報告を受け、船長が静かに頷いた。
「総員、『ジャンプ』に備え」
「『ジャンプ』、三百五十秒前。総員、安全姿勢を確保」
「広報部、船内アナウンスを流します」
──本船は間もなく『ジャンプ』を行います。不測の事態に備えて、お近くの手すりなどにおつかまり下さい。本船は間もなく『ジャンプ』を行います。
やや無機質な船内アナウンスが、スピーカーから聞こえた。
──『ジャンプ』三分前。不測の事態に備えて、手近の手すりなどにおつかまり下さい。
──『ジャンプ』、一分前です。秒読みに入ります……
(後少し。もう少し。頼んだからね)
──『ジャンプ』、十秒前、九、八、七……
カウントダウンの声が続いていた。
──四、三、二、一、『ジャンプ』
その瞬間、五千メートルを超える巨大な構造物が、その空間から一瞬にして消え去っていた。




