ESPエンジン(4)
──お早うございます。ただいま、グリニッジ標準時、午前七時をお知らせします。
朝の船内放送が響く。
──本日の船内気温は二十四度、湿度は六十四パーセントです。本船は現在地球より約二千三百光年の位置を航行中です。なお、本日はESPエンジンの緊急メンテナンスのため、『ジャンプ』を中止します。繰り返します。本日は…………
この船内放送は、茉莉香の部屋にも響いてきた。
「ふぅん、今日は『ジャンプ』しないんだ。珍しいなぁ」
と、彼女は、ベッドの上でゴロゴロしながら聞いていた。
その時、母親の声が聞こえた。
「茉莉香ぁ、今日は『保健衛生センター』に行くんだから、もうそろそろ起きなさぁい。ご飯、もう出来ているからぁ」
そう言われて少女は、
「う〜ぅ、まだ眠いのにぃ。あと十分、寝かせてぇ」
と抵抗した。
「ダメですよぉ。早くダイニングに来なさぁい」
「は〜い。仕方ないなぁ」
と、茉莉香はブツブツと愚痴をこぼしながら、ダイニングに向かった。
今日の朝食は、トーストに野菜サラダ、マグカップに入ったコンソメスープである。
椅子についた彼女は、面倒臭そうにトーストをかじると、スープで流し込んでいた。
「ちゃんとよく噛まないと、身体に悪いわよ」
と母親に指摘されても、彼女は上の空である。
(『保健衛生センター』って、いったい何されるんだろう? もしかして、『ジャンプ酔い』って、伝染るのかなぁ。行くの、ヤダなぁ)
土壇場になっても、茉莉香は、未だ行くのを嫌がっていた。
広大な真空の宇宙を航行する宇宙船の乗員には、厳守すべきいくつかのルールが存在する。茉莉香に送られてきた『出頭要請』は、『レベルB』の強制度を持っていた。応じなければ、罰金や所得制限、移動範囲制限などのペナルティーが生じる。宇宙船に同乗する人々は運命共同体であるが故に、ルールは守られねばならない。でなければ、最悪、船全体の喪失にもつながるからだ。
船の大原則は、頭では分かっていながらも、いざ自分がその立場に立たされると、躊躇してしまうのが世の常である。
「ちゃんと、トマトも食べなさい」
母が、フォークにミニトマトを突き刺して、茉莉香の目の前に挙げた。
「う〜〜」
茉莉香が、嫌そうな唸り声をあげた。しかし、目の前のトマトは無くなりはしない。茉莉香は、思い切って赤い球体に喰い付くと、口の中で咀嚼した。
(ううう、この歯触りが苦手なんだよなぁ)
顰めっ面でトマトを大雑把に噛み砕くと、またもスープで喉の奥に流し込む。
「こら。ちゃんとよく噛まないと、胃に良くないわよ。茉莉香、ほら、ちゃんと食べる」
「はぁ〜い」
母親の言葉に、茉莉香は渋々と応えた。
「ホントにもう、トマトジュースなら飲めるのに、丸のままのトマトが食べられないなんて、変でしょう」
「だって、この歯触りが苦手なんだもん」
「ここは宇宙船の中なんだから、何でも食べられるようにしておかないと、いつか後悔するわよ」
母親の指摘に、
「分かってるよ」
と、彼女は横柄に応えた。そして、トーストをかじると、またスープで胃に流し込んでいた。
食事が終わると、二人は後片付けを始めた。茉莉香の父は、彼女が幼い時に亡くなったと聞いていた。母と二人の食事も、その後の片付けも、茉莉香にはごく当たり前の事である。
「さて、そろそろ着替えて、行く準備をしましょう」
母が濡れた手をエプロンの裾で拭きながらそう言うと、茉莉香も嫌々ながら身支度を始めることにした。
「茉莉香、検査なんだから、着替えやすい服装にしておきなさい。下着も、おとなしめの物にしておくのよ」
母は、自分のよそ行きを選びながら、娘に言った。
「分かってるわよ」
と、茉莉香は横柄に応えると、クローゼットに頭を突っ込んだ。
そんな茉莉香の返事も気にかけずに、母は自分の部屋で服を選ぶと、さっさと着替え始めた。茉莉香も自室のクローゼットの中を引っ掻き回すと、薄いブルーのワンピースを選んだ。後は、その辺に引っかかっている布を適当に掴むと、それを身に着けた。
「茉莉香ぁ、もう着替えた? そろそろ出発するわよぉ」
母は、そう言って少女を急かした。
「準備出来たよ。今行きまぁす」
茉莉香はそう返事をすると、部屋から出た。扉を締める時に、チラと室内が目に入る。洋服が床の上にごっちゃになっている室内を見て、茉莉香は憂鬱になった。
(まぁ、いいや。帰ったら片付けよう)
そうやって気持ちを切り替えると、茉莉香は玄関に向かった。
彼女の母は、玄関の扉を開けた向こうに立っていた。彼女は、明るいクリーム色のジャケットに同じ色のタイトスカートを着ていた。背中まである黒髪には、軽いウェーブがかかっている。
一方の茉莉香は、ノースリーブのワンピースに白のスニーカーを履いていた。
少女が後ろ手にドアを閉めると、<ピッ>と電子音がして、ドアが自動ロックされた。
彼女達が呼び出された『保健衛生センター』は、このCブロックから少し船尾方向のGブロックにある。二人はエレベータホールまで歩くと、『中央部移動チューブ行き』に乗った。
巨大構造物であるギャラクシー77は、円筒状の船内の中心部に、高速移動用のチューブを持っていた。そこは、茉莉香達の住む居住区からは、三百メートルほど移動しなければならない。でも、高速エレベータを使う分には、地上の高層ビルのような感覚である。
普通に生活を送るだけなら、徒歩か電動ビークル (EV)で間に合う。その範囲内に、ショッピングモールや学校、公園、医療施設などが配置されているのだ。だから、茉莉香達がチューブに乗るのは、年に二〜三回あれば多い方だった。
数分ほどすると、エレベータはチューブの駅に到着した。
二人はエレベータを降りると、ちょうど、船尾方向行きのチューブが到着したところだった。彼女達は駅の改札を通る時、手の平よりも二回りほど大きいパネルに手を置いた。すると、電子音が鳴って掌紋がスキャンされ、認証された。ブロック内移動のエレベータやEVは基本無料だが、ブロック間移動用のチューブは有料だった。登録されている掌紋で個人を判別し、料金は後日、口座から引き落とされるようになっている。
船内には、このような掌紋センサーパネルや、バーコード認識機が至るところにあり、基本、小型の多機能端末さえ持っていれば、サービスや売買の決済料金が自動で振り替えられるようになっている。
茉莉香と母は、チューブに乗り込むと、並んで椅子に座った。母が「ふぅ」と溜息を漏らす。彼女も、滅多にチューブに乗ることは無かった。それで、少し緊張したのだろう。自分の端末を取り出して、時刻を確認していた。
茉莉香も自分の端末を取り出すと、メッセージやらSNSやらを確認していた。その中には、健人からのものもあった。昨日頼んだ通り、先生には欠席と伝えてくれたようである。
茉莉香は、『ありがとう云々……』とメッセージを入力し、健人宛に返信した。音声での入力・変換も可能だが、人の居るところでは普通しない。それは一般的なマナーであるし、結局のところ、手入力の方が早いということでもあるからだ。
しばらくチューブに乗っていると、目的のGブロックに到着した。二人はチューブから降りると、改札を抜けた。乗る時と同じように、掌紋センサーパネルに手を乗せる。<ピッ>と電子音が鳴って、運賃が精算される。
そのまま手近のエレベータホールに行き、今度は『保健衛生センター行き』の高速エレベータに乗った。
「呼び出しの時間には、間に合ったようね」
母は、端末の時計を見てそう言った。
エレベータは、三分ほどで『保健衛生センター』のある階に到着した。
ここGブロックは、『航法制御センター』や『中央データセンター』など、船の重要機能が集まっている区画だった。
二人は案内板に従って、廊下を歩いていた。十数分ほど歩くと、目的の『保健衛生センター』の入り口に着いた。
茉莉香達は、入り口からエントランスホールに入った。奥には物々しいゲートと、その横に警備員が立っているのが見えた。彼女達は、昨日、センターから送られてきたメッセージを端末に表示すると、添付されていた二次元彩色バーコードをセンサーに翳した。ここでも、<ピッ>と電子音がして、外来者の認識が行われると、ゲートが開いた。
ゲートをくぐる時、警備員が茉莉香の方を<ジロリ>と見たような気がした。
(何か、イヤな感じ……)
茉莉香はそう思った。
ゲートを抜けたすぐ先には、受付けがあった。受付けの女性は、すぐに茉莉香達に気付くと、書類を挟んだクリアファイルを片手にして、ホールに出て来た。
「お早うございます。橘茉莉香様と、お母様ですね。今日は、わざわざ『保健衛生センター』までお呼び出しして、申し訳ありません。えーと、お嬢様が橘茉莉香様で、間違いありませんね」
受付けの女性が、書類を確認しながら、そう言った。
「はい、そうです」
と、少女は応えた。すると女性は、
「では、この書類を持って、右奥の『脳神経科』へお願いします」
と言って、クリアファイルを茉莉香に差し出した。
彼女は、ファイルを受け取ると、母と一緒に廊下を右に曲がって進んだ。
廊下には、病院に特有の、消毒剤かアルコールの香りが満ちているような気がした。
(脳神経科って……、何されるんだろう。あ〜あ、憂鬱……)
茉莉香は浮かない顔をして、やけに明るい廊下を母親と並んで歩いていた。