至るべき星へ向かって(3)
ここはギャラクシー77の要の一つ──操船室である。
普段なら、正規パイロットである茉莉花一人だけか、たまに機関長が油を売りに来ているくらいだが、今日は違った。
「……で、この式を整理すると、余弦定理が導かれます。……解りましたか?」
いつもは星間マップを表示している筈の巨大な正面スクリーンに、さいん、こさいん、たんじぇんと、の公式が表示されていた。
「…………?」
眉根に皺を寄せてスクリーンを睨んでいる茉莉花からは、応えが無かった。
「おや? 返事がありませんねぇ」
スクリーンの横に立って、パッド型の端末を操作していた男性は、少し苛ついたような声でそう言った。
「全然解りません」
仕方なく、パイロットシートに座ってスクリーンを睨んでいた少女は、そう返答した。スクリーン脇の男性の顔が曇る。
今、茉莉香は『家庭教師』という名の監視者から、『勉強』という拷問を受けているところだ。
(もうっ、お母さんたら。折角、学校に行かなくっても良くなったのに、こんなところでまで勉強なんて、絶対イヤだよ)
茉莉香はむくれてはみたものの、本日の講師にも通用しないようだった。
「三角比や三角関数は、数学の基礎中の基礎です。ここでしっかり勉強して、確実に理解しましょうね」
講師にそう言われたものの、彼女が理解するには程遠かった。
「先生」
そう言って、少女は右手を上げた。
「はい、茉莉香さん。何でしょう?」
さっきまでは、「解りません」の繰り返しだったのに、彼女から自発的に質問があったので、講師はすぐさまそれに喰い付いてきた。
「三角関数って、何の役に立つんですか? よげんてーり、なんて知らなくても、充分生きて行けるように思うのですが」
「…………」
最初、家庭教師の男性は唖然としていたものの、すぐに気を取り直すと、
「そんな事はありませんよ、茉莉香さん。三角関数は、数学だけではなく、科学、技術、工芸、芸術、音楽、工業製品から、生活必需品まで、ありとあらゆるところで使われている重要な基本定理です。茉莉香さん。あなたの使っている『多機能端末』で音声通話が出来るのも、三角関数があったからですよ」
と、声を荒らげて一気にまくし立てた。
「……ふ、ふぅーん。そーなんだ。で、あたしの周りのどこに、さいんとか、こさいんとかがあるのですか? あたし、宿題以外で、せーげんてーりとか、よげんてーりとかなんて、使ったことないんですが」
少女は口を尖らせると、屁理屈のような言い訳をした。
(ふんっ、売り言葉に買い言葉だ。この際だから、ちょっと虐めてやろう)
彼女は心の内で、そんな事を考えていた。
「いいですか、茉莉香さん。三角関数は『三角』と付いていますが、重要なのはこの式が円と密接に関係することです。円の中心,円周上の点,その点からX軸に下ろした垂線の交わる点。この三点で構成される直角三角形こそが、三角関数の始まり──原点なのです。……解りますか?」
少女は藪睨みながら、コクンと頷いた。スクリーンには、大きな円と直角三角形が描かれている。学校も含めて、これまで何回となく見せられてきた図形だ。いい加減、脳みそのどこかにこびり付いて仕舞っている筈なのだが、いざテストとなると、どうしても思い出せない図形の一つだ。
茉莉香が頷いたのを認めた講師は、先を続け始めた。
「円周上に点が有るということは、この点がグルグル移動していると言うことです。その時の三角形の各辺の比や、中心角との関係性の数学的な表現が三角関数です。これ、すなわち円周上を移動するということは、X軸の方向から見れば上下に振動しているように見えますよね。すなわち、三角形といいながら、三角関数は円や振動,繰り返しに関する数学的解釈の全ての基礎と言うことなのですっ」
講師の男性は、話が後半に移るに従って、声も高らかに歌うような調子になっていた。
(あっ、あーあ。また、自分の世界に入っちゃってるよ。専門家──とくに理系の人は自分に酔っちゃう時があるんだよねー)
茉莉香は、話半分で講師の演説を聞き流していた。
「振動が伝播すれば波動です。電波、……いや、電磁波は、電場と磁場が互いに振動を繰り返すことで空間を伝わっていくのです。つまり、茉莉香さんの持つ端末で電話が出来るのは、電磁波の波動が伝わっているからなのです。その根本のところに使われるのが三角関数です。……お解りいただけたでしょうか」
ここまで言い終えた時、彼は肩で息をしていた。茉莉香も、そうまで言われれば、おいそれと反論は出来ない。
「ウ~ン、良く解りませんが、生活の隅々まで浸透している、と言うことでしょうかぁ」
と、取り敢えず当たり障りの無い返事をしておく。
「そうですか。分かってもらえて、私も嬉しく思います。かのギリシャ時代から研鑽を続けられてきたユークリッド幾何学に始まり、アイザック・ニュートンが提唱した近代物理数学によって技術は進歩し、産業革命が起こり、遂には宇宙にまで進出する事が出来たのでぇーす。ですから……三角関数はぁ、大事なのですよっ」
講師は、そう言ってニッコリと笑顔を作った。
「でも先生。巨大な恒星や大質量のブラックホールのある宇宙空間では、ユークリッド幾何学の原理は通用しなくなるのではなかったでしょうか」
その笑顔に向けて、茉莉香はにこやかに嫌味を言ってやった。
「ゔっ、ぐぅ。た、確かに、大質量の近傍では、交わらない筈の平行線も交差しますねぇ。結局のところ、ユークリッド幾何学はリーマン幾何の近似でしかないわけですが……。しかぁーし、まずは、一般の幾何学を覚えなければ、先に進めません。惑星上でもぉ、船の中でもぉ、ほぼ正確な近似値としてのユークリッド幾何学は充分有効でえぇーす。茉莉香さん、……よろしいですかぁ」
やや気分を害したのだろうか。講師の男性は、険しい顔をして茉莉香の顔を睨んでいた。
(ううー。そんなコト言われたって、良く解んないんだもん。どーしたらいいのよ)
ここで茉莉香がゴネたところで、授業が終わる筈もない。時限制でカリキュラムが進む学校なら、一時限分だけ我慢すればいいのだが、相手が家庭教師では、実質的に無制限一本勝負のようなものだ。茉莉香には、到底勝ち目はない。
「ふいー」
幼いパイロットは深い溜め息を吐くと、手元の端末をぐにぐにと弄くっていた。
「では、余弦定理を、最初から説明しますね。分からないところがあれば、いつでもいいですから、質問して下さいね」
男性講師は、ニッコリと笑顔を浮かべると、数学の講義の続きを始めた。
一方、ここは、ギャラクシー77の航法管制室である。
「フムン、やはりこの航路を採った場合には、更に一ヶ月の遅れになってしまうな……」
困りきったような航海長の言葉だった。
ギャラクシー77は、宇宙海賊との二回の戦闘、及び第四十八太陽系に修理の為に寄港したことにより、運行日程を大幅にロスしていた。その上、通常の航路から大きく外れて仕舞っている。それは、『軍』と『財団』の命令を遂行する為ではあったのだが。
通常は約半年程で到着する筈の第七十七太陽系への道程は、既に三ヶ月超の遅れとなっている。到着の遅れは、そのままペナルティーとして、船やその運行管理会社、更にはそれらをグループとして束ねる『(株)銀河航路通運』と『エトウ財団』にそのまま跳ね返って来るのだ。
確かに保険というモノがあることにはあるのだが、航海日程の遅れは、会社の金銭的な損失よりも、信用問題への影響が大きい。
──約束の期限内で、必ず目的地に到着する
契約書には、基本的にこの文言が刻まれている。そして、遅れに対する違約金に対しても、事細かく計算式と図表で以って、条件が書き記してあった。
宇宙軍との共同作戦行為という超法規的な事情があったとは言え、世間一般の市民──特に保険会社が、これを許してくれるかどうかは別問題だ。
願わくば、軍と財団のプロパガンダ、及び袖の下が有効に働く事を祈るだけだ。
「航海長、この航路であればどうでしょう。少し遠回りとなりますが、比較的星間物質の少ないエリアを抜けます。『大遠距離ジャンプ』を敢行すれば、日数的には有利ではないかと」
航海部メンバーの一人なのだろう、未だ若く見える男性が意見具申をした。
「フム。どれどれ、見せてもらおうか……」
航海長は、盤面がディスプレイパネルを兼用している大テーブルから顔を上げると、声を掛けられた方を見やった。
航海長の顔を認めた彼は、頷いて、手に持ったパッド型の端末を操作した。
すると、大テーブルに表示されている星間マップに重なるように、緑色に光る破線が描かれた。起点は現在位置。そこから、無数に光る点をかき分けるように緩やかな曲線として右へ左へと伸び、一際大きく輝く光点に向かっていた。そこが終点の第七十七太陽系の存在する座標だ。
「成程な。だが、今の茉莉香くんの能力で、これ程の『大遠距離ジャンプ』が可能だろうか……」
航海長は片手を顎にあてると、またしても悩まし気な顔をした。
「だめ……でしょうか?」
提案をした若者は、少し顔を曇らせた。
「……いや、一考する価値はあるだろう。この航路に、これまでの茉莉香くんの行った『ジャンプの実績』を使ってシミュレーションをしてみてくれないかな」
航海長は顔を上げると、彼にそう言った。
「わ、分かりました。早速、取り掛かります」
自分の案を受け入れてもらった事を喜んだのだろう。若者はそう言って、すぐに振り返って自分の席に戻った。そこには、航法支援システムを操作するためのコンソールが備えられていた。彼はすぐさまシステムにログインすると、シミュレーションの準備を始めた。手元のパッド型の端末から航路データをアップロードすると、演算用のリソースを主幹システムにリクエストする。
「航海長、シミュレーションの為のリソースをリクエストしました。承認をお願いします」
ほとんど同時に、航海長の持つ端末に、メッセージボックスが表れていた。
「分かった。……承認完了。済まないが、今日も残業になるな。悪いが、もう少し頑張ってくれ給え」
航海長は、端末を操作した後、若者に向かってそう声を掛けた。
「了解です。待ってて下さいよ。最適の航路データをはじき出して見せますから」
腕まくりをしてキーボードに指を走らせる若い航法士の背中を見て、航海長は、我知らずいつもの硬い表情を少し崩していた。
そんなところへ、また別の方向から声が掛かった。
「航海長。第三プランのシミュレーション結果が出ました。データを転送します」
こちらは、やや嗄れた感じの声──年配者のようであった。
「ああ、頼む」
航海長は、再び目線を大テーブルの星間マップに移した。
先程と同じように、今度は黄色の破線が現在位置と目的地を結んだ。所々に吹き出し状のウィンドウが表示され、数行のメッセージと数値が示されている。
「ふむん。こちらもか……。やはり鍵となるのは、『大遠距離ジャンプ』か」
彼の顔は、又しても憂いに満ちた表情に戻った。
「悩み多き時じゃな」
そんな航海長の肩を、ポンと叩く者があった。
「水崎さん……」
そう言って彼は振り向いた。そこに居たのは、白い髭を蓄えた小柄な老人だった。頭髪は耳の上に僅かに白い物を残しただけで、殆どない。
「なに、航海長が部下に謙っとるんじゃ。もっと堂々としなさい」
老人はそう言うと、片目をつむってウインクをした。歳に似合わない茶目っ気だったが、彼にはよく似合っていた。
「しかし、私は未だまだ若輩者です。今回の操船も、あれで良かったのか……」
航海長はそう言うと、少し俯向いた。
若干三十二歳でギャラクシー77の航海長に就任した彼は、財団傘下の養成学校を主席で卒業していた。その脳髄に秘めた知識と、それを操る類まれな才能は、彼をして数十年ぶりに現れた秀才と言わしめた。
だが、それでも、経験が足りない。
そんな彼を支えるために、水崎が補佐として任命された。経歴こそパッとしないものの、若い頃に第七十七太陽系航路開拓に携わった経験に裏打ちされた老人の判断は、船長や航海長も含めた全運行スタッフが全幅の信頼をおいていた。
「そうじゃな。ワシでも判断に迷う。今回もまた大勢の生命が失われてしもうた……」
老人は、ひとしきり目を瞑っていた。その脳裏には、誰の顔が、幾つの顔が、浮かんでいるのだろうか。
「水崎さん……」
航海長が不安気に声を掛けようとした時、老人は突然に目を開くと、
「じゃが、ワシ等は未だ生きとる!」
と、力強い声を発した。
「船は健在だ。失ったものは大きいが、全てを奪われた訳ではない。ワシ等の役目は何じゃ? 君は、答えをもう持っているだろう」
ニッと笑って見返す老人の顔は、それを見ただけで元気が出てきそうなものだった。
「はい」
顔を上げて応える航海長の顔には、もう迷いは見えなかった。
彼はくるりと振り返ると、部屋全体に轟くような檄をとばした。
「今日中に航路を決定するぞ。今は慣性航行中だ。ありったけの演算リソースを投入しろ。一日でも早く辿り着ける航路を算定してみせろ」
その声に、室内の全ての航法士から力強い返事があった。
『了解』
今日が終わるまで後五時間。それまでに、彼等は航路を見つける事が出来るのだろうか?
「心配無い。必ず上手くいくよ」
呟くような老人の声は、果たして航海長に聞こえたのかどうか……。




