ひらめき(3)
茉莉香は、保健室のベッドで静かに眠っていた。傍らに立つ健人は、それを黙って見下ろしていた。
──茉莉香は綺麗だ
健人は、なんとはなくそう思った。茉莉香はドイツ人とのクオーターと聞いている。肩にかかるくらいの髪の毛は、息を呑むような漆黒で、健人はその黒を美しいと思っていた。
──茉莉香は、柔らかそうだ
年頃の少女は、ふっくらとして柔らかそうな身体をしていた。自分とは違う。健人はそう思った。
──茉莉香は、かわいい
物心ついた時から、隣同士のアパートに住んでいた二人は、よく一緒に遊んだ。茉莉香が母子家庭ということもあって、食事などを健人の家で一緒に食べることもよくあった。
幸せそうに眠っている茉莉香の首のネックバンドが、時折、室内灯にさらされてキラリと反射光を飛ばす。
同じ物は、健人の左腕にも巻かれていた。移民を除いて、ギャラクシー77の乗員の半数近くが、この赤銅色の金属バンドを、どこかしらに身に付けていた。どうしてかは分からない。気にしたこともなかった。しかし、今、健人は、茉莉香の細い首のネックバンドを見て、綺麗だと思っていた。
「う、う~ん」
ベッドの上の茉莉香が、声を上げた。そして、薄目を開くと深く息をした。
(もうそろそろ起きるかな)
健人は、ただ、側に立っているだけで、積極的に茉莉香を起こそうとはしなかった。
目を開いた少女は、ふと、健人の方を向いた。そして、しばらくじーっと彼の方を見ていた。
細かった目が、段々大きく開いていく。
「あ、あれ。健人、どうしたの?」
茉莉香が、ホワンとした声を上げた。
「お早う、茉莉香。よく眠れた?」
健人がそう訊いた。
茉莉香は、左腕で目をこすると、もう一度健人を見上げた。
「あたし、どうしたんだっけ? ふぅわぁ、眠い」
彼女はベッドの上で、大きなアクビをした。
「覚えてないのか? おまえ、『ジャンプ酔い』になって、ここに運ばれたんだ。大丈夫なのか?」
健人の言葉を聞きながら、茉莉香は今日一日の出来事を反芻していた。『ジャンプ酔い』? 何だっけ?
「あ、ああっ。『ジャンプ酔い』! そうだった」
茉莉香はそう叫ぶと、両手でシーツを引っ張りあげた。そのまま頭の天辺までシーツの中に潜り込む。
そうだった。『ジャンプ酔い』だ、『ジャンプ酔い』。なんて恥ずかしいことだろう。しかも、健人に寝顔を見られた。何たる失態。恥ずかしい。なんて恥ずかしいんだ。
茉莉香は、一時恐慌状態になっていた。それを必死に押し隠そうと、シーツの中で丸くなっていた。
「け、健人は、何してるのよ。あんたも『ジャンプ酔い』?」
茉莉香は、何とか心臓の鼓動を抑えようとしながら、シーツの中から尋ねた。
「俺かぁ。俺は、授業が終わったから、迎えに来たんだよ。保健の先生は、「これだけ眠れるんだから大丈夫だろう」、だってさ。起きたら帰っていいって」
それを聞いた茉莉香は、シーツを噛み締めながら、焦っていた。
(う~、半日も寝てたなんて、不覚。しかも『ジャンプ酔い』で。まるで、移民みたいだ。こんなのあたしじゃない。どうしよう、どうしよう、どうしよう)
「茉莉香、どうかしたか? また気分が悪くなったか? 保健の先生、呼んでこようか?」
それを聞いた茉莉香は、シーツを跳ね除けて、ガバっと身体を起こすと、
「大丈夫! もう何ともない。そ、そうだ、荷物取りに行かなくちゃね」
と、健人から顔を背けるようにして言った。
「茉莉香、顔が赤いぞ。熱があるんじゃないか? やっぱり、保健の先生を呼んでくるわ。あっと、荷物ならここに持って来てるから。授業の内容は、ノートパッドにコピーしているから、今日中に読んどけよ。宿題も俺が解いたのをコピーしといた。感謝しろよな」
健人はそう言って、保健室を出ようとしていた。
「待って。あたしは大丈夫だから。大丈夫。うん、大丈夫よ」
彼女は出ていこうとする幼馴染を呼び止めた。
「ほんとかぁ。息が荒いぞ。もう少し、寝ておくか?」
顔見知りに、これ以上の失態は見られたくない。さっさと家へ帰りたかった。
「大丈夫。本当に大丈夫だから。帰ろう。もう、夕方なんでしょう」
茉莉香は、動揺を隠すように、早口で喋った。
「ああ、そうだな。茉莉香、立てるか? 手、貸そうか?」
そういう健人に、茉莉香は、
「うん、大丈夫。一人で出来る。に、荷物、ありがとうね」
と、出来るだけ感情を抑えて応えた。
「そうかぁ。じゃぁ、一緒に帰ろう。また、倒れたら困るからな」
そう言う男の子に、彼女は、
「もう、こんなのは無いよ。今日は、もう『ジャンプ』は無いでしょう」
と、言った。
「そうだけど……後遺症があったら困るだろう」
彼の方は、未だ心配が消えていないらしい。
「『ジャンプ酔い』に後遺症なんてあるの?」
「知らないけどさぁ。あったら困るって事。先生にも頼まれたからさぁ」
彼らにとっても、『ジャンプ酔い』は未知の症状だ。不安が無いと言えば嘘になる。
「そ、そうなの? じゃ、じゃぁ、一緒に帰ってあげるわ。健人、荷物持ってくれる?」
茉莉香はそう言って、ベッドの端に腰掛けた。少し意地の悪い頼み事なのは、照れ隠しだ。
「えー、俺、荷物持ちかよぉ」
健人は、あからさまに嫌そうな顔をしていた。
「だって、あたしは病人でしょう。男の子だったら、それくらいのいたわりはあっていいんじゃないの」
茉莉香の足は、床のサンダルを探していた。時々横目でチラチラと健人の様子を伺う。
丸まったシーツは、もう一度広げて無造作に畳んだ。まぁ、ここに置いておけば、後は保健師のおばちゃんがしてくれるだろう。
健人は頭を掻きながら、
「しようがないなぁ。今日は特別だぞ」
と言うと、ベッドの横に置いてあった茉莉香の荷物を取り上げた。
「あ、端末は頂戴。何かメッセージがあるかも」
ベッドの上の少女は、そう言って彼を振り返った。
「おう、ちょっと待て。……ほらよ」
健人は荷物の中から、手の平サイズの多機能端末を引っ張りだすと、茉莉香に手渡した。
「ありがと、健人。えーっと……、あ〜あ、メッセージが六件もきてる。全部お母さんからだ。こんなの、わざわざ連絡しなくっても良かったのに」
少女は、面倒臭そうに端末に指を走らせていた。
「おばさん、心配してるだろ。何か返信した方がいいぞ」
少年の言葉に従って、茉莉香は返事を送ろうと端末を操作した。
「そうだね。……えーと、『心配いりません、今日は健人が送ってくれるから大丈夫。家でおとなしくしてます』……で、送信。これでいいかな」
茉莉香は、健人を見上げるとそう言った。もう動悸は収まっている。顔も赤くない。よし、いつものあたしだ。そう心の中で思うと、茉莉香は、ベッドから立ち上がった。大丈夫。足もしっかりしている。
「自分で立てるんなら、もう大丈夫だな。じゃぁ、帰るか」
「うん。帰ろ」
茉莉香はそう言うと、荷物を二つ抱えた健人に続いて、保健室を出た。
薄暗い部屋の中で、老人は安楽椅子に身体を預けていた。彼はこの船のパイロットである。
「よう、爺さん、具合はどうだい」
野太い声が、老人を浅い眠りから呼び戻した。
「ああ、……機関長か。エンジンの調子はどうだね?」
機関長と呼ばれた男は、安楽椅子に近づくと、無遠慮に話しかけた。
「ESPエンジンのことかい? 大丈夫、問題なしよ。さっき、目一杯飯を突っ込んできたところよ。今は、半休眠状態。通常運転さ」
「そうか。なら、良かった」
「爺さん、具合悪いんだって? 大丈夫か?」
「そうさなぁ、わしももう歳だからかなぁ。今も夢を見ていたよ」
「夢?」
「そう、夢。……わしは、可愛らしい女の子を見下ろしていたよ。華奢な黒髪の綺麗な子だ」
「女の子? そりゃぁ、いい夢だったね」
「わしがこの船のパイロットになって、かれこれ五十年。……長かった。じゃが、わしがパイロットになったのは、三十五の時だった。しかし、あの娘はまだ、十代だ。人生の良いところも、悪いところも、未だ経験していない。不憫だと思うよ」
パイロットは、一言々々、噛みしめるように言った。
「爺さん、跡継ぎが見つかったんだ。そんな事を言わずに、少し楽にしたらどうかね。あんた、まだまだ生きられるんだろう」
機関長は、なだめるように年老いたパイロットに言った。
「理論上はな」
老人は応えた。
「理論上は、未だ五年ほど生きられるそうだ。だが、ESPエンジンの操縦は、脳を酷使する。お別れの時は、思ったより早そうだ」
老パイロットは、そう続けた。
「おいおい、爺さん。まだ死なれちゃ困るんだよ。あんた抜きじゃ、ESPエンジンは動かせねぇ。ESPエンジンが止まるってことが、どんなことだか知ってるだろう」
機関長は、老人の寿命が近いと知らされて、少し興奮していたのかも知れない。
「あんたは、ESPエンジンのパイロットだ。次が決まるまで、生きててもらわないと困るんだよ。船長だって、そう思ってるさ」
安楽椅子に寝そべっているパイロットは、深く息をすると、
「船長か……。ヤツにも世話になったな。さっきも言ったが、わしはもう長くない。新米パイロットに教えなけりゃならないことが、たくさんある。それまでは……、死なんよ」
静かに語る老人とは対称的に、でっぷりと腹の出ている機関長は、こう話した。
「約束ですぜ、爺さん。あんたとは、まだ話したいことがいっぱいあるんだ。昔の地球のこととか、……いろいろだ。前みたいに、酒呑んで、昔噺をしてくれよぅ」
機関長は、まるで小さな子供のように、老人に頼んだ。
「分かった、分かったよ。お前さんも、もう機関長だというのに……。新米の機関士の頃から、全然成長しとらんな。……ああ、分かった。約束するよ。近いうちに機関長と船長と、……そうさなぁ、航海長も呼んで、皆で呑もうか」
ゆっくりと切れ切れに言葉を繋ぐ老人に、機関長は念を押すように言い足した。
「約束ですぜい。代替わりしても、次のパイロットは未だまだ子供だ。あんたがしっかりしてもらわなくちゃ、クルーが困るんだ。隠居しても、元気でいてもらわなくっちゃ」
機関長にそう言われて、パイロットは、深い皺の中にかすかな微笑みを浮かべていた。




