ひらめき(1)
──お早うございます。ただいま、グリニッジ標準時、午前七時をお知らせします。
見渡す限り、灰色の樹脂と金属で作られた景色の中に、明るい女性の声が響き渡った。
──船内気温は二十三度、湿度は六十五パーセントです。本船は現在地球より約二千光年の位置を航行中です。次回の『ジャンプ』は、午前十時を予定しております。
ここは、第七十七太陽系に向かう宇宙船──ギャラクシー77の船内である。約百二十年前に、三人の科学者によって発明された超光速推進機関によって、人類はその版図を大きく広げる事になった。当時、大問題となっていた『人口爆発』とそれに伴う多くの危機は、太陽系外の地球型惑星への移民と言う形で、何とか解決することができていた。
ギャラクシー77は、第七十七太陽系へ移民を送り、そこから各種資源を地球に持ち帰るという航海を、既に二百回近く行ってきた。光の速度でも片道五千年近くかかる航海を、ギャラクシー77は半年で行えるのだ。
ギャラクシー77以外の船も含めて、太陽系外への『移民』と『資源の持ち帰り』によって、再び地球は息を吹き返した……ように見えていた。
(君は誰だい? そこにいるのかい? ……わしの事が判るのかい。ならば、……はやく……)
薄いシーツの下で、彼女は目を覚ました。ベッドには鈍い色の光が照らしていた。
「……だ、れ?」
また同じ夢? 彼女は薄ぼんやりとした意識がしっかりするまで、天井の照明を眺めていた。
目覚めてしばらくすると、目に、机の上でチカチカと点滅する光が飛び込んできた。そこには掌くらいの大きさの長四角のパネルが置いてあった。パネルの表面には薄い白地でメッセージが書かれていた。
『お早う茉莉香。お母さんはお仕事に出かけます。朝ご飯は食堂に用意してあります。元気に学校に行ってね』
彼女は、メッセージを頭の中に流し込んだ。同時にさっきの夢のような言葉の内容は薄れていった。今ではなんの事であるかすら、思い出せない。
「今何時だろう?」
彼女はパネルを取り上げると、画面の隅へと目をやった。
『8:01 GMT』
と表示されている。
「あ、ヤバッ。遅れちゃう」
彼女はベッドから飛び降りると、シーツを丸めてその上に放り投げた。
急いで壁際まで行くと、引き戸を開けた。中にはいくつかの洋服が吊り下がっている。彼女はその中から、無造作に白っぽい服を掴むと、頭からかむった。
シャツの裾を少し整えると、床に転がっていたデニムのパンツに足を突っ込んだ。
こんなところを母親が見たら、何と思うだろう? 年頃の少女と云うのに、茉莉香は無頓着だった。両手で首の周りの黒髪をすくい上げると、背中に跳ね飛ばした。首に巻かれている、赤銅色のネックバンドが鈍くきらめいていた。彼女にとって、それはほとんど唯一の『邪魔にならない』アクセサリだった。
大きなアクビをしながら自室の扉を開けると、食堂へ向かった。テーブルの上には、サンドイッチとサラダの小鉢が置いてあった。
茉莉香はサンドイッチを一つ取り上げて口の中に押し込むと、隅においてある冷蔵庫の扉を開けた。いつものように野菜ジュースの紙パックを取り出すと、食器棚から掴み取ったコップに注いだ。口の中のサンドイッチをハムハムして飲み込むと、彼女は野菜ジュースでそれを胃に押し流した。
残りのサンドイッチを取り上げた彼女は、それをくわえると、自室に戻った。机の上に投げ出してある小さなカバンを掴むと、また出口へ向かった。
未だ口にはサンドイッチがぶら下がっていたが、彼女は気にしない。そのまま、玄関でサンダルを引っ掛けると、扉を開けた。目の前には灰色の壁と、彼女のアパートと同じような開き戸が並んでいた。
ここは、宇宙船の中。彼女の母娘のようなごくありきたりな中流家庭では、三部屋の小さなアパートは普通だった。
彼女の母は、この船内の食堂で働いている。移民ではない。
移民はキライだ。野蛮で不潔だから。
茉莉香がアパートの扉を閉めると、小さく<ピッ>と電子音が鳴って、扉がロックされる。殺風景な扉の並んだ廊下を向かって左に歩き出そうとしたら、隣のドアが開いた。中から、茉莉香と同じくらいの背の少年が出て来た。
「お、茉莉香。学校、遅れるぞ」
「健人か。余計なお世話よ。先に行くよ」
彼女は隣の幼馴染を無視するように答えると、サンドイッチをクチャクチャさせながら、小走りで廊下を走っていた。
(あっ、しまった。トイレに行っていない。仕方ないや。学校で行くかぁ)
茉莉香は、手にした多機能端末の表面に指を滑らせて、SNSの内容を斜め読みしながら、学校のある方向へと、自分の足で進んでいた。
宇宙船の中と云っても、ちゃんと重力はある。超光速推進機関──ESPエンジンと呼ばれる機関の開発に伴って、人工重力発生装置の技術も人類は手にしたのだ。
ESPエンジンの動いている間は、電力の心配も、水や空気の心配もいらない。ESPエンジンは、真空中からフリーエナジーを無尽蔵に汲み上げることができる。
そんな事は誰でも知っている。幼稚園で習った。
ギャラクシー77の中で生まれ育った彼女らには、当たり前の事だった。
食材だって何だって、『プラント』が生産してくれる。水だって空気だって、当たり前のようにある。
片道半年を要する長い航海は、擬似的な地球環境抜きでは、人間に大きなストレスをかける。人が人として暮らすには、やはり人の作った人間らしい食事や環境が必要だった。
ESPエンジンは、そこまで面倒を見てくれない。
茉莉香には、どうして母親が食堂に勤めているのか、イマイチ理解できていなかった。宇宙船に生かされてきた彼女には、働くということがよく分かっていなかったのだ。
別に今の暮らしに不満があるわけではない。移民と出くわして、嫌な思いをすることはあったが、地球と呼ばれるあの青い星には興味は無かった。かと言って、第七十七太陽系の緑の星に興味があるわけでも無かった。
自分は船で生まれて船の中で大きくなった。船に生かされているという思いはあったが、一部の人達の言っているような信仰の対象にしているわけではない。
自分も母親と同じように、いつか学校を出て働くんだと、漠然と思っていた。
(そうやって、そのうち誰かと一緒になって、家庭を作るのかなぁ)
彼女は、学校への廊下を進みながら、ボンヤリとそう思っていた。
「おい、待てよ。先に行っちゃうなんてヒドイじゃないか」
さっき会った健人であった。走って追いかけてきたのか、肩で息をしていた。
「別に。時間だから」
茉莉香は、振り向きもせずにそう言うと、歩みを早めた。
「なっ、待てよぉ」
「何よ、手でも繋いであげないと、歩くことも出来ないの。足、付いてるんでしょ」
「見れば分かるだろう、そんなの。一緒に学校へ行ったって良いじゃないか」
「どうせ隣の席なんだから。行きも一緒なんて面倒」
「じゃぁ、いいや。先に行っちまうぞ」
健人はそう言うと、全力疾走で、学校のあるブロックへと走って行った。
彼も移民ではない。彼女らのクラスには移民は居なかった。
金のある移民なら、子供を学校に行かせる。もっと金を持っている移民は、家庭教師を雇う。
しかし、大多数の移民はそうではなかった。船に乗って、行く。ただそれだけで、全財産と借金を抱えて、乗り込むのだ。船に移民のする仕事はない。食事と水と空気だけは、切符代に込みだ。だが、他は無しだ。
だから移民は物乞いをする。
だから移民は貧乏だ。
だから移民は汚い。
だから移民はキライだ。
彼女達は、普通に移民への差別意識を持っていたし、それを差別とも思っていなかった。
茉莉香は違う。自分は船の乗組員だ。移民じゃない。
移民を養うのは船の仕事だ。仕方がない。しかし、それと自分が移民に関わるのとは違う。あたしは移民じゃない。
大きくなっても、移民を養う仕事は嫌だ。移民を扱う仕事をするのは、もっと階級の低い乗組員の仕事だ。自分のじゃない。
茉莉香はそう思いながら、学校への通路を急いでいた。