第18話
三人で回る時間は思いの外楽しくて、その間だけは現実の考えたくはない辛い事柄を忘れていることが出来た。
蒼大母も以前に会ったときよりも大分顔色が良くなったような気がした。体調の方もそうだが、今まで見られなかった前を見ようとする希望のようなものを感じた。
「みどりちゃん。私ね、百合という名前なの。お母さんと言われるのは嬉しいけれど、そう呼ばれたらもっと嬉しいと思うの」
まるで年頃の乙女のように、両頬を手で覆って恥ずかしそうにそう言った。
「年甲斐もなく名前で呼んでほしいんだと」
咄嗟に反応出来なかった私に、侑大さんがフォローするように言った。
「あの、百合さんと呼んでも良いんですか?」
「ええ、そう呼んでくれたら本当に嬉しいわ」
それはそれは嬉しそうに言うので、うんと年上の女性を名前で呼ぶのは違和感と抵抗があったが、そんな本音をこぼすことは出来なかった。
私たちは、時間一杯使ってあらゆるところを回った。
私を知る人に会うと、不思議な組み合わせの私たちに対して好奇心を含んだ眼差しを遠慮なく向けられた。母親と思われる年代の女性も隣に立つ男性も私とは似てもにつかないのだから仕方ない。見られてはいてもその関係を訊ねられないのは、複雑な関係性を彼らが勝手に想像しているからなのだろう。それに加えて、侑大さんの煩わしそうなするどい眼差しに怯んでいたとも言えた。
とにもかくにも私たちは心ゆくまで文化祭を楽しんだ。
「なんかあったのか?」
こちらを見もしないで、問いかけられたのは百合さんがトイレに行っている僅かな時間のことだった。
「何かって?」
「お前は顔に出やすい。そんな顔して何もないと言うつもりか?」
私の様子がおかしいことをずっと心配してくれていたのだろうか。
侑大さんの顔を見上げてみたが、こちらを見ることはせず、まるで私とは会話をしていないかのように明後日の方向を向いていた。
「話してみろ、聞くだけ聞いてやる」
その不器用な優しさについ笑みをこぼして、睨まれてしまった。
「蒼大が最近姿を見せてくれません。ただ、それだけです」
なるべくしんみりとしないように、何でもないことである風に言葉に心を籠めないように努めて言った。
「それだけって、お前」
「蒼大はきっと私とさよならするつもりなんですよ」
「笑うな、馬鹿野郎」
「笑ってなんか」
「笑ってるだろ。馬鹿みたいに不細工な顔して」
「酷くないですか? そこまで言わなくても」
笑っているのに笑えていないのだろう。自分でも酷い顔をしているのは解っていた。けれど、こんな楽しい日に涙は流したくはなかった。
「本当にあいつは来年の夏を待たずにお前と別れるつもりだと思ってるのか?」
「だって、そうとしか思えないもの」
「ちゃんと話せ。あいつにだってなんかわけがあるだろ。あいつは何もいわずに離れていくような奴じゃない。双子の俺が言ってるんだ。信じろ。信じて、あいつを待て」
根拠も何もない。私を元気付けるために言ったに過ぎないのかもしれない。それでも侑大さんの言葉は私を勇気づけてくれた。蒼大のことを無条件に信じられるような気がした。
蒼大とはどのくらい会っていないのだろう。
文化祭が滞りなく終わって、侑大さんの励ましもあって蒼大が姿を現すのをまだかまだかと待っていた。侑大さんに言われた励ましの言葉はとても大きくて優しいものであったが、一日一日と日を重ねるごとにその効力も薄れていくようだった。
もうあと一日蒼大が現れなかったら、私は壊れてしまうかもしれない。そんな漠然とした想いを抱えているその日に、蒼大はひょっこりと姿を現した。
「蒼大っ」
私の今にも泣きだしそうな姿に心底驚いたのだろう、驚いた表情をした後、酷く申し訳なさそうな顔をした。
「どこに、行ってたの? もう、お別れなの?」
「みどり。心配をかけてしまったんだね。ごめん。どうしてもしなければならないことがあったんだ。ごめん、みどり。泣かないで」
感情的に泣き出してしまった私に、いつもなら手を差し伸べることも出来ずに途方にくれた顔をしながら隣りに座っているだけの蒼大が、その日は違った。
私の正面に立つと、手を伸ばし頬を伝う涙を拭った。
ほんの一瞬のことでよく解らなかった。一時触れた蒼大の手は、冷たかっただろうか、柔らかかっただろうか、優しかっただろうか。ただ、触れられたことだけは、確かだった。
「蒼大」
「良かった。ホッとした。まだ少し自信がなかったんだけど、みどりに触れることが出来た」
「蒼大。私に触れるの?」
「ずっと悔しかったんだ。他の人がみどりに触れるのを見るたびに、一番みどりに触れたいと思っているのは俺なのにどうして出来ないんだって。霊にもネットワークがあってね、たまたま聞いたんだ。物体に触れることが出来る霊がいるってこと」
「じゃぁ、蒼大はその人に会いに行ってたの?」
蒼大がにっこりと微笑んで頷いた。久しぶりの蒼大の笑顔に全神経が緩んでいくのが解る。今までの不安が一気に払拭していくようだ。
「その人がいるところは、ちょっと遠くてね。まるで仙人みたいに山の奥で隠れて暮らしているんだ。その人に物体に触れる方法を教えてくださいって頼み込んだんだ。最初は適当にあしらわれて話を聞いてもくれなかったけど、俺があんまりにしつこかったんだろうね、とうとう了承を得た。初めは、ここから通いながら教えて貰っていたんだけど、距離が距離だし出来るまで向こうにお世話になることにしたんだ。みどりは、体育祭や文化祭の準備で忙しそうだったから、大丈夫だろうって思ったんだ。言わなかったのは、みどりを驚かせたかったからだけど、こんなに心配をかけるのなら話していけばよかったね。本当にごめんね」
要は蒼大は仙人に弟子入りして、修行を受けていたのだ。
「蒼大。手、握って」
手を差し出すと、ゆっくりと蒼大の手が降りてくる。これまで、通り過ぎてしまうことが怖ろしくて出来なかった行為だ。
「少し冷たいのね」
初めて触れた蒼大の手はひんやりとしていた。
「霊には体温がないから。その辺にある物と同じなんだ。そこに置いてある分には特に温度が変わることはない。けれど、ずっとそれに触れていたら人の体温が移って温かくなるよね。俺たちもそうなんだ。みどりにずっと触れていたら、そのうち温かくなるよ」
「そっか、そっかぁ」
重ねられた手を見たまま涙する私を蒼大はそっと抱きしめた。
それは、普通なら他愛のない出来事かもしれないが、私たちにとっては特別な出来事だった。




