第16話
「ごめんなさいね、みどりさん」
「いいえ、いいんです。私こそ碌なものが作れなくてすみません」
侑大さんが戻って来た時の有り様はきっと壮絶なものがあっただろう。侑大さんが怯むほどに酷い状態だった私たちはそれでもとても清々しさを感じていた。そして、空腹も感じていたのだ。
二人同時に感じた空腹に、お腹の虫も盛大な泣き声を上げた。
泣き疲れて動けなくなってしまった蒼大母に代わって私が夕食を拵えたのはいいが、普段からそんなに料理をする方ではないため少し黒めの料理が出来上がってしまった。
全く出来ないわけではないのだ。一通りの料理は母からきちんと習ってはあった。だが、久しぶりに庖丁を握った私はしばらく途方にくれた。
料理ってどうやって作るんだっけか……。
調理が進むうちに少しずつ勘は取り戻しつつあったのだが、見るも無残な出来上がりになってしまったことは否めない。
見た目は残念な私の料理だが、お味の方は大丈夫と自負している。
「見た目は残念ですけど、味は大丈夫なはずですからっ」
侑大さんの訝しげな視線に言い訳するように高らかに宣言した。仕方なしに口に運ぶその様子を固唾を呑んで見守る。
「食えなくはない」
微妙な評価ではあるが、一口含んで表情が微妙に明るくなったところを見ると彼なりの褒め言葉であると認識して良さそうだ。
「それは良かったです。お母さんも大丈夫でしたか?」
「ええ、とても美味しいわ。ごめんなさいね、侑大は褒めることもできないの。もっと気の利いた事でも言えればいいんだけどね」
困ったわ、と眉を八の字にして溜息を吐く姿に侑大さんは決まり悪そうに視線を逸らす。
「いいえ、十分です。褒めてもらったんだとなんとなく解りますから。もし、次の機会があればもっとおいしいものを作って見せますからね」
頼もしいわ、と蒼大母は優雅に微笑んだ。蒼大母は食事を取る作法も美しい。自分の口に合った適量を寸分たがわず箸で運ぶ姿は見ていて気持ちがいい。
それと相反して、侑大さんはまるで小学生のように茶碗に口を付けてかきこむように食べている。ご飯は逃げないから落ち着いて食べなさい、と注意したくなるほどだった。
「何だよ」
私の視線を感じたのか、睨みつけてくる。
「別に侑大さんのご飯を取ったりはしませんから」
自分の取り分を狙われているとでも思ったのか、皿を隠すその姿は大の大人とは到底思えない。
色んな意味で見た目とのギャップに苦しむ。イヤ、案外そのままなのかもしれないが。
「お前、食べきれないようなら俺が食べてやってもいいぞ」
「どんだけお腹減ってるんですか」
いいですよ、と仕方なく侑大さんの方に皿を寄せた。
私が久しぶりに作った生姜焼きを一枚、遠慮なく自分の皿の上に乗せた。
よほど空腹だったのか、たまたま生姜焼きが侑大さんの大好物だったのかは知らないが、そのがっつき具合は料理人としては嬉しいものがある。
「侑大はね、生姜焼きが大好物なの」
どんぶりご飯を豪快にかきこみ、お代わりもしている姿は育ちざかりの少年を見ているようだ。もう20も半ばを過ぎているとは思えない食べっぷりだ。
「それは良かったです」
もう侑大さんは私と蒼大母の会話も完全に無視していた。
そこまで夢中にならなくても……。
「すごかったですね。あんなにがっつりと食べる大人の人を初めて見ました」
「うるせぇな。昼、飯食えなかったんだからしょうがないだろ。腹減ってたんだよ。まずいお前の飯を残さず食ってやったんだから感謝しろよ」
まずいと思っていたようには見えなかったが、そこのところはあまり突っ込まないようにしよう。
「侑大さん。すみません、お母さんをあんなに泣かせてしまって」
夕暮れというよりももう日は暮れ、夜になっていた。ほんの少しの蝉と秋の虫の音が混ざり合って聞こえている。
もう夏も終わりだ。
色々なことがあった夏がとうとう終わりを告げる。
やり残した夏休みの宿題を早々にやっつけてしまわなければならない。宿題という存在を思い出し、苦いものが口の中に広がった。
「いいんだよ、母はあまり泣いてなかったからな。うちに溜め込むのは良くないと言ってはいたが、泣くことを強要することは出来なかったから。……感謝する」
外灯と外灯の間の薄暗い場所、侑大さんの表情は確認できなかったけれど、微笑んでいるような気配を感じた。あの侑大さんが。その表情を確認できないのが残念でならない。
「お役に立てたのなら光栄です」
「写真は貰ってきたのか?」
「いえ、貰いませんでした」
「なんでだ?」
「私って結構嫉妬深いんです。自分自身今まで気付かなかったんですけど……。どの写真にも涼音さんが写っていて、涼音さんを愛おしそうに感じている蒼大がいました。過去のことで気持ちの精算も出来ていて、もっとも涼音さんは既に結婚しているのに、それでもその写真を手元に置きたいとは思えなかった。あそこにいるのは私を思っている蒼大じゃないから。他の誰かを想っている蒼大だから。きっとあれを持っていても私は、幸せな気持ちにはなれない」
「そうか」
侑大さんの返事はそれだけだった。
そしてしばらくどちらも黙って足だけを進めた。
私の気持ちを馬鹿にされることも、変に慰められることもない。そのことに少なからず感謝していた。今の私には否定も肯定も必要なかった。ただ、聞いてもらいたかっただけだ。そのことを解ってくれているようにだんまりと隣りを歩く侑大さんは、やはり蒼大と似ていた。類似点など顔以外にはないと思っていたけれど、そんなことはない。
その他人との間の取り方、さり気ない気遣い、他者を思いやれる態度。きっともっと二人には類似点が探せばいくらでもあるのだろう。でも、それ以上はしない。二人はいくら似ていても違う人間だからだ。類似点を見つけることに何の意味もないのだから。
「それじゃな」
家の前までしっかりと送ってくれて、その言葉だけを告げてさっさと去っていく後姿を、見えなくなるまで見送った。
その姿が蒼大と重なって、無性に悲しくなった。




