美沙
「この前は、ありがとうね」
大きな出窓に腰掛け、美沙は携帯に甘く囁いた。
「もう、やっとよ。なんとか片付けたけど、もうくたくた」
開け放した窓からは、爽やかな風が入り、美沙の長い髪をそよがせる。
「……うん。それじゃ、また後でね」
通話を切り、美沙は出窓からの景色を眺める。
そこは大きな公園で、風に揺れる新緑と、青い空、真っ白な雲のコントラストは、まるで一枚の絵画を切り取ったかのようだった。
ここにして良かった。
ふうっと、一つ大きく深呼吸して、美沙はそのまま部屋の中を眺めた。
すべて新調した家具は、白で統一されていた。
憧れのギリシャのミコノス島をイメージしたインテリア。完璧だわ。
美沙の頬が自然と緩む。
突然、携帯からオルゴールの曲が鳴り、着信を知らせる。
着信音から電話の相手を知り、美沙の顔は一気に緊張する。ボタンを押す指が微かに震える。
「はい。山科です」
「住共生命の石井ですが、お世話になっております。失礼ですが、石井美沙様でしょうか?」
「はい。そうです。お世話になります」
美沙は自分の胸の鼓動が速くなったのを感じ、出来るだけ冷静にと、意識して呼吸をゆっくりにした。
「御主人様の生命保険の件について、ご確認のお電話をさせて頂きましたが、お時間の方、よろしいでしょうか?」
「はい。かまいません」
「ありがとうございます。では、早速ですが……。保険契約者様が山科隆志様、受取人様が奥様の山科美沙様名義の生命保険金のお支払いですが、無事にすべて完了致しましたので、遅ればせながら、ご確認のお電話をさせて頂きました。もうご確認の方はおすみでしょうか?」
事務的な男性の声に、美沙は少しほっとする。
大丈夫。大丈夫。何もばれちゃあいない。
それでも、携帯を持つ手の震えは止まらない。
「はい、確認してます」
「左様でございますか。それでは、大変申し訳ありませんが、受取り確認の書類の送付は、もうお済でしょうか?」
「え? ああ。ご、ごめんさない。忙しくてつい……。すぐに、明日にでも送ります」
「ありがとうございます。それではよろしくお願いいたします。お忙しいところ、申し訳ありませんでした。では、失礼いたします」
通話を切り、美沙は安堵の息を吐きだした。
しかしすぐに気を取り直し、浴室に向かう。
急がなくちゃ、約束の時間に遅れる。
美沙は素肌にタオルのみを羽織り、急いで鏡の前座るとドライヤーで長い髪を乾かす。
ベットの上にはイブニングドレス。
プレゼントされたピアスとネックレスが映えるように黒のシックな物をあえて選んだ。
手際良く髪形をセットし終え、化粧も終えると、するりとそのドレスに身を包む。
よし。
鏡の中の美沙は極上の笑みを浮かべ、弾む心を抑えきれず右に左にとターンする。
「え?」
その時、美沙はある違和感を感じた。
影が、鏡に映る美沙の影だけが床に張り付いたまま、ピクリとも動かなかった、ように見えた。
そんな事……。気のせいよ。
振り返り、実際の影を見つめる。
美沙の影は出窓からの光を受けて、寝そべるように床にあった。
そっと、一歩を踏み出す。
影は一歩後退する。
ほら、気のせいよ。
美沙がそう思った矢先、窓からの光がさっと陰った。
すると、消えてなくなるはずの影が、濃さを増し、その輪郭をはっきりと現した。
しっかりとした肩幅に、なかなかの長身。
美沙にはその影に見覚えがあった。
まさか! そんな!
驚きのあまり身動き一つ出来ない美沙とは対照的に、影の真っ黒な手がすっと振り上げられた。
そしてそこには、鋭利な刃物らしき影。
隆志、あなたなのね。
美沙がそう思ったのと、影の腕が振り下ろされたのは、ほぼ同時だった。