真実
あれから二週間が経った。
彼女とはあの日以来、会っていなかった。
結局のところ僕には、死を前にしても命を投げ出す覚悟なんて、なかったのかもしれない。それは、おもちゃ売り場で駄々をこねている子供と同じだった。
誰かに甘えている、そんな自分が大嫌いだと、そう思った。
1
日曜日の朝、空は曇っていて今にも雨が降りそうな、そんな感じだった。
朝食のパンを苺ジャムで二枚平らげて、それから何もすることがなくなった僕は、彼女の居なくなった昨日までの日々と同じことを繰り返す。
夏休みにどこだったかで拾って持って帰ってきたエロ本を何をするでもなく、ゲーム屋で延々と流されているPVのように、最後までめくっては最初から最後までめくっては最初から、そんなことを繰り返していた。
親が部屋に入ってこようが関係無しにずっと繰り返していた。
ご飯はしっかり食べたが、寝るのはいつも力尽きてからだった。
何かを考えるのが嫌だった。本当に嫌なのは、考えている途中で時々割り込んでくる遊園地の無力で惨めな自分の姿を思い出したくなかったからだ。
一冊のエロ本のページをいったい何回めくっただろうか?もう一種の病気に近いものだと思う。
そして今日も一日中、エロ本のページをめくっているのだと思っていた。
エロ本のページに集中していた意識の中に突然、声が割り込んできた。
「―――~、女の子が来てるわよ~!」
その言葉で一瞬にして約二週間ぶりの現実に引き戻された。
ドタドタと音をたてて玄関へ向かう足取りは、おぼつかないという感じで真っ直ぐ進んでいるはずなのに、いつの間にか斜めに進んでいて壁にぶつかって倒れてしまう。
いう事を訊かない身体を無理やり起こすと、驚きを隠せず、それでいて身動きをとる事ができないかのように固まっている母親が視界に入った。
立ち上がった僕は、ふらふらと傍から見たら危なっかしくて見ていられないような、そんな足取りで数メートルを歩き玄関までたどり着くと、少しの躊躇いを心に留めてドアを開ける。
あの日の遊園地からタイムマシンを使って来たの、そう言われても納得してしまいそうなほど、彼女はあの日別れたときと同じ格好で其処に居た。
ただ、あの日のような笑顔を浮かべる術を忘れてしまったかのように、彼女は無表情のまま僕に言った。
「ごめんなさい」
突然放たれた謝罪の言葉は、僕を混乱させた。
「と、とりあえず、僕の部屋に、」
最後まで聞く気がないのか、彼女は僕の言葉をさえぎるようにこう言った。
「さよなら」
彼女はすぐに踵を返すと走り出した。
迷う事なんてなかった、でも、僕は数秒その場でボーっとしながら、小さくなっていく彼女の背中を見送っていた。
何が引き金だったのか、僕は気付いたときには靴も履かずにふらつく足取りで彼女の背中を追っていた。
早かった、追いつけないかと思った。
彼女が曲がり角を曲がり姿が見えなくなる。僕は、既に無理をして走っていたのに、さらに身体に負担を掛け、思いっきり走って曲がり角を曲がった。
曲がってすぐに彼女の背中は見つかった。
彼女は道の真ん中で立ち止まっていた。
疲れている様子はまるでなかった。なら、なぜ立ち止まったのか?僕は近づくまで分からなかった。
彼女は泣いていた。
近づいて見ないとわからなかった。
彼女は頬をつたい落ちる涙を拭こうとはしていなかった、それに身動き一つせず、人形が流さないはずの涙を流している、そんな不思議な光景に映ったのだ。
僕には抱きしめて頭を撫でるくらいしか出来なかった。それが正しいのかは分からない、でも、何もしないよりはマシだと思った。
2
彼女と一緒に自分の部屋にたどり着くまでに、三時間を要すとは思っていなかった。
家に戻るなり両親の質問攻めと言う名の罠が作動し、二時間ほど沈黙を守り通す僕たちに集中砲火を食らわせて、それでも話さない僕に母が味方について、まるくとまではいかないが、事態は治まりやっと二人で話すことが出来るようになった。
部屋に入るなり片付け忘れたエロ本を急いで隠したが、きっと見えただろう。そのことは素直に諦めてベッドに座るよう彼女に言った。
彼女は命令された事を忠実にこなすロボットのように、無機質な表情で僕のベッドに腰掛ける。
僕は彼女から話すのを待った。
無理に聞き出すことはしたくなかった。
話したくなったときに話せばいいのだと僕は思う。自分自身が同じ状況ならそうして欲しいと思うし、無理して聞き出そうとしてきたら抵抗もするだろう。
とりあえず、僕は彼女に色々と話題をふってみる、返答は無い。けど、それをやめることはしなかった。
僕が一人喋るだけの一日になってしまったが、それでも構わなかった。
五時になり、いつも彼女が帰っていた時間がやってきた。
「今日は泊まってってくれると、嬉しいんだけど・・・」
僕はいつの間にかそんなの事を彼女に言っていた。
彼女は頷く事も首を振ることもなかったが、僕は、このときの自信過剰な僕には、彼女が帰ることをしないことが、帰るのが嫌、と、いうことだと、勝手に思い込んでいた。
あとで彼女に本当のことを聞かされ、愚かだったと反省することになるとは、夢にも思っていなかった。
結局、夕食を食べているときに両親に口から出任せをカレーに丸ごと入れられたジャガイモのような感じで少々の真実に混ぜ込んで彼女を泊める交渉をした。
「彼女は両親が小さいころに亡くなって一人暮らしをしてるんだよ!泊めてあげられないなら、僕が彼女の家に泊まる!」
最終的にそんな台詞で決着がついた。
それからお風呂に入って、彼女におやすみと言って自分の部屋のベッドに寝転がる。
「二言か・・・」
彼女の今日聞いた言葉の数を呟いて瞼をゆっくりと下ろした。
3
なぜ目が覚めたのか分からなかった。
時計の針の音が妙にうるさく聞こえる。目だけを動かし部屋の時計の時間を見ようとした。僕の目線の先に人影があり、声を上げそうになった。
彼女が僕のことを見下ろしていた。
正直、怖かった。うっかりしていたら漏らしていたかもしれないほど驚いた。
「ねぇ、話したいことがあるの・・・散歩、行かない?」
二週間ぶりに彼女の普通の声を聞いた。
僕はすぐに、理解したとばかりにガバッと起き上がると、彼女が居るのもお構い無しに着替え始めた。
少しして着替え終わると、二人で夜風が涼しく感じる夜の街に繰り出した。
4
家を出てすぐに会話は始まった。
「二週間も何して過ごしてた?」
そんな彼女の言葉から始まった会話は、いきなり僕を困らせた。
さすがに二週間もずっとエロ本と睨めっこして生活してたとは言えなかった。だから僕は、本当のことに嘘を混ぜて答える事にした。
「エロ本と睨めっこしながら、西神のことをずっと考えてた」
「えっち」
即答だった。
そりゃそうかと反省する。混ぜ方を間違えたなぁ~、と、二度目の反省を一秒と立たずにした。今度はもっと上手い嘘を吐こう、そう決めてから次の言葉を吐き出した。
「そんな事を言う西神こそ、なにして過ごしてたの?」
返答が幾ら待っても返って来ない。気になって彼女を見れば顔を真っ赤に染めて吐く息が荒かった。
いったい何をやって過ごしてたんだ?物凄く気になったが追求する事はせず、次の話題をふってあげた。
二十分くらいだろうか?話しながら歩いていたら近所のそこそこ大きな公園まで来ていた。
夜の公園は静かで、時々草が揺れ女性の甘い声が聞こえてきたりした。
そんなある意味不気味な公園の中を少し進んだところにブランコが四つ並んでいた。その二つに当たり前のように僕らは座り、ゆったりと揺れながら会話を続けた。
ブランコに乗ってから最初の会話が途切れ、次の話題をふろうとしていた僕の言葉より先に、彼女が覚悟を決めたように口を開いた。
「私の話・・・聞いて欲しい」
僕は言おうとしていた言葉を飲み込んで、うん、と頷いた。
「まずは私の名前の事から・・・」
彼女の話はそんな感じで始まった。
5
「私の本当の名前はかりかぜ刈風きりか切花なの・・・刈風って聞いたこと無い?テレビとかで」
そう言われて思い出そうとするとすぐに出てきた。
「刈風ってあの刈風!?」
つい声が大きくなってしまう。が、それは仕方がないことだった。
この辺で刈風と言うのはよく見たり耳にすることが多い苗字だった。
この街にはやたらとデカイ屋敷があるのだ。そこがつまり刈風屋敷と言って、小学生の間でお化けが出るから近づくなと言われるほどに不気味な屋敷なのだ。
「それで、―――が夕食のときに言った両親が居ないって言うのも、まぐれで当たってる。小さいころ、それも当たり、八歳のころだった。交通事故で二人とも呆気なく死んだ。それからお爺ちゃんの家、刈風屋敷で暮らしてるの・・・」
よかった、と僕は安堵のため息をついた。
一人暮らしってところまで一緒だったらさすがに、よかったとは思えなかったからだった。
「でも、おじいちゃんも二ヶ月前に死んじゃった・・・だから、私一人で住んでるんだよ?あのデッカイ刈風屋敷に・・・」
え?
声が知らぬ間に出ていた。
彼女はどんどん一人で話を進めた。
「私、最初にせいじん西神って呼んでほしいそう言ったでしょ?あれって、西神って、元は死神って親戚の人たちに言われたから作った名前なんだ・・・しに、にし、ね?」
何が、ね?だ。
「なんで切花がそんな、死神なんて呼ばれなきゃいけないんだ!?」
僕は立ち上がって彼女に食って掛かるように訊いていた。
彼女も立ち上がって、僕と真正面から対峙して、昼間のように頬をつたう涙を拭こうともせず、そのまま答えた。
「私の周りの人が、死んでいくからよ!」
時が止まったかと思った。
風が止み、葉が揺れるのを止め、草が揺れるのを止め、女性の声は途切れ、虫も鳴くのを止めた。完全な静寂が一瞬訪れたあと、すぐにまた風が吹き始め、葉が揺れて音をたて、草が揺れて、女性の甘い声が聞こえ、虫が小さな音楽会を再開した。
そして彼女は泣きながら話し続けた。
「最初は、幼稚園の、ときだった。遠足に行く途中で、乗っていた、バスが事故にあって、私以外の、全員が、死んだの・・・次は、八歳の、とき、両親が、私の、誕生日のプレゼントを、買いに行こうと、している途中、だった。その時からだった、と思う、死神って、呼ばれ始めたのは・・・」
一回、咽ながらも深呼吸をして、続けた。
「次は十一歳のころ、おばあちゃんが、私と買い物に行った帰りに、クレーン車に、潰されて死んだ。もう、みんな、私を、死神だって、言った、の。でも、おじいちゃんは、違うって、切花は優しい子だよって、言ってくれて、変わらず、一緒に住んでくれた・・・でも・・・うぅっ」
知らないうちに僕の頬にも涙が流れていた。
彼女を抱きしめた。
もういいよって、僕は彼女に言いながら頭を撫でた。
彼女は僕の腕の中で泣きじゃくる。涙も鼻水も泣き声も、全部ぐちゃぐちゃに混ざって僕の胸に押し付けられた。
僕は全てを受け入れた。
彼女の涙も、鼻水も、泣き声も、死神と呼ばれた過去も、時が癒せない心の傷も、誰にも言えなかった不安も、裕福な家庭に感じた孤独も、全部、全部、受け入れた。
「大好きだよ・・・大好きだよ・・・切花」
泣きながら溢れ出す想いを口にした。
「うん、うん」
相槌を打つ彼女を僕は、いつまでも抱きしめていたかった。
遊園地の観覧車の小さな密室とは違う、永遠が欲しいと思った。
二人がずっと幸せな永遠が・・・。
6
午前四時を過ぎた頃、僕たちは再びブランコに乗ってゆらゆら揺れながら話していた。
さっきまで泣いていたのが嘘のような笑い声が夜の公園の一角で楽しげに弾ける。
まだ風が吹いて、葉が揺れ音をたて、虫が誰かのアンコールを受けてもう一曲奏でているけれど、もう草が揺れて、女性の甘い声が聞こえることはなかった。
「ねぇ!」
僕は少しだけ大きな声で彼女に言った。
「家出、してみない?」
彼女は笑顔で、そして少し大きな声で答えた。
「いいかもね♪」
夜が明け、朝がやって来るのはもう少し先だ。
布団に戻るのは、もう少し後でも大丈夫だろう・・・。
そんな気がした。