このひと、痴漢です
満員電車の日常が、一瞬で狂気へと塗り替わる——。
日常のすぐ隣にある怪異を描いた、少し奇妙でぞっとするショートショートです。どうぞお楽しみください。
「このひと、痴漢です。触られました。間違いありません」
叫び声が上がった。
しかし、叫んだのは女性ではなかった。野太い男性の声だったのだ。それは今では、ジェンダーの属性もさまざまな方がいるので、男性が被害を叫んだからといって、おかしいことは何もない。
しかし、一体どんな状態で犯罪行為が行われたのか、それは事実なのか誤認なのか興味があったので、ちょうどの同じ車両の乗客のトラブルらしいし、少し様子を見てみるか……、 という思いに駆られたのが間違いだった。
列車は 事後処理と警察官対応のためにしばらく停車するようだった。これは痴漢容疑者に、遅延損害金の請求を行うべきではないのか━━。
そんなことを苛立ちまぎれに考えていた時であった。
視線を感じて振り返ると、声の主——野太い声を出した男と目が合った。
男はニヤリと口角を上げると、そのままゆっくりと自分の胸元を指差した。
「ほら、ここ。あなたの手が、ずっと僕の胸にめり込んでいますよ?」
ゾッと息を呑む。自分の右腕を見下ろすと、腕の先が男のスーツの胸元へ、まるで底なし沼に沈むようにめり込んでいた。引き抜こうとしても、ぬちゃりと嫌な音が響くだけでビクとも動かない。
「逃がしませんよ。あなたが触ったんだから」
男の顔がぐにゃりと歪み、あり得ない角度まで口が裂ける。
車内の乗客たちは誰一人こちらを見ようとせず、死んだような目で虚空を見つめていた。電車は二度と動かない深海へと、どこまでも落ちていく最中だった。
【了】
最後までお読みいただきありがとうございました!
日常のふとした違和感から始まる恐怖を描いてみました。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。




