希少な優しさに包まれて
子供の頃、世界はだいたい善意でできていると思っていた。
誰かが何かをしてくれるのは、ただ優しいからで、理由なんていらなかった。
理由を探すという発想自体がなかったのだと思う。
商店街の角にある肉屋では、揚げたてのコロッケを半分に割って、紙に包んでくれた。
熱いから気をつけてね、と言われて、ふうふう息を吹きかけながらかじる。
油とじゃがいもの甘さが口いっぱいに広がって、胸の奥が少し温かくなった。
この町の大人は、みんな優しい。
それが、あの頃の結論だった。
テレビの中でも同じだった。
芸能人が訪れた店で、店主が笑顔で料理を差し出す。
こんなに美味しいものを、こんなに気前よく。
世の中には、見返りを求めない優しさが溢れている。
本気で、そう思っていた。
大人になった今、その映像を見返すと、違うものが見える。
カメラの位置。
店名が映るタイミング。
「宣伝になりますから」と言わない代わりに、言わなくても成立する暗黙の了解。
誰も嘘をついていないのに、真実だけが少しずつ違っている。
あの肉屋のコロッケも、きっとそうだったのだろう。
子供に優しくすれば、親もその店を選ぶ。
町の中で評判が広がる。
半分のコロッケは、広告費としては安すぎるくらいだ。
そう気づいたとき、胸の奥で何かが冷えた。
裏切られた、というほど大げさな感情ではない。
ただ、世界の表面が一枚、静かに剥がれ落ちたような感覚だった。
学校で勧められたボランティアも、
「みんなのため」という言葉の奥に、評価や実績があると知った。
ポイントカードは親切ではなく、囲い込みであり、
管理であった。
無料のものは、無料である理由を必ず持っていた。
それに気づいてから、私は人の行動をすぐに疑うようになった。
これは誰の得になるのか。
どこに利益が発生しているのか。
そう考える癖は、大人としては正解なのだろう。
けれど、時々思い出す。
あのコロッケをかじっていた時の、自分の顔を。
理由も計算も知らず、ただ美味しいと感じていた時間を。
利益があったからといって、優しさが消えるわけではない。
そう頭では分かっている。
双方に得がある関係のほうが、むしろ健全だということも。
それでも、完全に割り切れるほど、私は賢くなれなかった。
ある雨の日、駅前でティッシュを受け取った。
反射的に、だ。
広告を見て、苦笑いする。
またか、と思いながらも、捨てずに鞄に入れた。
その時、ふと気づく。
それでも私は、受け取ったのだ。
理由を知っていても、損得を理解していても、
差し出されたものを、拒絶しなかった。
大人になるというのは、
優しさの裏側を知ることではなく、
裏側を知ったまま、どう振る舞うかを選ぶことなのかもしれない。
無償の優しさが希少だと知ったからこそ、
それに出会ったとき、ちゃんと大切にできる。
打算の混じった親切であっても、
それが誰かを救うなら、無意味ではない。
子供の頃の私は、世界を信じていた。
今の私は、世界を理解しようとしている。
どちらが正しいかは分からない。
ただ一つ確かなのは、
理由を知ってしまった今でも、
あのコロッケの味を、私はまだ覚えているということだ。
それを覚えていられるうちは、
きっと、完全に大人にはなりきれていない。
あるいは、それでいいのかもしれない。




