第5話 もう二度と戻らない穏やかな日々
その日の夜。
風呂から上がったシャックスは、使用人の女性からお守りをもらった。
その女性の名前はカーラという。
茶髪に、薄黄色の瞳をした、ありふれた顔付の中年女性だ。
カーラは長年クロニカ家に仕えてきた女性の一人だ。
シャックスやニーナ、フォウにも優しいが、アンナやサーズにも慈愛に満ちた眼差しを向ける。
元からそういった性格らしく、彼女は虫も殺せないような愛情の深い人間であった。
ワンドが頭首を務めるこのクロニカ家に仕えているならば、彼女も何かしらの面で優秀であるという事だ。
しかしシャックスには、彼女のどういった面が優秀なのか分からなかった。
転生しているとは言え、シャックスの前世ゴロの記憶は虫くいだらけであり、完全ではない。
足りない知識が山ほどあった。
加えて、シャックス自身の精神年齢は見た目相応だったから、前世が英雄であっても、分からない事は山ほどあったのだ。
シャックスはカーラにタオルで頭を拭いてもらいながら、他の使用人にも服を着替えさせてもらう。
使用人の手が空いていない時は自分でやるが、使用人がいる時はやってもらっていた。
それは母レーナの方針だ。
「自分で出来る事は、自分でこなせるようにならないとね」
どういった意味を含む言葉なのかは、よく分かっていた。
しかしシャックスは妙な気持ちを抱いていた。
最近、カーラだけでなく他の使用人たちもなぜかシャックス達に優しいからだ。
アンナやニーナに優しくするのは分かるが、彼らの優しさはシャックスやフォウ、サーズにも向けられていた。
それは一体なぜなのか。シャックスはとある答えにたどり着きつつあったが、あえて目をそらしていた。
そんな事を考えていたシャックスは、入浴を終えて、お守りを入れる袋を探そうと思って部屋に戻った。
箪笥をひっくり返すと、以前カーラからもらったハンカチがあったため、それを縫ってお守りを入れる袋にした。
その後、シャックスは少し魔法の修練をする。
精神を研ぎ澄ませて、小さな静電気サイズの雷をいくつも室内に発生させる。
シャックスは魔法の天才だったが、他の属性と比べて雷だけは苦手だった。
それは、ワンドがよく雷の魔法を使うからだ。
集中が乱れたのか、静電気が一斉に消えてしまう。
シャックスはこれ以上は無理だと判断し、魔法の修練を中断した。
夜が更けていく中、使用人のカーラは眠ることができずに部屋で起きていた。
机で日記を見返しながら、過去の事を思い出す。
カーラは、表と裏の切り替えを評価されて、クロニカ家で働くようになった人物だ。
彼女は、ありふれた家に生まれた、末っ子の貴族令嬢として甘やかされて育ってきたが、社交界に出てから、人のうわさをコントロールする才能が目覚めた。
そのためカーラは、自分の利益になるように噂をコントロールしていく事ができる。
だから、その手腕を評価したワンドに、声を掛けられたのだ。
クロニカ家で働くようになったカーラは、最初はシャックスの事を落ちこぼれだと思い、蔑んでいた。
しかしすぐに、とある出来事でシャックスや、ニーナやフォウ達にも優しくするようになった。
それは、ワンドが家族仲の良さをアピールするため、屋敷の庭にサーカス団を呼び、他の貴族を招待した時の事だ。
サーカス団の動物が暴走し、カーラ達に襲い掛かったのだ。
しかし、そこでシャックス達がカーラを助けた。
落ちこぼれだと言われていた彼らは機転をきかせて、暴走する牛を赤い布で惹きつけ、猛獣のライオンに肉を放り投げ注意をそらし、暴れまわるサルにはサーカス団の者達が逃げる時に落としていった調教用の鞭で牽制した。
アンナやサーズは知らぬ顔をしていたにも関わらず。
それからカーラは、シャックス達にも丁寧に接するようになったのだ。
カーラはそんなシャックス達が、平穏に生きられる事を願っていたが、それはクロニカ家にいる限り叶わないだろうなと思っていた。
数日後。朝起きたシャックス達は、家族で旅行に出かけていた。
馬車が、街道を進んでいく。
天気は晴れ。
空は雲一つない。
吹きぬける風はさわやかで、窓の外に見える草原の草花をやさしく撫でている。
その日は、アンナとニーナの誕生日から一か月後だった。
シャックスと同じ馬車に乗っているのは、母レーナと、ニーナ。そしてフォウだ。
他の馬車に乗っているのは、父ワンドと、アンナ、そしてサーズ。
シャックスは同じ馬車に乗っている者達の顔を見る。
誕生日だというのに、皆浮かない顔をしていた。
それもそのはずで、今日は試練が行われる日だったからだ。
シャックスは試練がいつ行われるのか、独自に調べていた。
機を見計らって忍び込んだ父の書斎から、調べて得た情報では、今日行われる事が分かった。
だが、詳細までは分からなかったので、シャックスの胸には不安があった。
旅行先では穏やかな時間が流れた。
シャックスは、花畑でニーナと遊んだり、安全な遊歩道でフォウと植物観察をした。
花畑ではレーナがニーナに将来の夢を聞いた。
「ニーナは大人になったら何になりたい?」
「私はお花屋さんの店主が良いわ。貴族じゃなかったら、花屋さんのお手伝いをしていたかも」
ニーナは貴族でなかったら、花屋になりたかったと言った。
「じゃあ、フォウは何になりたい?」
フォウは、植物学者になりたいと言う。
「俺は、植物学者かな、間違っても頭首にはなりたくないよ。面倒事が多そうだし、興味ないし」
二人はもうすでに将来の夢をしっかりと持っているようだった。
しかし、シャックスにはなりたいものがなかった。
「シャックスは何かある?」
シャックスは首を振る。
夢がない事にへこんだシャックスを、ニーナとフォウ、母レーナが慰める。
「大丈夫、あなたはまだ幼いのだから、これから見つかるはずよ」
「そうよ、シャックスならすぐに見つかるわ」
「その時は俺達が夢を叶えられように手伝ってやるからな」
シャックスは、レーナとニーナ、フォウと指切りをした。
それが三人との最後の触れ合いになるとは、思ってもみなかった。
その後、少し離れた所を散歩していたシャックスは、小さなモンスターと出会う。
それは、人を揶揄って悪戯するだけのモンスターだ。
綿毛のような姿をしたそれは、コソコソしながら人の髪の毛を結んだり、人のポケットに雑草をこっそり入れるだけ。
名前はポポという。
ポポは、シャックスを揶揄うように、自分がどこからか調達してきた雑草を上から降らした。
シャックスが風の魔法でそれを散らすと、ポポはショックを受けて、泣きながら去っていく。
しばらくすると、ポポは別のモンスターを連れてやってきた。
それはテントウムシ型のモンスターだ。
普通のテントウ虫より一回り大きなそのモンスターは、人に危害を加えられるほど力のあるモンスターではないが、大変ないたずらっ子だった。
テンテンという名前だ。
人にあまり害のないモンスターは、可愛らしい名前をつけられる事が多い。
テンテンは、くしゃみがとまらなくなる花粉を、背中にある特殊な管から噴出させる悪戯をよくする。
シャックスの目の前で、テンテンは花粉を噴出させる。
しかしシャックスはそれを風の魔法でポポの方へ流した。
ポポはくしゃみが止まらなくなって、泣きながらその場から去っていった。
テンテンもそこから去っていく。
モンスターとの戦闘がいつもこのくらいなら平和だったらなと、シャックスは苦笑しながら見送った。
その後、シャックス達は富裕層向けのホテルに向かう。
丁寧で細かいところにも行き届いたサービスを受けたシャックス達は、美味しい夕食を食べて、入浴し、それぞれの部屋へ。
湧水を魔道具で温めたお湯は贅沢なほどの量だった。
貴重な入浴剤もふんだん使われており、シャックス達のお肌はつやつやになった。
レーナはその間にホテルをこっそり出て、誰かと会っていた。
夜がふけていく中。
シャックスは、一人部屋で眠っていたが、そこにニーナとフォウ、レーナが慌てた様子でやってくる。
「シャックス起きて! 今すぐここから逃げるわよ!」
レーナは、シャックスを急かし、今すぐここから逃げるべきだと言った。
なぜならそれは、これから試験が行われるからだ。
ニーナが、シャックスに着替えの服を渡す。
「これから私の試練が始まるんだけど、お母さんが逃がしてくれるっていうの。何が何だか分からないけど、どうやら試練の内容が危ないらしいんだって」
ニーナもフォウも、何が起きているのか、よく分かっていない。
しかし、母親が何も考えずにそんな事をするはずがないと思って、従っているらしい。
レーナはいつになく険しい表情だった。
シャックス達は裏口からホテルを出て、薄暗い路地を走っていく。
協力者らしい男性が現れて、途中から道案内をしてくれた。
一般市民らしい格好をしているが、所作から貴族らしさがうかがわれた。
その男性は、社交界に出席したレーナが知り合った人物だ。
しかし、レーナと挨拶をしたとき、優雅な礼を見せたのは失敗だろう。
変装の意味がなくなっていた。
シャックスは、レーナの普段の会話を思い起こし、男性の名前まで推理していた。
その男性の名前はジョウン・ロワイヤード。
年齢は30代で、人望のある貴族だ。
どことなく前世の記憶の中の王に似た顔の人物だった。




