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夢のどこかに

 夢の中で、俊哉はそこにいる。


 ここはどこか暖かいところだ。そこでは何も支えられていないし動かされてもいない。四つ葉のクローバーと粒あんのまんじゅうが和気あいあいと仲良くやっている。叱咤激励もなければ泣き女の行列もない。書き出すとキリがないけど要はとても何もないところだ。巷の中学生が長居するにはちょっと退屈かもしれないけど、おれはそんなに嫌じゃない。


 ふがふが叔父さんが遠くの物陰から出てきて、こう言う。

「そこはどこだい?」

 俊哉は黙っている。

「そこは良いところかい?」

 さっきからとても良いよ。とても。

「じゃあそっちはどんな感じだい?」

 うん、まあまあだよ、今のところは。よく寝てる。

「それなら良かったよ」


 光から似たもの。その影から出てきても、それも似たもの。愛し合う光は似たもの同士で愛し合わない光も似たもの同士だから結局はなんでもない。


 一体なに言ってるんだよ、わけ分かんねえ、と俊哉は言いそうになる。でもここは確かに暖かくて心をほっとさせるから、別になぜかそう嘘っぽくは感じない。一体どうしたんだろう。それにそれを言ってるのが自分なのか他の誰かなのか、それすら判然としない。


 ふがふが叔父さんはすぐそばでお茶を飲んでいる。

「あのさ、ここにはコンビニないの?」

「たぶんないな」

「学生証のコピーが欲しいんだけど」

「それなら八百屋へ行け」

「はい?」

「八百屋」

「そこにコピー機あんの?」

「なくはない」


 それから俊哉が何かを言おうとすると、その丘の上に夏風が吹いた。突然に、そして正に何億年も以前からそうであったかのように、風が渡ったあとの揺れる空気の中にあの少女の面影が舞っている[#縦中横]。


 笑っている顔、泣いている顔、困っている顔、ほくそ笑んだ顔、ごく普通の顔、じっと見ている顔、あの顔その顔、顔、顔…。俊哉は、無数のそれらをすべて同時に捉えていた。


 そして、おれはその橋の下の日陰にいる。その八百屋を探して疲れ切っているのではなく、またそれが見つからなかったのでもない。あの丘の上で風が吹いたあとに眼下に広がった複雑な通りには、見渡す限りに八百屋が何百軒も何千軒も何万軒も延々と連なっていたから、見ただけでやる気を削がれてここで少し休んでいる。


 ふがふが叔父は川の向こう岸に座っている。

「ちょっとさ、さっきからお茶ばっか飲んでないで教えてよ」

「なにをだ」

「八百屋」

「あっただろう」

「あんなん多すぎるって」

「あることはあっただろう」

「そりゃあったけど」

「コピーが欲しいんだろう?」

「そうだよ」

「なら多いほうがいい」

「だからあれは多すぎるって」

「あれはあれで大盤振る舞いのつもりなんだろうよ」


 俊哉は川の水面(みなも)に視線を移している。ふがふがは川原の石を力なくその辺に投げて叔父をもてあましている。そして二人とも少しだけ退屈かもしれないと感じているのに、お互いに何も話さない。その静寂には長さがなく終わりもないから手の付けようがない。川の流れがその先の無数の水滴に通じているように、その空気の穏やかさは圧倒的にそこらの全領域に漂っている。


「だからさ、宅配の荷物が百個きたら受け取るの大変じゃん」

「何個だったら受け取れる?」

「何個っていっても…必要なだけかな」


 とうとう叔父は若干じれて、凄まじく不必要な勢いでお茶を飲み干した様子だった。でも向こう岸だから、それがふがふがしてるかどうかはよく見えなかったけど。


「あのな、ここはそっちじゃないんだ」

「?」

「ここでは適当に全部受け取っとけ、それで問題ない」

「まじで意味わかんないし」

「ちょっとその学生証貸してみろ」


 学生証がふっと叔父の手に渡ると、今までいなかった鳩の大群が音を立てて飛び去り、真竹まだけの生け垣がそっと前後に揺れた。


「ほらな、ここはここだろう」

「勝手に取るなって」

「よく見ろ。お前も持ってる」

「あ」

 見ると喉のちょい下の胸の辺にパスケースに入った薄いぴらぴらが一枚入っている。

「コピーすんなよ、無許可で」

「お前にもできるからやってみろ」

「そんなにいらないって」

「目を合わせるんだよ、そのぴらぴらに」

「目?」

「お前の見るところだよ」

「わかってるよ」

「そうじゃない、もっと全部でやるんだ」

「全部って言われてもさ、一体どうやって…」

「実に分からんやつだ、まったく」


 ふが叔父は立ちはだかる赤い活火山のような気持ちで憤然として、また同時にふがふが然とそこに佇んでいる様子だったけど、威厳のパーセントは限りなくゼロに近い。


「いいかよく聞け。お前の全身が目だ。お前の体の表面は全て網膜だ」

「えっとさ、それって」

「お前は今からそうやって存在するんだ。ずっとじゃない。たった数分間だけでいい」

「だから…」

「いいから今すぐやってみるんだ。この無添加の茶葉もそう言ってる」


 そのお茶の缶を掲げつつ、世界のどこにもない威厳を必死にふり絞っている彼の心奥からのふがふがしい姿は、俊哉にいくらかの愉悦と落ち着きをもたらした。


 全身が網膜ね、はいはい。やってみるよ。

 さてと、ぜんしんもうまくぜんしんもうまく、なむあみだぶつに送料無料のぜんしんもうまく、上手くいったら五劫(ごこう)の擦り切れ天下御免のご喝采と。よく分かんないけどさ、やってみりゃいいんっしょ。もう、どうやるのか知らんけど。

 俊哉は川岸の野草の辺りをしばらくぼんやりと見やってから、ふと何気なくその焦点を少しだけぼやかした。


「なんだ、少しはできるじゃないか」

「?」

「できてるぞ」

「なにが」

「見えてる」

「よく分かんないけど」

「さっき何か言ってただろ」

「なに?」

「…目をつぶれ」


 そこに億分の1秒先の世界があった。俊哉はその表面積を無限大に押し広げて、そこかしこのあれやこれやに嫌というほど接地している。そして手近に転がっていた愉悦と嫌悪の頭とお尻がつながってから丸い交差点に変わり、中央に楽しげな噴水が芽生えた。

 それからやがて、というよりは無数の光の束たちの困り眉が超光速でもとの位置に戻る寸前に、俊哉は戻ってきた。実にすんなりと危なげなく。


「悪くないじゃないか」

「なんだよ」

「もう開けていいぞ」

「もう?」

「見えただろ色々」

「よく分かんないけど瞬間的に何かふわっと来た」

「上出来だ」

「なにが」

「右ポケットを見ろ」

「ポケット?」

「ズボンのだ」


 見るとその中には、くしゃくしゃの学生証のコピーと何かのレシートが一枚ずつ入っている。まるで洗濯後の脱水から奇跡的に生還したかのように。同時に俊哉の脳みそには心地よい脱力感が微細なさざ波のように押し寄せている。


「なにこれ」

「あっただろ」

「くしゃくしゃだけど」

「嫌か」

「コピーがくしゃくしゃとか、意味ないっしょ」

「じゃあもう一回だ」

「あ、このレシートは」


 言い終わらないうちに、次の空間で俊哉は熱っぽくにぎやかな踊りの渦中に取り込まれていた。踊り手は皆火を吹いて、鍋の中で回転する葉野菜のように滑らかに回りながら彼の意識と錯綜した。


「目をつぶれ、まだ慣れてない」


 瞼を下ろすやいなや、暗闇の中を競輪選手の一団が猛烈なスピードで走り抜けた。オレンジ色の在来線もしばらく伴走していたが、あっという間にどこかへ枝分かれして消えた。


「あわてるな」

「なんだよこれ、超うける」

「最初は色々混じるんだ。落ち着けば大丈夫だ」

「じゃ、えーと」


 …日の出のような光源がうっすらと彼方に見える。段々と近づいていこう。ゆっくりと。さり気なく、それでいて少しずつ歩幅を広げて。


「そのままだ。それからちょっとしたら、あのぴらぴらをほんの少し見るだけでいい」

「おーけー」


 我ながら何がおーけーだ。自分が近づいているのか向こうが迫ってきているのか。それすら分からない。でも距離はその二つの間にあって、いつも変化している。進んでいるのに押し返されている。縮めているのに広がっている。超巨大な大広間のど真ん中で俊哉は何もしていないのに、周囲の家具や壁紙が刻々と変化していく。


「(…そろそろだな)」

「(…おっけ)」


 そして胸元に針の穴ほどの意識を向けた。


 …それは時間軸をえっちらおっちら行ったり来たりした後に、怒髪天を突くいきなりの放水訓練のように生じた。通じた空間からは派手な極彩色のパジャマのようなエネルギーがわわわわわーっと放出され、ピンク色のパフェにどばどばと注がれた。その跳ねた飛沫(しぶき)が俊哉の頬にかかったが、そんなのに構ってる暇などない。まだだ。まだまだ。

 上の方からでかい鰹が一匹飛び出してびちびちと跳ね始めた。いやこれじゃない。三百台の三面鏡が鶴の折り紙をわらわらと美麗に映し出している。これでもない。夜間金庫から洋梨の売り場コーナーが飛び出してわんちゃかし始める。これもちょいと違う。永代橋を前かがみに駆け抜ける飛脚っぽいあの男はどこの誰だ。わっけ分からん。ケーキ屋を開いたのに畳屋の連中が毎日毎日井戸の掘り方を聞きに来る。そんなの知らんがな。そして…


 ぴっと出てきたその薄い薄い黄色い長方形を、俊哉は逃さなかった。焦点を全身から発してその激烈な速度でAボタンを使い確定し、誰かさんが勝手に測定した速度を完全にどこかに置き忘れ、また戻ってきた。


「おうっやったな」

「ぷふううぅぅ、なんなんこれ、うけるわ」

「まあちょっと休め。あ、今度は左ポケットだな」

「あ、えっと……ん、レシートは?」

「ない」

「なんでよ」

「さっき言っただろ、大盤振る舞いだって」

「無料?」

「そうだ。宇宙はいつでもどこでも無料セールだ」

「ふーん。まだよく分かんないけどさ、あんがと」

「おう、またコピーが必要ならいつでも来ればいい」


(…一体何に必要なんだっけ、このコピー?)


 そろそろ辺りに虫の声が響き始めていた。ふがふが叔父は満足そうに粉茶の入った袋を取り出し、小さなさじでその中身を(すく)っている。


 呼吸が落ち着いてから、俊哉はさっきの最初のレシートを取り出して眺めてみた。


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 もう一度お試し下さい。印字が不鮮明な可能性があります。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。(無闇八百屋連盟 コピー機リース部)

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 彼はしばらく河原の石垣にもたれていたが、まもなくそこで眠りについた。勢いに乗って夕食を詰め込みすぎたサバンナの肉食獣が今まで食らってきた者たち全てを忘れてしまったような、安らかな表情だった。

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