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いんげんの筋と移動する民族

 私にとってそんなに大した作業ではないと分かってはいても、いんげんのすじをどこに出しても恥ずかしくないレベルの美しさで取り切るのはいつも骨が折れる。

 どの処理済みのさやを見ても、私の取りあえずの人生のように見えてくる。それはそれでなぜだか楽しいのだけれど、食べるときに脱力感を与えてくる食物をいちいち眺めるのは避けたいから(特にごま味噌と合わさったりしていると生暖かい不条理さも追加される)、食卓ではこの緑の触角たちとはなるべく距離を置くことにしている。理由も知れず、これはもう半ば儀式に近いものとなっている。食べた感触はとても美味しいというのに。

 もしかしたら、おのれの深層心理がそこに盛り付けられているのではというわたしの中のもやもやが何らかの細かな法規に抵触して(野菜等収穫作物に関する景観法?)、いんげん様、正式名称さやいんげん様、舞台の中央はどうかご遠慮くださいませ、という丁寧なアナウンスがどこかの部署から発せられたのかもしれない。


 帰り道を無事に歩き切ってあの喫茶店から濡れずに帰宅できたのはいいけど、やはり私がこの間あの大学院をさっぱりとやめてしまったことに変わりはない。とは言っても取り切れない繊維の残りかすみたいなのが心の何処かに引っ付いているだろうから(できればそれは()()()()の物でない方が好ましい)、言葉通りにさっぱりという訳でもないけど。

 博士課程といえば世間的には相当に立派なものらしいけど、もし私があそこを無事に勉めおおせたとしても、頭のてっぺんにあの立派すぎる学帽の総元締めみたいなのをちょこんと乗せながら、給水を終えた食後のライオンのように悠然とした面持ちで式典会場から出ていけるとはとても思えなかった。

 特段わたしは分子生物学に何かの恨みがあったわけでもないし、二重らせんが絡み合う角度に嫌気が差したわけでも、またそれが恐るべき無限階段に見えてしまったからでもない。ただ、目では見えないようなものを目で見てその精巧さに驚嘆していても、命という現象そのものを小麦粉を練るように自在に扱ったり説明することはできない。そんな未熟なようで人前では口には決して出せない致命的な理由がこのわたしの中にはあった。

 そんなことを細かく履歴書に書くわけではないし、たとえ誰かがそれを文字として読んだとしても、わたしという人間が心ゆくまで理解されることもない。さらなる事には、どう目を凝らしても、私の選択肢の各々には間違ってるとか間違ってないとか、そういう文字付きのラベルがどうしても見えてこなかった。

 そんな条件下の人間は、気候の変化とともにあちこち移動する民族のように、大気圏の最下層を一見ふらふらしながら感覚的にさまよって歩いてみるしかない。そんな時、すぐ目の先の茂みの奥にある確実な何かにわたしはどうやって気付いたら良いのだろうか?


 わたしって車はたびたびエンストした上にナビも吹っ飛んでるのかしら。ああ、やっぱりこんな時に古き人々が頼りにしたのは空のお星さま達なんだろうか、なんて真面目に思っちゃうわね。でも私は村の古老の末裔じゃないからその辺の事情はちょっと分かんないや(あれに見ゆるは吉祥の星なるぞ!)。

 それでもさ、立ちんぼで辺りをきょろきょろしてるよりも、時にはでーんと地面に仰向けになって身体一面で空を見上げて星さん達とお見合いするってのも、今の私には悪くないかもしれない。そういうのにぴったりの場所ってどこかしらね、まいいや、ちょっと自分の中で募集かけとくことにする。


 台所で茹で上がったばかりのいんげん達にすり胡麻をかけて味噌汁の残りを温めていたら、母から電話がかかってきた。


「瑠衣子さん」

「あっ今ちょっと洗濯物を取り込むからまってて」


 母はいつも私の名前から通話を始めるから、最初から少し居心地がおかしくなる。彼女を味噌汁の沸く音と対談させたら、味噌の匂いも慌ててきゅっと変化するだろう。そんな穏やかな圧力が、その声には含まれている。

 携帯電話をテーブルの上に置いて、干してあった洗濯物をざっと取り込んで畳の部屋に持って行ってからそこにぺたっと座り込んで、わたしは自らに数秒間の安寧の時間を与えた。どうやって説明しようとも、それはそれなのだ。でもいんげんならばせめて綺麗に洗うことぐらいは私にも出来る。やはりそれしかない。短く息を吐いてから私はテーブルに戻った。


「もしもし」

「はい」

「えーとね、やっぱり辞めたわ」

「あらっ…駄目よあなた」


 私はマンションの窓の外に見える遠くの高層ビルを見て、それがウエハース状の甘いお菓子だと思おうとした。しかしそれは上手くいかなかった。


「何かね、やっぱり気持ちがもう続かなくて」

「それは前から聞いていたけど、そんなにだなんて」

「あのね、悪いとは思ってる。ほんとに」


 温め中の味噌汁のことを思い出した。そして同時に母の脳みその温度にも気を配らなければならない。

「別にトラブルがあった訳じゃないから。また落ち着いたら説明する」


 ガスレンジの火を止めて、小さな鍋のふたを取って中を確認した。まだ大丈夫だ。

「まだ手が掛かるわね」


 どういう意味だ。そういう意味なのは分かってるけど。


「そこまで深刻じゃないから、それは安心してよ」

「まあそれは大丈夫だろうけど…」

「あのね、また電話するから」

「そう?」

「もう手続きも挨拶も済ませちゃったから、少しほっとしたいのよね」

「そうなの」

「だから大丈夫」


 大寒波並みに強力な無音の嘆息が回線の向こうから聞こえたような気がしたが、やんわりと無視した。

「それじゃまたね」

「そう…わかったわ」

「じゃ」


 お腹に何かが溜まって来るような電話はさっさと切り上げるのに限る。その相手が誰であろうと。


 通話を切ってから味噌汁とご飯をよそってすり胡麻いんげんや他のおかずと一緒に食卓に並べると、心なしかそれらは微妙な関係を保って関わり合う人間たちのように見えた(やっぱりいんげんはわたしの役?)。やはりというよりも当然の如くそんなご飯が美味しいわけがない。食材の皆さんに申し訳ないわ。それらを生み出した海や山にも。でもやっぱり食べる。普通に食べる。その辺わたしは動物だからね。


 暗くなり始めた窓の外に、ちらほらと星が出ている。わたしの心はちょっとだけニュートラルに戻ってゆるんだ。

 夜になると空に星が出るな八っつあん、おうっご隠居さんそら違ってるぜい昼でも星は出てまさァね明るくて見えねえだけで、おやおや八っつあん博識じゃないか学問にも通じてるたァこら大したもんだな、あっはっはあ学問だけじゃねえです大門おおもんにも通じてまさァ、そうかさてはお前さんの好きな星ってのは白粉おしろいを塗ってしゃなりしゃなりとっぽく歩くあの星だろう、いやァあのきらきら星のためなら命はいらねえ、あっはっはお前さんは滅法な遊郭突入隊だなァ八っつあん。

 …止めどもなく湧き出づる江戸前の会話を弄びながら星を見るのもまた良いものだ(それが心理的逃避だと分かっていても)。そして、そこに口を挟んでくる野暮な星なんざ宇宙広しと言えども、どこにも存在しないはずだ(ダークマター様でもご存じない!)。ほんとに助かるわ、星さん。


 いったい瑠衣子にとって星たちが何なのか、それは未だひっそりと知られずにいる。宛先が書かれていない真っ白な無数の小包たちは、倉庫の棚で種を孕みながら清らかにのんびりとその時を待ちびている。

 もしその密やかな種がもし大きな鍵付きの宝箱に入っていたのなら、それは全く相応しくない。あるいは品の良い桐箱にありがたく納められていてもそれは様にならない。それは偶々(たまたま)の来訪者のように次々と彼女の上に降り注ぐのだろう。それが生来の業務であるかのように必然で当たり前のごとく。天上の彼女はそれを知っている。


 ああ、昔々に生きてた移動する民族さん達もこうやって星を眺めてお話を紡いだのかしら。わたしみたいなのが妄想しちゃったお馬鹿なやりとりは古い民話集には残ってないだろうけど、どこに移動しても必ずそこに見えるものって、自分の中に移動式温泉を見つけたみたいで心が落ち着くわね。幸いこれにあり、温泉に卵あり、子宮の中にもこれまた卵ありって感じかしら。

 ふう、またこんなくだんない事ばっかり言ってるとお母様にたしなめられちゃうから、もうしとくわ。ご馳走さま、星さん。ごはん美味しかった。


 瑠衣子は空の食器を流しの中の容器の水にゆっくりと順番に浸けた。それらは不自然な重力から解放されて自らを取り戻しつつある人達が集っているかのように見えた。

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