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俊哉に友達はいない。

 俊哉しゅんやに友達はいない。


 いや、正確にはいなかったと言うべきだろう。


 あの水の流れる公園で見かけた少女に淡い気持ちを身体からだで感じてから、彼に友達はいなくなった。もっとも、それ以前にそんなに親しい相手がいたのかどうかすら彼には分からなかった。ただ、あっもういなくなった、と感じただけだ。

 不穏な猛暑が明けた日々のように、少しばかりの腑ぬけた感情とそれをわずかに上回る確かな安心感が、彼の心のひだに付着している。

 やっとそこに到達したのかあるいは陥ったのか、それが恋愛なのかそうでないのか、彼にはとんと分からない。ただそれらは彼のもとに伏し目がちに、それでいて恐らくちょっとだけ親しげな様子でやって来た。出前を詰め込んだ岡持ちを抱えた、そば屋の店員のように。

 もしかして、おれはいっぱしの男になったのかな。でもこんなのをすぐ同級生に話しちゃうのはちょっと違うな。櫻の園の香りをないしょの空瓶に詰めておく位のナイーブさはおれにだってあるのよ。佐藤とか川井、あいつらチャリで旅したりして仲いいけど、自分はああいう風にはなれないな。もうちょい文化系のノリで、部室の中で微妙にうだうだしてる感じだから、そのうち俳句とか詠んじゃうのかもしれない。もう平安時代レベルでみやびだ。


 昼下がりの誰もいない台所で、コップの中の水を見ているだけで俊哉はうれしくなった。あの強く淡い感情は、どこかで薄くしっかりとした膜に変化している。ただそれは誰からも見えないしさわれないだけだ。それは俊哉にとって初めての土曜日の午後だった。

 このコップの水はどこからやってきたのか。それはもちろんそこの蛇口からだけどさ、それだけじゃない気がする。これって雲の上からうわぁーっと集まって地面に降ってきたわけじゃん。だから水ってのは、浄水場に集められる前に大自然のものごっつい仕組みの漏斗じょうご?とかロートみたいな無数のフィルターを通過してきてる時点で、もう只者じゃない。なんでそう思うかはよく分からないけど、この水の中にこのへんちくりんな、()()()()の気持ちを流し込んでみても良いような気がする。いや、波動とかそういうのは全然分かんないけどさ、今ちょっとだけそういう気持ちになったからさ。そしたらアルカリ性とか酸性になっちゃうのかな。そうなったらリトマス試験紙もびっくりやね。


 俺は、というか僕でもいいんだけど、とりあえずこの自分は中二のまっただ中で色々あるんだけども、基本はのほほんとしている。だってこの歳で世界情勢に耳を尖らせるとか普通にありえないし、気張りすぎっしょ。やっぱり揚げ物にがつっと食らいつく瞬間はたまんないし、汗を流しながら走りまわってくるのも普通に好きだ。ただ時々許せないことがあった場合だけは別で、そういう時はあやしげな呪文をむにゃむにゃと千回ぐらい唱えて相手を呪う。というのは冗談で、やっぱりこぶしを握りしめる。でもそれを秒で振り回すのは幼稚でバグってるしょうもない人間だって分かってるから、こぶしに汗を溜めながら、聞こえないように陰でぶつぶつ言ってたりする。自分は弁が立つタイプじゃないからね。要するにそんなレベルの中学生だ。

 あの公園、きのう行った時はなんだか曇ってたけど、自分の回りだけ晴れてた感じがするんだよな。水の流れる音も妙に鮮明というか、やけに近くで聞こえてたというか。そんでもってあの子は…あの女の子は、空色の日除けの帽子をかぶってたから顔はそんなによく見えなかったけど、何となく胸のまわりがちょっと光ってる感じがしたんだよ。胸って言ってもそういうえろい意味じゃなくて、喉のちょい下の、真ん中一帯らへんのことだからね。それにそんなやらしい目で見てるおれはそこにいなくて、その光と自分の目がばしっと合った瞬間だけをなぜか覚えてんだよな。なんつうか、目に入っても痛くない炭酸水をピンポイントで顔のど真ん中に浴びたっていうか。


 半開きになった台所の格子付きの窓からは、外の音が聞こえてくる。せまい通りをごく安全な速度で走行する乗用車の排気音は、ただいつもの如く、そういう風に聞こえるだけだ。まったく日常的で何事もなく()()()()に(少なくとも俊哉の耳には()()()()()()()())。

 もし、あのしょっぼいクルマの代わりに優雅なチーターがこの通りを歩くのだとしたら、こんなごりごりしたアスファルトはふさわしくないよな。そんな時には何を下に敷けば良いんだか、おれには全く想像も付かない。そんでもってこの窓からチーターの顔を垣間見たとして、あの美しい野生の四足歩行と目がばっちり合った時にふさわしいおれの顔も、今すぐ用意できる自信がない。キャッシュで明日までに五千万持っていける可能性より、もっとありえない。ああ。そうか、多分そういう顔ができた時に、本式の男になるのかもしれないな。かちかちな歩道の上で不機嫌なつらをしてのたくってる、だるい二足歩行じゃなくて、草原を小気味よく()()()()と駆ける人間らしい人間として。


 俊哉の身体には、色美しい猛獣が歩く静かな足音がゆっくりと流れ込み始めている。それは星たちが穏やかにまたたくような、連続した聴きとれぬ響きであり、彼の耳がそれらを音として捉えようとしたその時、彼の脳裏にほんの一瞬だけよぎる光景があった。


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 どこか遠くの星の土くれだらけの平原で、岩を背にもたせて座っている人が真っ暗な中空を見上げている。休息しているのか動けないでいるのかは分からない。しかし、その人物は、ヘルメットが付いた全身を覆う服状の機器の中で目をつぶり脱力して、その空間に身を任せている。その連続的で充実した安らかな呼吸を、かなたの存在たちと共有しているかのように。

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 やっぱりさ、もっとあの子の顔をはっきりと見なきゃいけないと思うんだよな。またあの辺をさり気なく歩いてれば会えるのかどうかなんて全然分かんないけど、とにかく見なきゃいけない。それがパーセント的になぜだか一番気になってる。またどこかで出会えるのかなとか、どこに住んでるのかってのは、もちろん無茶苦茶に激しく気になってるけど、今そこをうじうじ掘ってみたって何も出てこないんだから、いい加減にやめとく。

 まあね、そもそもどこの誰かなんて分からない位が俺には気楽で丁度いい。それによく分からないけどさ、今の時点で出来る、なるべく良さげなおれの顔をそこに置いとけば、タマシイの縁結びの幇間(たいこもち)的なおっちゃんが角からぬるっと出てきて「ぃよぅよぅッ、じつに様子が良い表情筋でげすなあ、だんなァ。すごいっ」とか言ってワームホールにこそっと細工をして、()()()()で運命のルート変更が人知れずどこかで起きてるかもしれない…ってなんだよそれ。ああ。頭がごちゃごちゃしてるな。それになんだか妙に眠い。

 俊哉は居間のソファに移動して横になった。それから台所のテーブルの上のコップの水のあたりにぼんやりと目線を移した。またさらに眠気が増して来ている。家族はまだ誰も帰ってこない。昼下がりの窓の外は静かで、いつもの暖かい日光にあふれている。その気配をおぼろげに確認しながら、彼の視界はゆっくりと完全に閉じられた。


 そして、というよりはもっと遥かに単一で直線的な理由によって、彼の中に流れ込み続けていたお節介にくるくると動き回る意識が、木々のざわめきにかき消される山鳥の呼び声のように、そっと小声で語り始めた。


 …よく見つめてみるしかない。けど、ただ見るだけじゃ駄目だ。目に頼るんじゃない。そこに見えるものをよく視られるまで、それを見てみるんだ。おまえの身体を使うんだ。その顔も使ってみるんだ。よく見るんだ。目だけ使っててもそれは見えてこない…


 スーパーの店内放送のように繰り返されるメッセージを閉店すれすれの脳みそで受け止めながら、彼は午睡に落ちていった。いささかの温かな倦怠感を伴いつつ、高飛び込みのスローモーションのような滑らかな優美さをもって。


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