瑠衣子は待っていた。
瑠衣子は待っていた。
誰かを待っている訳ではない。代わりにこんな事を想っている。
その時までにわたしに起きた事柄は、全て必然だったと思っている。でも、たった今の最新のわたしにだって、5分後にはどうなっているのかなんて全く分からない。
色々な人たちがわたしの傍を通り過ぎていったけれど(もちろん物理的にではなく、心理的に)、その中には特筆するべき人、わたしがその腕をつかまえて留めておくべきだった人って、本当にいたのだろうか。
いま、目の前のコーヒーカップに手を出すのなら右の手なのか、それとも左の手なのか。もしそんな些細な選択で未来が大きく変わってしまうのなら、わたしはどちらの手を出せば良いのだろう。
そんなのは恐ろしく淡く砂をつかむようで、神経をおかしく揺さぶられる気持ちだ。それのどっちが良いのかなんて分かるわけがない。
そうね、宇宙がそれとなく何処かでわたしのことを見ていて、そっと分からないように手を貸してくれたら嬉しいのだけど。このわたしにはごく控えめに言っても手に余る問題みたいだから。頼んだわよ、宇宙さん。
その喫茶店の古びたチークのテーブルにひとり座っていると、それはやがて瑠衣子を優しく落ち着いた気分に導いた。それだけでなく、彼女にある一つの情景を思い浮かべさせた。
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どこか遠くの平原で、誰かが両手を顔にかざしてはるか遠く上の方を見ている。日差しは中ぐらいの眩しさで、視線の先のものをはっきりと捉えられているかどうかは分からない。それでもその誰かは、その何かを見つめ続ける。自分に最も近しい親密な誰かに、絶え間なく挨拶を送っているかのように。
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瑠衣子はコーヒーの液体の表面をじっと見ている。ほかに客は誰もいない。とても親しい誰かって、どっかにいる気配だけでなかなか出てこないのよね。その辺に落ちてる葉っぱの陰にみんなそっと隠れて、こっちを見てるのかしら。それをぱっと捲ろうとするからびっくりしてすぐに逃げちゃうのかもしれない。
彼女は軽く身をよじって、ごく微量のしかめっ面とともに足を組みなおした。ううん、そうじゃない。いないようで、ちゃんといるの。パンの中のレーズンぐらい親切に分かりやすく、そこにいるべきだわ。これぞ暖かい気持ちって感じのほわほわしたパン生地の中に。そう、ちゃんとそこにいるはずよ。
瑠衣子が考えるのを止めてふと気がつくと、店内に流れる曲がさっきと変わっている。陽気で少しハスキーな男性歌手の声で、古めの雰囲気の軽快なジャズの曲が流れ始めている。
Why do you make my life so tough?...
You're so heavenly...
I wish that we were twins...
So I could love you twice as much...
憂さが吹き飛ぶような軽い音の流れと共にとぎれとぎれに聞き取れる英語の歌詞を、彼女は何とか理解しようとした。
これって誰かすごく好きな人がいて、自分と相手が双子だったらいいのにって意味なの?ああ、英語をもっとしっかりやっとけば良かったって思うの、これで何回目かな。こちとら映画を字幕なしで観ようとして挫折しまくりよ。でもまあいいわ、この曲の軽さは悪くない。気が付いたら楽しげでアンティークなクルマに乗せられて、いつもと違う景色を見ているみたいで。心なごむわ。
そして何かの曲がり角を過ぎたところで、曖昧でぼんやりとしたひとときが彼女に訪れた。歴史的に見ても珍しいくらい巨大な暴風雨の目の中で、平穏に満たされた空気圧の中空に漂いながら、彼女はそこにいた。目の前のチーク材のテーブルは古い帆船の舳先であり、落ち着いた茶褐色のベンチは荒くれた船長が座る古びた椅子だった。その場所で、海鳥の群れや海風が渡ったあとの潮の匂いを彼女は嗅いだ。その空の下では悠久は一瞬であり、刹那は久遠だった。瑠依子はしばらくそこで自分の視点を見失っていたが、やがて自分の指先に目をやった。ふと気がつくと、もう曲は徐々に収束に向かっている。
ああ、何だってこんなすごい嵐の中をこの船はすいすい滑らかに進んでるのよ。この鼻歌まじりの曲のせいなのか、それとも宇宙さんにお願いが通じたのかしら。運転手とレンタカーを頼んだら渋めの帆船と荒くれ船長が来ちゃうって、そんなサービスは中々受けられないもんよね。
心地良くおどけた調子の歌声で曲が鳴り止んだ。ちょっぴりスパイスの効いた収束に彼女はほんの少しだけ揺さぶられたが、すぐに瞼を閉じて数十秒ほど脳みそをからっぽにしてから正気に返った。
残りのコーヒーを適当に飲んで瑠衣子は立ち上がった。スプーン一杯分の、わずかに満足げな表情を浮かべながら。
過ぎ去った日々は、なんて回想するのは私にはまるで似合わないけど、このちっぽけな私という人間の二十数年にも確かにそういうぐちゃぐちゃとした諸々の出来事はあった。もちろんそれについて長々と語り続けることもできる。ほんとに何時間でも。でもね、本当に一番肝心なのは、それらがどうやって積み重なって意味を成しているかって事なのよ。その辺を考えはじめると、私はもうてんで訳が分からなくなって道端でエンストしちゃうわけ。
だから、と言うわけでもないけど、私は世間に対しては相当クールな姿勢をとって、色々と知らない振りをしたり、または奇妙に知ってる振りもしてきた。滑稽よね、道端で車から降りてかっこ良くタバコを吹かしてても、結局は何をどうしたら良いのか全然分かってないなんて。
確かにね、クルマを運転してる人がすべて内燃機関の専門家じゃないわよ。そんなことは分かってる。でもね、正直なところもう沢山なのよ。エンジンが微妙な煙を上げてるのに、何食わぬ顔でたらたらと走り続けてるってのが。まったく。やきいも屋の屋台じゃないんだから。
喫茶店を出て歩きながら、瑠衣子は自分の足が歩道を踏みしめる音に耳を澄ませた。走り去る自動車のエンジン音にかき消されながら、いまこの足先が向いているのは本質的に重要な地点なのか、それともそこに行き着くまでの単なる経由地なのか、そんな風に頼りなげに考えていると同時に、世間ではこの私は二十七歳の未婚の女性ということになっていて、そしてそれを負っているということになっている。
でも、少なくとも冷静になってみれば、詰まるところ私は地面や床と連続的に接地してこまこまと動き回っている単体の生物なのであって、本当はそこに注意を向けていなければならない。私にはわたしの方向というものが存在するはずだ。それは機械のアンテナから入ってくる情報ではなくて、地面からほんのほんの少しだけ飛び出たわたしという突起物が、この狭苦しい世界の天蓋を仰ぎ見ながら受信する極私的なデータに違いない。
世界のどこかで雲が渦巻いている。わたしを例えようもなく優しく力強く、圧力をもって上空から押し流したり引き止めたりするように、そこには暖かく巨大な流れがある。
わたしと一直線のつながりを持って、それは機能している。そこからもたらされる事どもが何であろうと、わたしとそのラインは透明でしなやかな合意の上に関係しているのが感じられ……とまあね、確かにそんな感じはするけどさ、形而上的な雲さんのことはちょっと置いといて、さし当たっては家に帰って洗濯物を取り込まなくちゃ。ほんとに空の雲行きが怪しくなってきたみたいだし。
まとめてみると、汝、地に足をつけよ、耳を澄ませ、そして空にも眼を向けよ?って感じかな。優しい宇宙さん。でもこれって、砂漠に左遷された牧師がその辺のサボテンとかラクダに向かって説教してるみたいじゃない?
ここまでの私が得ることが出来るのはまずこんなところだ。そしてまた曇り空の下でわたしの足跡はぺたぺたと続いてゆく。終わりのない地上絵のように、ひたすらに。