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赤い弾丸

作者: 有端 燃

「そろそろ時間だ。ウォームアップを始めるぞ」

 コーチの三島(みしま)に促され、由羽(ゆは)は羽織っていたスキーウェアを脱いだ。元々の鮮やかな赤は色褪せ、あちこち擦り切れてはいるが、由羽にとっては大切な宝物だ。スキーウェアの下、ピッタリとした真っ赤なレーシングスーツには数少ないスポンサーのロゴがプリントされていた。

 出走前はベンチコートやセパレートの専用ウェアを着用している選手が多いが、由羽はサイズの合わない古びたスキーウェアを愛用している。コンディションを考えれば専用ウェアを着用すべきだが、全日本での優勝をこのウェアに見せると決めていた。

 由羽は今季から、全日本スキー選手権アルペン回転女子にエントリーしている。競技を始めて五年に過ぎないが、最終戦の今日、由羽は神懸かった滑りで一本目は四位につけていた。実績が殆どないため一本目は二十三番スタートと不利な条件だったが、朝方にまとまった降雪があったため出走順の早い有力選手が()()()()となったことや、ワックスの選択が決まったのも大きかった。二本目のタイムしだいだが、今日は全日本で初めての表彰台に登れる、そんな根拠のない予感があった。

 ストレッチをしながら由羽は思う。私は一人じゃない。()()表彰台からの景色を見せるのだ。


 ◇◇◇


 由羽の通っている公立中学校では、二年生の冬に泊三日でスキー教室を実施していた。

 朝六時に学校を出発。バス三台に分乗し、N県の山平スキー場に向かう。由羽の隣では、親友の美佳(みか)がふさぎ込んでいる。勉強はできるが運動音痴で寒がりの美佳は、スキー教室が憂鬱で仕方ないようだ。

「大丈夫だって。インストラクターが優しく教えてくれるはずだし、上手くいけば三日目の自由滑走は一緒に滑れるよ」

 由羽は励ましたが、イヤイヤをするように美佳は首を振った。

「由羽は滑れるからそう思うんだよ。私には絶対無理」

 スキー好きな両親に連れられ、由羽は幼稚園の頃から滑っていた。父親はアマチュアレーサーで、学生時代からずっとアルペン競技を続けている。そんな両親のおかげで、今は父と遜色のないペースで滑ることができた。

「平気平気」

「ダメ、もう帰りたい」

 美佳をなだめすかしているうちに、バスはスキー場に到着した。

 隣接するホテルに荷物を預けると、休む間もなくウェアや板などを借りる手続きだ。自分の道具を事前に送っておいた者は、送り状を持って受け取りに行く。由羽も使い慣れた自分の道具一式を受け取った。

 初級コースに集合すると、三日間のスケジュールが伝えられる。今日と明日の午前中は、レベルごとに分かれてレッスンだ。中級以上は、午後から自由滑走となる。

 午前中のレッスンが終わると一度ホテルに戻り、全員でお昼ご飯を食べる。由羽の隣に座った美佳は、泣きべそをかいていた。

「私は決めたわ。このスキー教室が終わったら、二度とスキーなんかやらない」

 聞けば、スキーを履いた状態では立つこともままならないらしい。昼食が終わり、嫌々レッスンに戻る美佳を慰めると、ホテル前で別れた。


 中級コースのリフト乗り場に向かう途中、由羽はインフォメーションセンターのそばで誰かに呼ばれた気がして振り向いた。だが、周りを見回しても知り合いは見つからない。

 気のせいか、そう思いリフトに向かいかけた時、小さなお地蔵様が目に入った。インフォメーションセンターの壁際、ゲレンデを見上げるように建てられたお地蔵様は、半分ほど雪に埋まっている。

(お地蔵様、寒そうだわ)

 なぜか放っておけず、雪を払ってあげた。少しの間考えると、由羽はインフォメーションセンターの土産物屋に入った。なけなしのお小遣いで、小さな帽子とタオル、チョコレートバーを買って、お地蔵様の所に戻る。

 雪を払ったお地蔵様に帽子を被せ、上半身にタオルを巻いた。チョコレートバーを供えると、何となく暖かい気持ちになれた。

「ありがとう、お地蔵様。一滑りしてくるね」

 由羽はお地蔵様に手を振るとリフトに乗った。

 中級コースや林間コースを滑っていると、ふと赤いスキーウェアの男子が目についた。さっきから、由羽と同じコースを滑っているようだ。型遅れのスキーウェアの上にゼッケンを付けているから、他所の学校からスキー教室にきているのかもしれない。母もよく言っていたが、スキーウェアの男子は格好よく見える。ちょっと意識して、なんだか恥ずかしくなり、急いで滑り降りた。

 何本か滑り、再度リフトの列に向かおうとした由羽の横に、赤いウェアの少年が並んだ。瞬間、心臓がドクンと跳ねる。

「こんにちは。何度か同じコースを滑ってたよね」

 ゴーグルを上げて、少年が声をかけてきた。

 由羽と同じくらいの学年だろう。背が高く、にこっと笑う顔が何とも愛くるしい。どこか見覚えのあるのは、気かつかないうちにすれ違っていたのかもしれない。

(ごめん美佳。あなたがゲレンデの隅っこで転げ回っている時に、私は恋に落ちそう)

 心の中で美佳に詫びる。少しの罪悪感と、ちょっと大きめの優越感。

「こんにちは。あなたもスキー教室?」

「うん。君はどこの学校? ちなみに俺はG県」

 残念。同じ県じゃないんだ。でも、G県なら隣だからそんなに離れて無いか。

「S県だよ。隣同士だね」

「へえ、意外と近いんだ。あ、俺は襟尾(えりお)秀真(しゅうま)、中二」

「私は有畑(ありはた)由羽(ゆは)。同じ中二だよ」

 頑張れ私。ちゃんと会話になっているし、この調子でいけば連絡先もゲットできるかもしれない。

 並んでリフト待ちをしていたため、一緒にペアリフトに乗れた。リフトに座る直前、秀真がイスをさりげなく押さえて、足にガツンと当たるのを防いでくれる。

(なんて優しいの、私の王子様!)

 由羽は完全に舞い上がってしまった。

 リフトに乗っている間、喋るのはもっぱら由羽で、秀真は優しい笑顔で聞いていた。

 好きなアイドルや学校での出来事、スキーのこと。由羽がテストの答案で、裏面に気づかなかった話をした時は笑い転げていた。

 格好良くて優しくて、面白い。こんな人と一緒にいたら、楽しいだろうな。由羽は、秀真と付き合う自分を夢想した。

 リフトを降りると、秀真を先頭に滑り始める。

きれい! 秀真の滑りを見て、由羽は思わず感嘆の声を上げた。後ろからでも、しなやかで強靱な下半身と鍛え上げられた背筋が見てとれる。そして上半身は全くぶれず、スキーの上にしっかりと乗っている。他のスキーヤーの動きが読めるのか、かわし方もスムーズで無理がなかった。

 上級者向けのゲレンデでも、秀真の滑りは変わらない。硬く締まった急斜面を、エッジに乗ってハイスピードで滑る。ターンの時も、派手に雪煙を上げて減速するようなことはしない。無駄な動きが無いせいか、旋回速度が異様に速かった。

 それでも由羽に合わせて時々スピードを緩めてくれるので、付いていく分には滑りやすい。同じラインで滑ると、自分が上手くなったように思えるくらいだった。

 空いたゲレンデに来ると、真っ赤なウェアで疾走する秀真は、さながら真紅の弾丸だ。


「そろそろ一休みしない?」

 秀真の提案に賛成した由羽は、コース脇のベンチに二人分のスペースを確保した。気がつけば、もう二時間は滑っている。

 自動販売機でジュースを買い、秀真と並んで座る。恥ずかしいので、ほんの少し隙間を開けた。

「秀真君、凄く上手いんだね。驚いちゃったよ」

「そんなこと無いよ。小さい頃から滑っているから、ちょっと慣れてるだけ」

 秀真は照れたように顔を赤らめた。

「競技はやらないの?」

 あれだけの滑りができるのだ。周りが放っておかないだろう。

「競技か……、アルペン、スラロームの選手になりたかったかな」

 ちょっと考えて、秀真が空を見ながら答えた。

「なりたかった?」

「何でもない。それより由羽ちゃんこそ、ガリガリのアイスバーンを平気で滑るんだから、相当だよ」

 焦ったように手を振りながら、秀真は話をすり替えた。

「私も十年近く滑ってるから。でも未だにコブは苦手、ライン取りに迷っちゃう」

「俺も一緒だよ。だけど、由羽ちゃんは才能あると思うな。変な癖とか全然無いし、背筋がしっかりしているからコントロールも上手いじゃん」

「ありがとう。お世辞でもうれしいよ」

 他人から褒められて、こんなに嬉しいのは初めてだ。父親の指導に、初めて感謝した。

 楽しい時間はあっという間に過ぎてしまい、気がつくと集合時間がすぐそこに迫っていた。

「やばっ、集合時間に遅れそう」

「俺も」

 慌てて手袋やゴーグルを身に着けると、ブーツの雪をストックで落とす。

「明日の午後も、一緒に滑れるかな?」

 秀真の申し出は、願っても無いことだった。由羽も同じことを聞きたくて仕方なかったのだ。

「も、もちろん!」

 嬉しすぎて、声がうわずってしまう。

「じゃあ、最初に乗ったリフトのそばで待ってる」

 にっこり笑った秀真は、勢いよくビンディングを踏み込み、雪面を蹴る。

 赤い弾丸はぐんぐんとスピードを上げ、あっという間に見えなくなった。


 ぎりぎりで集合時間に間に合った由羽は、点呼を終えると、息も絶え絶えの美佳とホテルに向かった。

 ボロボロの美佳を見たら、申し訳なくて秀真のことを自慢できない。だか、頭の中は疲れ果てた親友ではなく、秀真でいっぱいになっていた。自然と顔がにやけてしまう。

 翌朝も、足を引きずるような美佳と共にレッスンに向かった。午前中の退屈なレッスンが終われば、素敵な王子様とスキー場デートが待っている。

 だが、世の中はそんな思い通りにはいかないようだ。午前中のレッスンで、美佳が膝を痛めてしまい、ホテルの部屋で休むことになったのだ。親友として放ってはおけず、やむなく由羽が付き添うことにした。

 痛めた膝を抱えて泣きそうな美佳に付き添いながらも、由羽は秀真との約束が気になって仕方が無い。しかし、美佳は幼稚園からの親友だった。

 それでも王子様をすっぽかす内心の罪悪感や焦りが顔に出てしまったのか、諦めきれない由羽を、美佳がじいっと覗き込んだ。

「ねえ、私に何か隠していることがあるでしょう?」

 美佳は昔から堪が鋭い。

「……何もないよ」

 とりあえずとぼけてみた。

「私を誤魔化せると思ってるの? 全部正直に話なさい」

「はい」

 隠せそうもない。由羽は、秀真のことを全部話した。

「それで、今日の待ち合わせ時間は何時なの?」

「一時半」

「もう過ぎてるじゃない。連絡先は聞いた?」

「聞きそびれちゃった」

 美佳は呆れたように首を横に振った。

「あんた馬鹿なの? 私のことは構わないから、すぐに行きなさい」

「でも」

 由羽はためらった。

「お願い、行って」

「ごめん美佳」

 今回は美佳に甘えよう。由羽はスキーウェアを着ると、急いで部屋を飛び出した。

「ちゃんと王子様を捕まえるのよ!」

 美佳のエールが、ぐっと背中を押した。


 待ち合わせのリフト前に着いた時には、約束の時間を一時間近く過ぎていた。駄目かと思いながらも、秀真の赤いウェアを探すが、王子様はどこにもいなかった。

 さすがに一時間は待たないよね……。由羽は諦めてリフトに並んだ。ゲレンデを探せば、もしかすると会えるかもしれない。

 秀真はごまかしていたが、明らかに競技スキー、おそらくスラロームをやっている滑りだった。一人で滑るなら、頂上の上級者コース、アイスバーンの急斜面を滑る可能性が高い。

 由羽は、リフトを乗り継いで頂上に向かったが、一人で乗るペアリフトは寂しく、体感温度は限りなく低い。おまけに天気が悪くなってきて、頂上近くはガスがかかっていた。

 秀真君、怒ってるだろうな。由羽は不安になった。でも、会ってちゃんと謝りたい。事情を説明すれば、きっと分かってくれると思った。

 リフトを三本乗り継ぎ上級者コースに着く頃になると、あたりは完全に吹雪いてきた。

 周りに人影は殆ど無く、十メートル先も見通せなかった。由羽の技術では、滑走が危険なレベルかもしれない。

(どうしよう)

 迷っているうちに、吹雪がさらにひどくなってきた。

 待っていても、天候は回復しそうにない。今のうちに滑り降りよう。ゆっくり滑ればきっと大丈夫。

(頑張れ私!)

 思い切って雪面を蹴った。

視界の利かない急斜面は、思った以上に滑りにくい。おまけにガリガリのアイスバーンで、ちょっと油断すると板が流される。

 何度か立て直していたが、隠れていた大きめのギャップに乗ってしまい、あっという間に転倒した。肩と腰を強打して、激痛が走る。一瞬意識が飛び、気がつくと笹の茂る急斜面を滑落していた。降り積もっていた新雪が、追い打ちをかけるように降りかかる。

 コース外に落ちている。ヤバい、死ぬかも。本気でそう思った。

 一瞬体が浮きあがった直後、突然背中を何かに打ち付けた。肺の空気が押し出され息が苦しい。だか、おかげで滑落は止まったようだった。再度滑落はしなそうなのを確認すると、由羽は恐る恐る体のパーツを点検し始めた。

 息はできるし頭も動かせる。手足の痛みを感じるということは、首や脊椎は大丈夫だ。右手、左手もオッケー。右足も無事、左足は……。瞬間、膝に激痛が走り曲げられない。折れてはいないと思うが、立ち上がるのも厳しそうだった。

 どうしよう。痛みと恐怖で涙があふれ出す。このまま誰にも気づかれずに、死んでしまうかもしれない。

 パニック状態になりかけ、泣きじゃくっている時、由羽を呼ぶ声が微かに聞こえた。

 誰?

「由羽ちゃん!」

 もう一度、今度ははっきりと聞こえた。

 声のした方を振り向くと、そこには真っ赤なスキーウェア。笹や木の幹に掴まりながら慎重に近づいてくる秀真。

「大丈夫? どこか痛いところは無い?」

 秀真が心配そうに覗き込んだ。

「左の膝をやっちゃったみたい。あとは大丈夫。それより、どうして秀真君が?」

「由羽ちゃんを探して滑ってたら、誰かがコース外に滑落して行ったのが見えたんだ。それで、もしかしたらと思ってさ」

 滑落しないよう足場を固めながら、秀真が言った。

「ありがとう。でも、秀真君まで危ない目にあわせちゃった」

 秀真に会えて死ぬほど嬉しいが、反面申し訳なく思う。それにしても、助けて欲しいときに現れる、まさに王子様だ。

「気にすることないよ。ただ、ここから二人で上がるのは難しいから、救助を待つしかないかな」

「すぐ来てくれるかな?」

「この天気だから最悪明日になるかもしれないけれど、長くても一晩しのげば大丈夫だと思うよ。今頃は由羽ちゃんのことを探しているだろうし」

 落ち着き払った秀真を見ていると、由羽の不安も和らいできた。

 秀真は外れた由羽のスキーを拾うと、少し離れた雪の斜面を掘り始める。

「こっちまで来られる?」

秀真が手を伸ばしてきた。

「うん、多分大丈夫」

 秀真の手を握り返すと、這いながら近づいて行く。力強い秀真の手に、恐怖を一瞬忘れた。

「こっちの斜面は風が直接当たらないから、少しはしのぎやすいはずだよ」

 秀真が掘った雪洞に、二人で潜り込んだ。狭いスペースなので、必然的に密着することになった。心臓がバクバク言っている。

 秀真がポケットから何かを差し出してきた。

「晩ごはん」

 チョコレートバーだった。

 悪戯っぽく笑う。

「秀真君の分は?」

「自分で持っているから大丈夫」

 たぶん、嘘。

「半分こ」

 由羽はチョコレートバーを折って、半分を秀真に渡した。

「ありがとう」

 にっこり笑う秀真を見ていると、ほんのり暖かい気持ちになる。

「約束の時間に遅れてごめんなさい」

 由羽は謝り、事情を説明した。

「気にしないで。結局会えたしね」

 チョコレートバーを囓り、秀真に寄りかかっていると、何だかふわふわして気持ち良くなってくる。意識が遠のき、秀真の声がだんだんと離れていった。かすかに聞こえた声。ありがとう?


「おい! 大丈夫か!」

 由羽は、怒鳴り声で目を覚ました。周囲は真っ暗になっている。

 秀真が掛けてくれたのだろう、真っ赤なスキーウェアが由羽に巻き付いていたが、本人の姿はどこにも無い。

 目の前にはヘルメットを被った知らないおじさんが数人。ヘッドランプが眩しい。救助隊?

 反射的に立ち上がろうとして、膝に激痛が走った。真っ赤なスキーウェアがハラリと落ちる。秀真君は?

「有畑由羽さんだね。大丈夫。すぐに搬送するからな」

 救助隊の隊員が由羽を救助用のそりに乗せ、ベルトで固定してくれた。

「秀真君は?」

「何だって?」

「友達がいるんです。秀真君、襟尾秀真君。私が落ちたあと、助けに来てくれたの」

 救助隊員の顔色が変わった。秀真のスキーウェアを持つ手が震えている。

「まさか、秀真君死んじゃったの?」

 泣きじゃくりながら聞いた。自分のせいだ。自分が滑落しなければ、秀真は危ない目には合わなかったのだ。

「彼なら大丈夫だよ。心配しないで」

 嘘だと分かった。寒いのに自分のスキーウェアを脱いで、私に掛けてくれたせいで死んでしまったのだ。

 私の馬鹿。秀真の馬鹿。全てを呪った。

 麓の病院に搬送された由羽の怪我は、全治三ヶ月。検査で異常が無ければ、一週間で退院もできるようだ。

 両親も駆けつけてくれたが、秀真を死なせてしまった罪悪感で、殆ど口もきけなかった。

 ベッドの枕元には、秀真が残した真っ赤なスキーウェア。救助された日から、誰も秀真のことは口にしていない。

 退院を翌日に控えた午後、見慣れないおばさんが病室に入ってきた。由羽の母親より、少し年上に見える。

「こんにちは。怪我の具合はどうから?」 

 穏やかな口調で聞かれる。 

「大丈夫です」

 由羽はボソッと答えた。

「初めまして、私は秀真の母です」

 秀真のお母さんが、私を責めに来たのだと思った。

「ごめんなさい、ごめんなさい。私のせいで秀真君は……」

 涙があふれ出す。

「違うのよ」 

 秀真のお母さんが慌てて手を振り、続けた。

「私はあなたに、お礼を言いにきたの」

「どうして? 私がいなければ、秀真君は死ななかったのに」

「違うの。あなたは信じないかもしれないけれど、秀真が亡くなったことは、あなたと何の関係も無いのよ」

 嘘に決まっている。

「これを見て」

 秀真のお母さんが見せたのは、スマートフォンのニュース記事だった。

『平成二十六年二月五日、G県からスキー教室に来ていた襟尾秀真君(十四歳)が、上級者コースで転倒してコース外に滑落。翌朝救助され病院に搬送されたが、死亡が確認された。関係者によると、当時は吹雪とガスで、視界が非常に悪かったとのこと……』

 小さな写真も添付されていたが、間違いなく秀真だった。

 五年前に秀真君は亡くなっていた? 嘘だ。だって一緒に滑ったし、由羽が滑落した時は助けに来てくれた。第一、秀真のスキーウェアが目の前にある。

「スキー場の人から、秀真のスキーウェアが見つかったって連絡をもらったの。五年前に事故が起きた時、いろいろ慌ただしくて秀真のスキーウェアが行方不明になっていたから、見つかったら連絡が欲しいってお願いしていてね。でも、五年間見つからなかった物が、今頃になって見つかったのが不思議だった」

 秀真のお母さんは、枕元のスキーウェアを悲しそうに見つめた。

「スキー場の方は、みんな良い人ばかり。秀真が亡くなったあと、ゲレンデが見える場所にお地蔵様を建ててくれたの」

 お地蔵様? インフォメーションセンターの横で寒そうにしていたお地蔵様を思い出した。

「インフォメーションセンターの人が見ていたのよ。スキーが上手な可愛らしい女の子が、お地蔵様に帽子とタオルを被せてくれたって」

 秀真と出会った時に感じた既視感。お地蔵様の優しい顔と、秀真の笑顔が重なった。

「お礼というのはそのこと。あなたよね?」

「はい。何故が分からないけれど、お地蔵様が呼んでいるような気がして」

 秀真のお母さんが、にっこり笑った。

「きっと秀真は、あなたと滑りたかったのね。可愛らしくて優しい、スキーの上手なあなたと」

 何も言えずにいる由羽に、秀真のお母さんが続ける。

「その女の子が滑落して、救助された時に秀真のスキーウェアを羽織っていたって聞いてたら、いてもたってもいられなくて飛んできたのよ」

 由羽に断ってから、秀真のお母さんが赤いスキーウェアを抱きしめる。

「偉かったよ、秀真。好きな女の子をちゃんと守り切ったね」

 お母さんの目から涙がこぼれ落ちる。次の瞬間、声を上げて泣き出した。

 秀真に助けられ、意識が遠くなった時かすかに聞いた、ありがとうの声を思い出し、その意味に由羽の涙も止まらなくなった。

 しばらくの間、二人で泣いていた。

「あの子はスキーが大好きだった。学校の作文でも、将来の夢はアルペンの選手だって書いていたの。ジュニアの大会では、何回か優勝もしていてね」

 空を見ながら、アルペンの選手になりたかったと過去形で話した秀真。その夢は絶対に叶わないことを知っていたのだ。

「あなたが会った秀真が、本当は五年前に亡くなっていたなんて話は信じてもらえないとは思う。でも、あなたが何も知らずに帰ってしまったら、秀真のことを一生負い目に感じただろうし、たぶん二度とスキーはやらないでしょう?」

 その通りだった。

「信じる信じないはあなたが決めることだと思う。だけどお願い。秀真が大好きだったスキーはやめないで。秀真も同じ気持ちのはずよ」

 由羽は決めた。秀真に恥ずかしい生き方は見せられない。姿勢を正して告げた。 

「私、アルペンの選手になる。秀真君みたいになれるか分からないけれど、絶対に優勝する」

「ありがとう。でも、無理はしないでね」

「大丈夫です。だけど、今度秀真君に会った時にちゃんと報告出来るように頑張ります」

「分かった。それなら一つお願いがあるの」

「お願い?」

「秀真のウェア、あなたに持っていて欲しいの。表彰台まで、秀真を一緒に連れて行ってくれないかしら」

それは、由羽がお願いしようとしていたことだった。

「大切にします」

 由羽はウェアを受け取り、ぎゅっと抱きしめた。


 ◇◇◇


 ウォームアップを終えた由羽は、プロテクターを着けてスタート順を待った。

 今回のコースは女子規定上限に近い標高差と旗門数の上、二本目は斜度がきつくなる難しい位置にオープンゲートとクローズドゲートが設置され、直後に減速が要求されるヘアピンコンビネーションが待ち構えている。

 出走が後になるほどコースが荒れて不利になるが、二本目の滑走順は一本目のタイムが遅かった選手からだ。一本目でタイムを伸ばせなかったポイント上位の有力選手が何人か先に滑り、コースアウトや転倒棄権していた。ジャンプアップのチャンスだ。

 スタートエリアに入った由羽の意識から全ての雑念が消える。体内を時間がゆっくりと流れ、神経が研ぎ澄まされていく。審判の合図が始まった。

「Ready」

「Attention」

 三秒の空白の後。

「Go!」

 スキーを下に下に向け、旗門に向かって突っ込んでいく。アイスバーンの急斜面を、ほとんど減速しないでターンイン。体重を乗せたエッジが、狙ったラインを一センチ単位の精度でトレースしていく。

 鍛え上げた背筋と下半身はスキーを流さず、旗門から旗門へとスパッと向きを変える。百分の一秒を削るため、旗門のフレックスポールを腕だけではなく脛で払いギリギリまで攻め込んだ。

 有力選手を飲み込んだ斜度が変わる地点の旗門へ、スピードを載せたままターンイン。初めて経験する速度域と旋回Gに膝が悲鳴を上げそうになるが、そのまま構わず肩から旗門に突っ込んだ。

 ほんの僅かなオーバースピード。

 ビビるな、私!

 大きく流されそうになるのを必死に押さえ込んだ。荒れたバーンに乗った外側のスキーが流れかけ、一瞬弱気が顔をのぞかせる。保ち続けていたコントロールの糸が、由羽の手から離れかかっていた。

『行け!』刹那、秀真の声が胸を打つ。

 弱気を無理やり追い出して、スキーを下に向けて立て直す。

 エッジが凍ったバーンを噛んだ。ギリギリのところで、離れかけていたコントロールの糸を引き寄せる。

 闘争心はまだ死んでいない。

『行け!』心の声。

 コースアウトを恐れず、最短距離を最小回転半径で繋ぎ突き進む。

 由羽は今、赤い弾丸。


【 完 】

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