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短編

あなたの妻になりたい

作者: 澤谷弥

 太陽がレナータ山脈に沈み始めるころ、街はオレンジ色に染められていく。マイリスは王城のバルコニーから眺めるこの色の変わりゆく風景が好きだった。それは朝と夕と。

 王城から扇形に広がる街並み。中心部は貴族たちの別邸と呼ばれるタウンハウスが立ち並び、そこから遠ざかるにつれ、庶民たちが住まう建物が密集している。だが、沈む太陽に染められている街は一つ。住んでいる者、住んでいる形は違っていても、この王都は一つの街。全ての人間に同じように夜が訪れ、そして夜が明ける。

 夕焼けの時間。たまに、青碧の飛竜が王都の上空を飛び回る。それは力強く、そして雄大に。

 飛竜はこのプレトニバ王国を守る神獣とも呼ばれている生き物である。だが、残念なことに今日は飛竜の姿は見えなかった。いつ、どのように、何のために、飛竜が上空を飛ぶのか、他国からこの国へとやってきたマイリスにとっては知らないこと。

 それに、飛竜については誰も詳しくは教えてくれない。みんな口をそろえて言うのは「飛竜はこの国の神獣である」ということ。

 だからこそ、知らないから焦がれてしまう。それは、憧れというものなのだろうか。


「マイリス。ここにいたのか」

 想いを馳せていた彼女は、豊かな銀色の髪をうねらせて、ハッと振り返る。そこにいたのは彼女の仮夫(かりおっと)であるランバルト・ヴォルテル・プレトニバ。このプレトニバ王国の王太子であり次期国王を約束されている男。

 彼の黒い髪は夕焼けに染められて、真っ赤に見えた。恐らく、マイリスの銀髪も彼と同じように真っ赤に染め上げられているのだろう。彼と同じ色に染まることが、少しだけ嬉しいと、マイリスは思っている。

「ランバルト様も、共に夕焼けを見ませんか?」

 だが、彼女がこのように誘ったとしても、この仮夫が彼女のそれにのった試しはない。ランバルトと共に時間を過ごすことができて嬉しいと思っているのもマイリスだけで、きっとこの仮夫にとってはどうでもいいことなのだろう。

「少し風が出てきた。身体が冷える前に、中に入りなさい」

 事務的にそう声をかければ、ランバルトは踵を返し、夕日を背に浴びながら部屋の中へと戻っていく。だが、マイリスはその仮夫の背を見送ることなく、彼に背を向けて街並みを見つめていた。マイリスの銀髪は風に弄ばれて、はらはらと揺れている。

 今日も仮夫であるランバルトは、隣に並んで立つことさえしてくれなかった――。

 ここにいるマイリスはランバルトの仮妻(かりつま)と呼ばれる存在であり、マイリスとランバルトは仮婚(かりこん)のと呼ばれる状態の二人。

 プレトニバ王族はなかなか子宝に恵まれないと言われている。だから王族の婚姻は、仮婚と呼ばれる期間を設けている。

 仮婚期間の夫婦はそれぞれ仮夫と仮妻と呼ばれ、この仮婚期間に子を授からなければ、二人の縁は無かったことにされる。その後、仮夫は新しい仮妻を迎えるし、お役目を終えた仮妻は、他の男性の元へと嫁がされる。嫁ぎ先候補もそこそこいい家柄の者が名を連ねていると聞いている。というのも、その嫁ぎ先も王族の仮妻を娶ったということは一つのステータスになるからで、仮婚が失敗に終わったという噂を聞き付ければ、我こそはと仮妻を求めるのである。

 マイリスは次第に紫色に染まっていく空を見つめながら、小さく息を吐いた。彼女はこのプレトニバ王国の者ではない。ここから南にあるトロナ小国の第二王女であった。

 トロナ小国は島国で閉鎖的な国。だからこそ、この大国であるプレトニバ王国と繋がりを持つことができるということは、トロナ小国の発展につながるとして、父親であるトロナ国王は大変喜んだ。

 そもそもこの縁談がトロナ小国へと舞い込んできたとき、誰よりも驚いたのはマイリスの父親であるトロナ国王だった。なぜ、あの大国の王太子がマイリスを妻にと指名してきたのか、何度も何度も首を傾げていた。それでも大国と繋がりを持つことができるという喜びと期待の方が大きかったのも事実。それにあの大国の王太子の妻となれば、マイリスも不自由はしないだろうという、娘を思う気持ちもあった。

 だらにトロナ国王は思い出す。今から十年以上も前に、プレトニバ国王がこの小国を訪れたことがあったということを。だから、きっとそのときの縁だろうと、彼は勝手にそう思っていた。

 マイリスはトロナ小国の未来を背負ってこのプレトニバに嫁いできたわけだが、彼との間に仮婚と呼ばれる期間があることを知らなかったし、この期間中に子を授からなければ、他の男性の元に嫁ぐようになるということも知らなかった。勉強不足と言われればそれまでなのだが、閉鎖的な島国の小国が、この大国のこういった独特な習慣を知ることは難しいことでもあった。

 そもそも書物に書かれていることでもないらしい。口頭でのみ伝えられている伝承のようなものだ、と、マイリスがこの国にきた日にランバルトから教えられた。

 初めて耳にしたその事実に、身体の震えが止まらなかったことを覚えている。それは、二年後には彼と別れて他の男の元に嫁ぐかもしれない、という可能性も秘めていたから。だからこそ、この二年の間に彼との間に子を授かりたいと、強く望んだ。

 にも関わらず――。

 マイリスが仮妻となってそろそろ一年が経とうとしていた。つまり、仮婚の期間は残すところ一年。だがこの一年、仮夫であるランバルトは、一度もマイリスと閨を共にしていない。つまり、子を授かるような行為を致していないということ。となれば、もちろん子を授かるわけがない。

 このままでは恐らく、今後一年も彼はそのような行為に及ぶことは無いだろう、と思っていた。

 どうやら彼は、マイリスと正式に結婚をしたくないようだ。

 いつの間にか、街は薄闇に包まれていた。吹き付ける風がマイリスの肌を撫でていけば、ふるっと震えてしまう。それが寒さからくるものなのか、彼の元ではないどこかに嫁がされるかもしれないという恐怖からくるものなのか、マイリスは知らない。

 薄暮に背を向け、マイリスは王城へと戻った。そろそろ夕食の時間だ。

 カツンカツンという彼女の足音だけが、虚しく響く。


 ランバルトと二人きりの夕食の時間は、いつも静かだ。マイリスが幾言か言葉をかけても、彼から返ってくる言葉は「ああ」か「そうか」のどちらかだけ。

 そしてこれから、夕食後の『二人の時間』を迎える。といっても、何をするわけではない。ただ、マイリスがランバルトの部屋を訪れ、時間を共に過ごすだけ。マイリスが何かを話しかけても、彼から返ってくる言葉は、やはり「ああ」か「そうか」のどちらかだけ。

(ランバルト様は、私のことをどう思っているのかしら)

 仮婚をしたとき、マイリスが十八歳でランバルトが三十歳であった。十二歳の年の差であれば、ランバルトから見たら、恐らくマイリスなんて子供のような存在なのだろう。

(だったら、最初から私を仮妻として望まなければいいのに――)

 マイリスは手の中に握りしめた小さな缶を見つめていた。これは、マイリスがランバルトの元に嫁ぐときに母親が手渡してくれたもの。

 ――これは、トロナの王族の代々伝わるお茶よ。不思議な力を持っているのよ。

 ――なかなか思っていることを口にするというのは難しいことなのよね。

 ――だからね、どうしても不安なときはこのお茶を飲みなさい。なかなか口にできないことも、このお茶の力を借りれば口を告いでくるようになるから。

 ――ま、迷信だけどね。それでもお茶のせいだと思っていれば、思っていることも言いやすいのかもしれないわね。

 恐らく母親はマイリスがこうなることをわかっていたのだろう。そもそもプレトニバ王国にトロナ小国から嫁ぐということがおかしい話なのだ。プレトニバにとってトロナ小国なんて、政治的に利用できる価値もあるとも思えない。

 だからこそ彼から愛されたいと思うのは贅沢な願いというもの。

 ランバルトの部屋の扉の前に立ち、マイリスはきゅっと唇を噛みしめた。トントントンと控えめに扉を叩く。

「ランバルト様。マイリスです」

「どうぞ」

 このようにマイリスが毎夜、彼の部屋を訪れても彼は拒まない。

 ランバルトの部屋はいつ来ても落ち着いた空気が漂っていた。そんな空気の中、彼は寝台の脇にあるソファにゆったりと座って、何やら本を読んでいた。よく見ると、ソファの前に置いてある小さなテーブルには、本が三冊ほど積み上がっていた。

 別にこれは今に始まったわけでもない。彼女がこの時間にここを訪れることをわかっているはずなのに、彼はこうやって本を読んでいるのだ。

 その本は、この国の歴史の本であったり、会計学であったり、心理学であったりと、本のジャンルも様々なもの。これからこの国を支えていく国王の地位につく彼にとって必要な知識であることはわかっているのだが、それでもマイリスは寂しいと思ってしまう。

 そう思ってしまう理由は、彼の視線が本から逸れることがないから。部屋を訪れたマイリスに、一度も視線を向けてくれないから。

「今日はトロナのお茶を淹れますが、よろしいでしょうか」

「好きにしろ」

 言い方は冷たいが、考えてみれば彼は「駄目だ」とは言わない。いつも「好きにしろ」としか言わない。そしてその「好きにしろ」と言うときでさえ、彼女を見ることは無いのだが。

 なぜ目を合わせてくれないのか。

「どうぞ」

 マイリスがランバルトの前にお茶をおけば、彼は黙ってそれを口元に運ぶ。そして、一口飲めば、また本に視線を戻す。その間、マイリスは必要な時間が過ぎるまで彼の隣にいる、というのが『二人の時間』の過ごし方なのである。

 これは別に決められたものではない。ただ、なんとなくランバルトがそんなことを言い出して、そして断る理由が見つからないマイリスもそれを受け入れてしまった。どんな形であれ、彼の隣にいたいと、そう願うところがあったから。

「変わった香りがするな」

 このようなことをランバルトが口にすることは珍しい。もしかして、これもお茶の効果なのだろうか、とマイリスはいい方に考えてしまう。

 いや、そもそもこのお茶にそんな力はないはず。全ては迷信。都合のいい解釈。それでも、嬉しいという気持ちは変わらない。

「はい。トロナは島国ですから、国中、潮の香りがしております。このお茶は、お茶といっても海藻から作られているお茶なのです」

「そうか」

 そうか、とランバルトが口にすればこの話題は終了。これ以上の会話はない。それでも彼がこのお茶に興味を持って尋ねてくれたことは、今までにない大進歩だろう。きっと、それがこのお茶の力なのだ。

 マイリスもゆっくりとお茶の入ったカップを口元に運んだ。懐かしいトロナの味がした。これのどこが不思議な力を持つお茶なのだろうか。いつもトロナで飲んでいた海藻茶の味しかしない。

 ただただ時間は静かに流れていく。この部屋には、ランバルトが本をめくる音しかしない。その間、マイリスはただ彼の隣に座っているだけ。そしてたまにカップに手を伸ばして、懐かしい味で身体を満たすだけ。

 最後の一口を飲み終えた。もう、マイリスがこの部屋にいる口実がなくなってしまった。

「ランバルト様。そろそろお時間ですので、私は部屋に戻ります」

「ああ」

 やはり、彼は本から視線をあげない。

「ランバルト様。今日は何の日かご存知ですか?」

 マイリスがそう尋ねて初めて、彼は読んでいる本からやっと顔をあげた。

 目が合った。

 ドクンとマイリスの心臓が大きく跳ねる。

「何の日だ?」

 眉根を寄せて、ランバルトは尋ねてきた。だからマイリスは「何でもありません」と答えて席を立つ。

「おやすみなさい」

 バタンと扉が閉じれば、二人を隔てる壁がより一層高くなったような気がした。

 零れ落ちそうになる涙をこらえながら、マイリスは自室へと戻った。

 自室に入った途端、ハラリと涙が頬を伝った。


◇◆◇◆


 マイリスとランバルトの部屋は中扉で繋がっているものの、この一年、その扉が開いたことはなかった。マイリスもランバルトの部屋へ向かうときは廊下を使っている。鍵はかかっていないけれど開いたことが無い中扉を、マイリスは心の中で「開かずの扉」と呼んでいた。

 カタ、という音がしてマイリスは目が覚めた。どうやら、ランバルトの部屋から戻ってきてから、ソファに座り込んだままうたたねをしてしまったようだ。頬を伝った涙が乾いたような引き攣れがあった。

 そして、その開かずの扉が、ギィと重々しい音を立てて開いたのだ。

(え、ランバルト様がいらしたの?)

 そう思った途端、マイリスの心臓はトクトクと早馬が駆け出すような速度で鳴り始めた。望んではいたことだけれど、絶対にあり得ないと思っていたため、心の準備ができていない。

「ランバルト、様?」

 仮夫の名を呼んでみる。だが、返事はない。姿も見えない。もう一度、名を呼んでみる。

「ランバルト様でいらっしゃいますか?」

「キゥッ」

 変な鳴き声が聞こえた。どこからどう聞いてもランバルトの声ではないし、ランバルトの鳴き声でもない。

 開かずの扉から出てきたのは、ヨタヨタと歩く小さな青碧色の飛竜だった。飛竜の背丈はマイリスの膝下くらい。小さいけれど、でっぷりとしていて、だから歩く姿がヨタヨタとしているのだ。

 マイリスはソファから立ち上がって飛竜へとゆっくりと近づいた。これはまだ子供の竜、つまり子竜だ。

 マイリスは夕焼けの空を舞う飛竜の姿が好きだった。その姿を目にすることができた日は、勝手に「今日はいい日」と思っていた。空を舞う飛竜は、どこか高貴でそしてはかなげだった。飛竜は、何を思って空を飛んでいるのだろう、と、そう思ってしまうほど。飛竜のように、自分も自由に空を飛び回ることができたのであれば、という思いもどこかにはあった。

 だけど空を舞うことができる飛竜は大人の飛竜。つまり成竜。

 一度だけ、飛竜はどこにいるのかをランバルトに尋ねたことがあった。そのとき彼は「王城にいる」とだけ答えた。

 もしかしてこの子竜は、あの大きな飛竜の子供なのではないだろうか。もしかして、迷子、いや迷竜なのでは、という考えがマイリスの頭の中を駆け巡る。

「どうしたの? あなた。迷子になったの?」

 ヨタヨタと歩く姿が可愛らしくて、マイリスは膝を折ると子竜に腕を伸ばした。その子竜は人懐こいのか、マイリスの方にヨタヨタと歩いてきてその腕の中にすっぽりと収まってしまう

「抱っこしてもいいのかしら?」

 子竜が嫌がっているようには見えない。マイリスはぬいぐるみを抱き締めるように子竜を抱き上げた。

「鱗だから冷たいのかと思ったら、温かいのね。あなた」

 マイリスは子竜の顔に頬ずりをすると、子竜を抱きかかえたままソファの方へと移動する。

 ソファに座り直したマイリスは、膝の上に子竜を座らせた。子竜が礼儀正しくちょこんと座っている姿が、可愛らしい。

「あら? あなた。あの時の子に似ているわ」

 ちょこんと座った姿を見て、マイリスは思い出した。

 あの時の子――。

 それはマイリスが五歳の時に出会った子。

 今から十年以上も前の話――。

 幼いマイリスがトロナの海岸で遊んでいたとき、砂浜の上に何かが倒れていた。

(なんだろう?)

 好奇心旺盛なマイリスは、侍女が制止するのも聞かずに、それに怯えることなく近づいていった。

 それは飛竜の子供、小さな飛竜。

 侍女が「飛竜、ですね。どうやら子供のようです」と言ったから、その倒れている何かが飛竜と呼ばれる生き物であることを知った。そして、子供の飛竜である、ということも。

 マイリスも飛竜という存在は絵本などで知ってはいたが、見るのは初めてだった。だからそれが飛竜であるということに、侍女から言われるまで気付かなかったのだ。

 ただ、その小さな飛竜はぐったりとしていて、息さえしていないように見えた。だから、慌てて屋敷に連れて帰ったことだけは覚えている。

 両親と姉は、マイリスが大泣きしながら帰ってきたことに驚き、さらに彼女の腕の中にぐったりとした小さな飛竜がいたことに、さらに驚いていた。

 マイリスは獣医の指示を受けて、小さな飛竜の治療と看病をした。その甲斐があったのか、飛竜の子供は元気になって飛び立っていった。

「でも、もう十年以上も前の話よ。飛竜は二年で成竜になると言われているものね。あなたがあのときの子であるはずはないわよね」

 マイリスがぎゅっと子竜を抱き締めると、子竜は「キゥ」と声を出す。

「なんか。あなたになら、なんでも話せそうな気がしてきたわ……」

 もしかして、先ほどランバルトの部屋で飲んだお茶の効果が出てきたのだろうか。

 いや、違う。

 ただ、人恋しかったのだ。話し相手が欲しかっただけ。だって、ランバルトは話をしても「ああ」か「そうか」しか答えてくれないから。

 ここに来るときに、侍女すら連れてくることができなかった。全てこのプレトニバ王国の方で準備をするから、というのが理由。恐らく、マイリスが仮妻として迎え入れられたからだろう、と今になって思う。

「ねえ、私の話し相手になってくださらない?」

 マイリスが尋ねると、膝の上の子竜は「キゥキゥ」と首を縦に振りながら暴れていた。いいよ、と言っているのだろうか。

「嬉しいわ」

 マイリスはもう一度子竜に頬を寄せた。

「ねぇ、あなたに名前をつけてもいい?」

「キゥキゥ」

 子竜が二回鳴くときは、いいよと言っているとき。と、マイリスは勝手にそう思っている。

「どんな名前がいいかしら……。ランちゃん、でもいい?」

「キゥキゥ」

「うふふ。ランちゃん。あなた、かわいいわね」

 ランちゃん。

 それはもちろんランバルトからとったもの。ランバルトに向かって「ランちゃん」なんて呼んだら、恐らくあの目を吊り上げて「やめろ」と言ってくるだろう。だから、子竜に向かって「ランちゃん」と呼ぶのだ。

「ランちゃんは、私のことを知っているの?」

「キゥキゥ」

「私ね。バルコニーから、夕焼けを見るのが好きなの。たまに飛竜が飛んでいるのよ。それを見ているだけで、なんか、ここに来て良かったなって思えるの。でも、いつもね。私の夫がね、早く部屋に入るようにって言ってきて、邪魔をするのよ」

「キゥ」

「一緒に夕焼けを見ましょう、と言っても、彼は一人で部屋に戻ってしまうの」

 そこでマイリスは飛竜をぐっと抱きしめる。

「きっと、ランバルト様は、私のことが嫌いなのでしょうね。あの方の妻に相応しくないのよ、私。だから、仮婚の間も、子作りに励もうとなさらないの。だから、あと一年でランバルト様とはお別れ。だから、あなたともお別れね」

 こつん、とマイリスは飛竜の頭に自分の頭を重ねた。

「私ね。ランバルト様の仮妻に選ばれて、本当は嬉しかったの。ランバルト様がトロナの国を訪れた時、私は遠くからあの方を見つめていたわ。ああ、素敵な方だわって、そう思った。でも、私とランバルト様は年も離れているし。だからね、まさかランバルト様が私のことを望んでくださるとは思っていなくて。本当に、本当に嬉しかったのよ……」

 最後の方が鼻声になってしまったのは、目頭から涙が溢れそうになってきたから。

「今日はね。仮婚をして一年経った日なの。だけど、ランバルト様は覚えていなかったみたい。さっさと仮婚の時期が終わればいいと、そう思われているのね。なぜ、私なんかを仮妻に選んだのかしら」

 目頭から涙が溢れてきた。止めようと思っても、次から次へと溢れてきてどうしようもない。

「キゥ」

 子竜がその涙をペロッと舐めた。

「あなたは優しいのね。あなたになら、何でも言えそう。私ね、本当にランバルト様のことが好きなの。仮妻ではなくて本当の妻になりたいと思っているの。だけど、無理そうね。あの方の妻になるには子供を授からなければならないけれど、子供を授かるようなことをしていないのだから」

 次に子竜は、マイリスの頬をペロっと舐めた。

「あと一年で、私はここを出ていくわ。そのとき、あなたも一緒に連れて行けたらいいのに」

 飛竜はこの国の神獣だ。連れていくことなどできないことをわかっていて、マイリスはそう口にした。だけど、やはり飛竜は好きだった。あの海岸で見かけた時。夕焼けの空を舞う時。孤独でありながら、どこか愛を感じる飛竜。

「こんなに、誰かと喋ったのは久しぶり。ランちゃんは聞き上手さんなのね」

 そこでチュッと子竜の頭に唇を寄せた。

「たくさん、お話をしたら眠くなっちゃった。あなたを抱っこしながら眠ってもいいかしら?」

「キゥキゥ」

 マイリスは静かに微笑んで、子竜を抱き締めたまま寝台へと潜り込んだ。


◇◆◇◆


 ぐっすりと眠ったような気がする。いつもの部屋だ、と意識が戻った時、何やら温かいものに包まれているような気がした。

 ああ、そうだ。昨日は子竜と一緒に眠ったのだ。

「くすぐったいわ、ランちゃん……」

 子竜が何やらいたずらをしているのだろうか。先ほどから胸元でさわさわと暴れている。

「もう、やめなさいって……」

 ぼんやりとする頭で、さわさわと暴れているものに触れる。

「えっ」

 マイリスは驚いて目が覚めた。微睡んでいたはずなのに、一気に現実へと引き戻された。

「ランバルト、様。どうしてここに?」

 一緒に眠ったはずの子竜がいない。代わりに、ランバルトが彼女を包むようにして、一緒に横になっていた。

「もう。ランちゃんとは呼んでくれないのか?」

「え?」

 マイリスは思わず目を見開いてしまった。なぜ彼がその名を知っているのか。

「あの、子竜は? 子竜がいませんでしたか?」

「子竜? 子竜とはランちゃんのことだな?」

「え、どうしてランバルト様がその名前を?」

(そして、ランバルト様はどこを触っているのかしら?)

 マイリスがそう思ったのにも理由がある。彼の大きな手がすっぽりとマイリスの胸元を包み込んでいたから。

「マイリス。君は何か誤解をしているようだが、俺は、君のことを愛している」

「え」

 突然、愛を囁き出した仮夫(かりおっと)が信じられない。そして、未だに胸元に触れている彼の手が信じられない。

「てっきり、俺の方が君に嫌われていると思っていた」

 そこでランバルトは苦笑する。だが、マイリスはこんな彼の表情を見るのも初めてのこと。

 いつもの彼は、仮面を被っているかのようにむっつりとしている。

「ランバルト様。とうとう頭がおかしくなられたのですか?」

 そう考えるのが妥当というもの。

「酷い言われようだな。だが、そう思われてしまっても仕方ないようなことを俺はしてきたんだな……」

 少し、話をしてもいいか? と彼は言う。

「このままで、ですか?」

 マイリスがこのままでと尋ねるのは、未だにランバルトの手がマイリスの胸元をすっぽりと覆っているからだ。

「ああ、このままがいい。そして、俺の話が終わったら、このまま子作りに励みたい。君を仮妻で終わらせたくない」

 突然の展開に、マイリスの頭はついていかなくなった。いつもより多めにまばたきをしてしまう。

「本当にすまない。全部、俺のせいだ。俺の方こそ、君に嫌われていると思っていたから。まだ幼い君を、無理矢理、あの国から連れ出してしまったから……」

 申し訳なさそうに彼は言葉を続けた。

 ランバルトは、年も年だけに早く仮妻を娶るようにと周囲から口うるさく言われていたようだ。だが彼には心に決めた女性がいた。だから、それを正直に口にして、それを跳ねのけていたのだが、「だったら、その女性を仮妻にしろ」と言われる始末。

 しかし彼女はまだ幼い。十八になるまで待ちたい、というランバルトの言葉に周囲も渋々と納得する。

「ですが、どうしてランバルト様は私を?」

 今の話を聞く限りでは、彼が心に決めた女性というのが、マイリスになる。

「君は、何年か前に子竜を助けたことがあっただろう?」

 それは昨日、ランちゃんにも伝えたこと。

「はい」

「それが、俺だ」

「え」

「このプレトニバの王族は竜人族の血を引く。国王に即位して、初めて成竜に姿を変えることができる。君が見ている飛竜は、父上だよ。俺はまだ、子竜に姿を変えることしかできない」

 ここまでくれば、鈍感なマイリスだってなんとなく気付く。

「では、昨夜の子竜のランちゃんは……」

「俺だな」

 本人に向かって、なんてことを言ってしまったのか。このままシーツをかぶって顔を隠したいくらいなのに、それができないのはランバルトが、片手でがっしりとマイリスを抱き締めているからだ。

「まさか、あのタイミングで子竜になるとは思ってもいなかった。だが、これはある意味チャンスかもしれないと思った。君が、昔のことを思い出してくれるチャンスだと」

 そこでランバルトは微笑んだ。彼のこのような笑顔も、マイリスは今まで見たことがなかった。

「私は、あの子竜のことを忘れたことなどありません」

「そうか」

「ですが、ランバルト様は、私のことがお嫌いなのでしょう? その、ずっと子作りに励もうとなさらなかったから」

 仮婚のうちに子を授からなければ、二人の縁はなかったものとされてしまう。そういった行為に及ばなければ、子など授かるわけもない。だから、仮妻が気に入らないときは子作りに励まなければいいのだ、と、誰かがこっそりと言っていた話を、マイリスは偶然聞いてしまった。

 だから、自分も()()なのだと思っていた。

「うー、あー、まぁ、それはだな、その」

 と、歯切れが悪いのは彼らしくもない。

「俺の方こそ、無理矢理君をこちらに連れてきてしまったし。その、君に嫌われているんじゃないかと思っていた。だから、二年経ったら、君を解放しようと、そう思っていた。この二年の間だけでも、好きな人と共に時間を過ごしたい、とそう思っていたから。だから、竜人族のことも、君には教えていなかった」

 ランバルトは十年以上も前から、彼女に惹かれていた。当時、五歳であった彼女に。子竜の姿で出会ってしまったから、中身が成人を間近に控えた男性だったとしても、きっと感覚は彼女と同じ子供だったのかもしれない。

「ランバルト様は、夕焼けがお嫌いですか?」

「嫌いではない。だが、夕方は急に風が冷たくなる。君が風邪をひいたらどうしようかと、いつも思っていた」

 だから彼は、早く部屋に戻れといつも言っていたのだ。

「そうだったのですね」

 ランバルトも不器用な男なのだろう。いや、二人の年の差がお互いを素直にさせない何かががあったのかもしれない。

 お互いがお互いを思うほど、気を使ってしまい、本音を口にできない何かが。

「それで。先ほどからなぜ、ランバルト様は私の胸を触っているのですか?」

 未だにマイリスの胸元はランバルトの手に覆われている。

「ああ、まあ。これは不可抗力というやつだ。子竜から人間の姿に戻った時に、この状態だった。だが、あまりにも触り心地がよくて」

 口元を緩めているこんなランバルトを、マイリスは見たことがない。

 そんな彼を目にするたびに胸が苦しくなっていく。それは、募る思い。伝えたかった想い。

「ランバルト様」

「な、なんだ?」

「好きです。私をあなたの妻にしてください。私は、あなたの妻になりたいのです」


 すれ違っていた二人の想いが一つに交じり合う。

 どちらが先にというわけでもなく、寄り添って身体に触れ合っていた。

「ああ、ずっと。こうやって君に触れたかった。だけど、君は小さいから壊れてしまうのではないかと、俺のような荒くれ者が触れていいのかと、そう思っていた」

「ランバルト、さま……。覚えて、いますか?」

 彼女の胸元に顔を寄せていたランバルトは、彼女の質問に答えるために顔をあげた。

「ランバルトさまが……、私の帽子を拾ってくださったことを……」

 潮風によって飛ばされた白い麦わら帽子。それを拾ってくれたのが、ランバルト。まだ十歳の子供だったマイリスだけど、ランバルトに憧れを抱くには充分な時間と出来事だった。

 帽子を受け取った彼女は、つい彼の顔に見惚れてしまったのだ。家族とは違う雰囲気を纏うその男に。

「忘れるわけがないだろう。あれは、君に会いたくて俺がお忍びでトロナを訪れた時だな」

 当たり前のことを聞くな、とでも言うかのように彼は再び彼女の胸元に顔を埋めた。

 好きな人から愛されるということは、これほどまで心が満たされるものなのだろうか。

 押し寄せる快楽に、これから訪れるであろう未来に二人は想いを馳せる――。


 いつの間にか、眠ってしまっていた。重い瞼をなんとか開けて、ぼんやりと天蓋を眺めていたマイリスに気付いたランバルトは、優しく声をかける。

「昨日の、君がいれてくれたトロナのお茶。あれは、変わったお茶だったな。あれを飲んだら、私は子竜になってしまった。いつもであればもう少し制御ができるはずなのだが」

「あれは、ここに嫁ぐときに母がもたせてくれたものです。お茶のせいにすれば、本音を言い合うことができるから、と。きっと、母のことだから、私を励ますためにそう言ったのかと思ったのですが」

 ぼんやりとした頭で、ぼんやりと答える。

 ランバルトの方が十二も年が上であることを、あの母親は心配していた。マイリスが言いたいことを言えずに、心の中に溜め込んでしまうのではないか、と。

 だから、あのように言って、飲みなれたトロナのお茶をもたせてくれたのだろう、とそう思っていたのだが。

「どうやらあのお茶は本物のようだな」

 ランバルトは苦笑する。それは、自らの意思に反して子竜になってしまったからだろう。

「だが、君はあのお茶を毎日飲んだ方がいい」

「え?」

 驚いて、ランバルトに顔を向ける。彼は優しく彼女の瞳を覗き込む。

「君は、俺に対して我儘を言わない。もっと、君の我儘を聞きたい。本心を聞きたい」

「それは……。ランバルト様がランちゃんになってくださるなら、いいですよ」

「できれば、ランちゃんにではなく、俺に直接言って欲しいのだが……」

 そこでランバルトは、軽くマイリスの唇に、自身の唇を寄せた。離れるのが名残惜しいと思えるくらい。

「マイリスは、飛竜が好きなのだな。いつも見ているだろう? 父上が言っていた」

 あの飛竜が国王であること。それは昨夜聞いたこと。

「ランバルト様も、この国の国王となった日には、子竜から成竜へとその姿を変えるのですか?」

「そうだ。王位継承権を持つ者は、竜の姿をとることができる。だが、それも継承権が上位であればあるほど力は強く、そして継承権を失えばその力を失う」

 ランバルトは先ほどからマイリスの銀色の髪を優しく梳いている。

「俺はまだ国王ではないからな。空を飛ぶのも、一苦労だ。だから、あのとき、あそこで力尽きた」

 それが二人の最初の出会い。

「その。もしかして、こちらの王族が子に恵まれにくいというのは……」

「恐らく、俺が子竜だから、だろうな。こんなことなら、遠慮などせずに、一年前から君を抱けばよかった。あと一年しかないが、もしそれまでに子を授からなかったとしても、俺は君を手放すつもりはない」

 マイリスは、ぎゅっと彼に抱き寄せられた。触れ合う素肌から感じる彼の体温。そして、聞こえてくる心音。

「私も。私も、ランバルト様以外のところに嫁ぎたくありません」

「そうか。なら、もう少し子作りに励む必要があるな」

「え?」

 あっという間にマイリスはランバルトに組み敷かれた。


◇◆◇◆


 半年後――。

 マイリスは無事に新しい命を授かり、仮婚の二人は正式に結婚をした。

 結婚式は子供が産まれた後に盛大に執り行う予定らしい。きっとそのときは、青空に恵まれ、この空には若い飛竜が舞うことだろう。



【完】

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